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第597回 株式会社ビィバリュー 代表取締役 荒井國明氏
update 17/07/04
株式会社ビィバリュー
荒井國明氏
株式会社ビィバリュー 代表取締役 荒井國明氏
生年月日 1949年7月1日
プロフィール 神奈川県三浦郡葉山町に生まれる。9人兄弟の末っ子。明治大学、中退。喫茶店を開業したのは22歳の時。以来、徐々に店舗数を拡大し、現在に至る。オーシャンビューのイタリアレストラン「Ristorante Amalfi」をはじめ、神奈川県、東京に多数、出店。
主な業態 「Ristorante Amalfi」「Amalfi DELLASERA」「とんかつとカフェ あら珠」「Amalfi CAFFE」
企業HP http://be-value.co.jp/

22歳、鎌倉にて創業。

「小町通の入り口の地下だね」と、荒井氏は語りだす。「22歳の時だから、もう47年前になる。あの頃はananって雑誌がブームでね。鎌倉もすごいことになっていた。えぇ、賑わってました。でも、そのおかげでお金の重さを忘れかけた時もあったほどです」。
JR鎌倉駅を降りれば、鶴岡八幡宮につづく道がある。その道に平行して走る細い道が小町通である。「当時は、景気も良かったし、だいたい今みたいに店がいっぱいあったわけじゃなかったからね」。
鎌倉に行って、江ノ電に乗って。
たしかに、当時、鎌倉は憧れですらあった。

ヨットハーバー、別荘と違う、もう一つの葉山。

「もともと私は葉山の生まれなんです。9人兄弟の末っ子です。葉山といっても、うちは海ではなく、山のほうで農家をしていました。米に野菜。私はいちばん下でしょ。兄たちは何だかんだと理由をつけて遊びに行ってしまうもんだから、いつも私が畑仕事をしていました」。
「葉山からは、遠くは富士山まで望むことができるんです。山と言いましたが、海まで2キロ程度。そういう意味では自然に恵まれた、風光明媚なところです。今じゃ田んぼもぜんぜんないし、農家をしている人も少なくなってしまいましたが、当時は田んぼと畑ばかりで。ガスも水道もなかった。ガスは炭でしょ。水道は井戸ですよ。うちは牛も、ヤギも飼っていました」。
しかし、田舎という、今のイメージでひとくくりにはできないようだ。「私らの代はベビーブームです。小学校は53人のクラスが13組まであった。生徒が多いもんだから、それなりに広い運動場なのに、狭くて、狭くて(笑)」。
「勉強はできなかったが、スポーツはできました。とくに野球はうまかった。遠投もいちばんだったからね。学校のいちばんです」。
荒井氏が、中学に上がる頃にはいちばん上の姉はすでに30代の半ばを超えている。「姉の息子と私は2歳半しか離れていないんです(笑)」。日本中に子どもたちが溢れていた。
荒井家も親戚を含め、とにかく大家族だった。

勉強をしたくても、できない大学?

「今の人にはぴんとこないだろうけど、私らの頃には学生運動っていうのがあってね。大学も閉鎖。やりたくても勉強一つできやしなかったんです」。
学生運動というのは、学生たちが行う社会運動のことである。代表的なものは、1960年の安保闘争、1968年〜1970年に亘る全共闘運動・大学紛争を挙げられる。荒井氏がいうように、打ち手のない大学は、大学そのものを閉鎖した。
荒井氏が進んだのは、明治大学だったが、紛争の波は、そちらにも押し寄せたのだろう。「このままでは、まっとうな勉強もできない」と3年生の時に中退する。「私は英語が好きでね。でも、それも勉強できないでしょ。意味ないなぁって」。
「政治に関心がなかったわけじゃない。でも、学生たちが行う運動にはまったく興味がわきませんでした」。しかし、そのあおりで、一浪までして入学した大学を辞めることになる。
「うん、あれはまさに私のターニングポイントですね。あのまま大学にいたら、また違った人生になっていたかもしれないからね」。
「ともかく、当時の私は、英語に興味があったから最初は貿易の会社を興そうと思っていたんです。だいたい28歳くらいかな。それくらいで、できればいいかな、と。ただ、貿易なんてやるには、かなりのお金がいるでしょ。それで、あんまりしたくなかったんだけど、姉や兄が飲食店をやっていたのをみていたからね。飲食やって、お金を貯めようって思ったんです。いったん、入ると抜けられない世界なんて知らなかったから(笑)」。

チンピラに、テキ屋に、シンナーをやる学生たち。

「それで、最初に言ったように、22歳で喫茶店を開業するんです。それで資金を貯めて、4年して、今度はハンバーグショップを2店舗オープンします」。
「なぜ、喫茶店じゃないかって。喫茶店は運営は確実なんですが、スタッフにいい人が来ないんです。だから少しでもマシな、と言えば怒られるけれど、いいコックさんに来て欲しかったからハンバーグショップにしたんです。それでも苦労は尽きなかったけどね」。
従業員だけの問題ではなかったようだ。
「当時はチンピラが多くって。それに八幡宮があるから、テキ屋も多い。高校生はシンナーをやるんだな、うちの店で。ショバ代も取りに来る。でも、絶対、払わなかった。だから、いやがらせもありました。ゴミ箱といっしょに階段を落とされ、ゴミだらけになったこともある。私は、日経流通を創刊の時から読んでいるんです。その頃、キャバレーハワイの創業者の苦労話が掲載されていて、みんなたいへんなんだな、って。私自身と重ねて読んでいました」。

招待され、イタリアに向かうこと3回。

「29歳になって、また2店舗出店します。もともとは28歳で貿易の仕事をしているはずなんですが、一度、始めるとそうそう抜けられない。店をだすのに借金もするしね。で、もう28歳を過ぎちゃったわけですが、29歳の時に、藤沢のデパートにパスタ料理の店と洋食のレストランを同時にオープンするんです。もう、辞められないですよね。だって、レストランだけで1億かけたわけですから」。
パスタ料理の店は流行った。「神奈川県でいちばんバリラを売った店ってことでイタリアにも3回、招待されています」。
「しかし、一方で広い60坪のレストランの方が、ぜんぜんだめだったんです」。
億をかけ、勝負にでた店だったが客がつかない。60坪の店で、月商400万円、いくかいかないか。家賃だけで月110万円だった。
「銀行も相手にしてくれなくなって、知り合い10人から5000万円借りたのも、あの時です」。
いままでいちばん苦労した時といえば、その時。「理想を大事にする私自身の葛藤もあったんですね。このレストランはいわば私の理想をかたちにした店でした。でも、時代的にも早すぎたんでしょうね。価格設定も間違っていた。理想を追いかけるあまり、足下をみてなかったと言われればそれまでです」。
借金がふくらむ。
「1年して、価格を下げました。そうしないと、もうどうしようもないと。それは、私の理想との決別でもあったんです」。
しかし、荒井氏が「理想」を捨てていなかったのは、今ある多くの店をみれば一目瞭然だ。
ロケーションもあるのだろう。今現在、荒井氏が展開するレストランは、七里ヶ浜にあるオーシャンビューのイタリアレストラン「Ristorante Amalfi」をはじめ、いずれの店も、洗練されている。たぶん、一度の決別は、新たな誓いとともに、さらなる理想を追いかける旅となったんだろう。
「イタリアやフランスにも、アメリカにも行きました。ヨーロッパの国に比べ、アメリカは何事も急いでいるなっていうイメージです。私も最初に、その洋食のレストランをだした時には、とにかく急いでいたんでしょうね。『長く』という発想がなかった。それがいけなかったのかもしれません」。

「いい店をつくろう」。

東京駅丸の内北口「オアゾ」にも、イタリアレストランを出店している。「東京に進出することで、一気に名を知られるようになりました」。
鎌倉、七里ヶ浜から、東京へ。注目度が一気に上がる。それはそうだろう。「鎌倉」「七里ヶ浜」というだけで、マリンブルーの海と空をイメージしてうっとりする。しかも、そのなかで育ってきたレストランである。注目されないはずはない。
「いい店をつくろう。それは、ずっと思ってきたこと。言い換えれば、そのためにせっせとはたらいてきたのかもしれません」。
まだ荒井氏は理想を追いかけているそうだ。
荒井氏の頭のなかにある、「いい店」とはどんな店なんだろうか。
ベビーブームと学生運動。
ヒトが群衆となることで生まれる熱のなかでも己を失わず、まっすぐ歩いてきた荒井氏のなかにある理想。それには生まれ故郷である葉山でみた原風景も、あるに違いない。
いずれ、その理想は、「店」となって、かたちづくられるはずだ。
しかし、それでもなお荒井氏は、つぎの「理想」を追いかけているような気がした。

思い出のアルバム
 
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