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第598回 中里有限会社 代表取締役 中里浩士氏
update 17/07/11
中里有限会社
中里浩士氏
中里有限会社 代表取締役 中里浩士氏
生年月日 1972年2月18日
プロフィール 東京都中野区に生まれる。全寮制の高校に進み、卒業後、社長になることを決心。様々な職種を経て、飲食に巡り合い、店長として銀座の名店「くらのすけ」を立ち上げに参加する。独立は、32歳の時。銀座で独立開業し、いまも銀座をホームグランドに「酒菜庵ちゃぼうず」など、5店舗を経営している。
主な業態 「ちゃぼうず」「くし家串猿」他
企業HP http://nakazato-c.com/

全寮制高校の日々。

「イチ、ニィ、サン、シィ、ゴ」。朝は決まって点呼から始まった。全寮制の高校秋川高等学校に進んだ中里氏は高校3年間、寮生活を送っている。消灯は夜10時。自宅に帰るのは、月2回と決められていた。
「全寮制の学校に進んだのは、私の人生のなかで大きな意味を持ちます。協調性が、ぜんぜんなかった私が、3年時には生徒会長ですから。だいたい想像いただけると思います(笑)」。
生徒数は1学年240人。しかし、卒業するのは160〜180人だったそうだ。どういう生徒たちがいたか、こちらもほぼ想像できる。
「この学校で学んだことは、人は1人じゃ生きていけないということです」。
1年生の時にあてがわれたのは、8人部屋。当然、いままで顔も知らなかった同居人たちである。そのなかで、暮らすにはたしかに協調性が重要だった。
「顔をみることで、相手の気持ちを推し量る感性や洞察力など、ある意味、強調性とともにリーダー的な気質も、この3年間で育まれました」。たしかに、中里氏だけではなく、卒業生のなかにはリーダーシップに優れ、のちに起業した人が多いそうだ。
むろん、まだ高校生。派閥も生まれ、ささいなことで激突することもあった。そのなかで、中里氏は一目置かれていたのではないだろうか。喧嘩で負けたことはないそうだ。
これが、中里氏の高校時代の話。では、なぜ、全寮制の高校に進学したのか、時間をさかのぼってみよう。

バスケに夢中。

中里氏が、生まれたのは1972年。中野区生まれである。万国博覧会が開催されて2年。日本が近代化して行く時でもあった。「父親はいろんな商売をしていたようです。でも、なかなかこれといったものがなく、私が小学5年生の時には、借金で首が回らなくなりました」。
父親は、それからタクシー乗務員となり、母親も外にはたらきにでた。
「四畳半と六畳の2部屋です。その2部屋で親子4人が暮らしていました」。
中里氏は「ウサギ小屋」と表現する。
「私には5つ下の弟がいるんですが、母がいないもんだから、私が味噌汁やおにぎりをつくっていました。そういう生活です」。
中学になるとバスケットボールを始める。高校でもつづけたが、最終的には部員3人になってしまい、試合もできなかたそうだ。
「バスケットボールはけっこう真剣でした。もともと運動神経はいいほうでしたから。高校3年の時にはキャプテンになるんですが、そもそも部員3人です。部長、副部長、そしてキャプテンの私でした(笑)」。
なんでも、顧問になってくれる先生がいなかったそうだ。
「私らの少しうえに問題児が多くて、なり手がなかったんです(笑)」。社会人に交じって、練習に参加させてもらっていたのも、この時。ふだんは、けっして真面目とはいえなかったが、ことバスケになれば話は別だ。
ところで、どうして全寮制だったのか、と質問をぶつけてみた。
「一つはバスケですね。そういうのがつよい学校に行くという選択肢もなかったわけではありません。しかし、当時の私はどこかで家を出たいという思いがあったんでしょう。親元を離れて、一人で暮らす。つまり、寮生活にチャレンジしたかった、というのが全寮制を選択した理由です」。
そして、冒頭で書いた点呼の日々が始まる。

獣医をあきらめ、「社長になる」と決意。

「なかには5年もいた人がいましたが、私は無事3年で卒業します。実は、動物が大好きで、当時は獣医になろうと思っていました」。実際、3年になって猛勉強を始め、大学も受験する。しかし、それほど甘くはなかった。
「翌年、予備校に行くんですが、寮生活から解放されたわけでしょ。それまでたまっていたうっ憤まで解放されちゃって(笑)」。夏休みが終わる頃には、受験生にかかわらず真っ黒に日焼けしていたらしい。「親にね。『後期の授業料はどうすんだ』って言われて。『いや、もういいです。ありがとうございました』って(笑)」。
実は中里氏、獣医のほかにもう一つ目指すものがあった。消去法的にそちらが残った。それが「社長」である。「なんとなく、かっこいいなって。まぁ、そんな感じです。ただ、いま思えば、親父から受け継いだDNAが騒ぎ出したのかもしれません」。
しかし、こちらもそう甘くない。むしろ、獣医のほうが手に届きやすい目標のような気がする。むろん、社長業に学歴は不要だ。

社会にでた青年、中里。

1人の青年が社会に飛び出す。まだ19歳だ。動物好きな心やさしい青年であり、喧嘩をすれば負けたことがないやんちゃ坊主でもある。
「これはバイトですが、最初にはたらいたのは、英会話学校の講師助手でした」。「英語が学べる」と選択したが、講師助手とはいうのは、生徒をあつめる営業の仕事だった。
「飛び込み訪問です。半年くらいやったかな。そのあとトラックにも乗ったし、広告代理店でも勤務しました」。物怖じしない性格と、寮生活で修得した協調性。先輩たちから可愛がられた、というのにも頷ける。
人生を決めるきっかけになったのは、広告代理店を辞め、つぎに就職した食品関連の会社でのことだった。「最初はトラック運転手として入社するんです。営業しながらの配送ですね。相手はむろん、飲食店です」。
飲食店を回るうちに、知り合いができる。営業数字は、すぐにトップになった。「まだ子どもでしょ。とにかく一生懸命にはたらいていましたので、相手さんも心を開いてくださって。いろいろ購入してくださったんです」。
その成績が認められたのか、会社がまったくの異業種である「ピザの宅配事業」を開始した時に、店長に抜擢される。これが21〜22歳の時だ。「最初はイヤだっていったんです。だって、原価もわからないし、損益分岐点って言葉も知らないんですよ。しかも、私だけじゃなく、社員全員です(笑)。そんなので、できるわけがないじゃないですか。でも、聞く耳なんてもってもらえません」。
FCならまだわかるが、いきなり自社オリジナルだったそうだ。「その店をはじめて1年。会社を退職します。だんだん売上も落ちてきたんでしょうね。社長のプレッシャーがきつくなって。でも、こっちも1日2〜3時間の睡眠です。しかも1年で休んだのは8日くらい。もう、あかんわと」。
「飲食はもう辞めよう」と思ったそうだ。しかし、縁がつづく。

飲食と人と、そして銀座との縁。

もし、この時、いくばくかのノウハウがあれば、また結果は違っていたはずだ。今頃、ピザショップを展開していたかもしれない。しかし、戦場にできるには、あまりに無防備すぎた。
「もう、ふらふら。起業することは頭にありましたが、飲食はもういいかな、と。それでも、ご縁があるから不思議ですね。飲食店やカラオケを経営されている会社に、縁あって進みます。こちらで独立までの11年、勤務しました」。
ここでも、転機がある。「4年目くらいですかね。その時は市川にある店を任されていたんです。採算が取れないなか、なんとか黒字化できそうな時に社長に呼ばれて、『今度、銀座で店をやるので、その店の店長をやってくれ』って言われるんです。最初は、やっぱりイヤだなと思っていました。ようやく黒字化できそうなところまで来ていましたから、せめて黒字化してからだ、と」。
しかし、銀座にできる店をみて、気がかわった。「和食のダイニングで、それは、それはおしゃれで。まだ、工事の最中だったんですが、いっぺんに惚れてしまいました」。
17坪。くしくも7年後、中里氏がオープンする店とおなじ坪数だった。
「『くらのすけ』というお店です。繁盛して、私が不動産屋さんと交渉して、2店舗目も出店しました」。今度は独学ではなかった。先輩たちから様々なノウハウを吸収し、やがて、会社を代表する店長にもなった。
その頃には、飲食のたのしさにどっぷりつかっていたと言っていい。
「そして、32歳の時ですね。もう1度、飲食をするなら『10年で独立』と思っていましたが、1年遅れとなりました。社長に『独立します』といって、慣れ親しんだ銀座に1号店をオープンしました。むろん、商圏がかぶらないよう『くらんすけ』がある6丁目はさけ、1丁目に出店します」。
スタッフも1人もつれていかなかった。その心意気を受け止め、なにかにつけ、当時の社長もバックアップしてくれたそうである。
今もむろん、交流がある。おなじ、銀座。案外、銀座は狭い。「外からみれば、敷居が高いように思えますが、銀座はいまでもとても人情味ある街というか、町なんです」。

銀座の住人。

「最初の2〜3ヵ月は、赤字でした。でも、銀座で7年もやっていましたから、ぜんぜんこわくなかった。最初は、大家さんが、しぶってらしたんです。でも、ある人が『こいつはでっかくなるからやらせなさい』って助言してくださって。裏切ることもできませんから」。
3ヵ月を過ぎる頃から、客が入りだした。そうなると17坪では手狭になる。大家に頼んで店を拡張する。「大きな声じゃいえないけど、あの頃がいちばん儲かったんじゃないかな(笑)」。
店が広がるとスタッフも増えた。そのなかに、やがて中里氏を支える人が何人も生まれる。現在の開発部長は、当時のアルバイターだ。
現在、中里有限会社は、銀座に5店舗を出店している。いずれも繁盛店だ。もちろん、リーマンショックや震災の時にはさすがの中里氏も途方に暮れた。震災の時には「銀座の夜が真っ暗になった」そうだ。
しかし、それも乗り越えた。
「なんとかなるべ」。そう思いながら、踏みとどまったそうである。
今ではいずれの店も銀座の名店と言われている。中里氏の話を聞いていると、創業からの13年、それは、客も、スタッフもそうだが、銀座の人々を大事にしてきた13年であったような気がする。
銀座には愛着がある。
銀座は、案外、狭い。
それは、銀座をなかからみている証だろう。まさに銀座の住人である。
ちなみに中里氏はいまでもアルバイト全員に給料を手渡しし、封筒のなかに一言を綴ったメモを添えているそうだ。この気遣いもまた、銀座の住人の証かもしれない。

思い出のアルバム
 
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