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第599回 有限会社ノアランド 取締役 日浦 大氏
update 17/07/18
有限会社ノアランド
日浦 大氏
有限会社ノアランド 取締役 日浦 大氏
生年月日 1979年6月2日
プロフィール 東京港区に生まれる。小学3年生の時に、大阪に引っ越し、以来、20歳になるまで大阪で青春を送る。20歳で、東京に殴り込みをかけ、友人が経営する通信関連の会社をともに育て、貯めた資金で25歳の時にバイク便の会社を設立。それが有限会社ノアランドのベースとなる。のちに「日乃屋」を湯島にオープン。オープンより1年10ヵ月の短期間で、見事「第3回神田カレーグランプリ」を制する。
主な業態 「日乃屋」
企業HP http://hinoya.jp/

引っ越したのは、同じ名前の、何もかも似ていない街だった。

「港区から港区に」と言って、日浦氏はこちらを笑わす。前者の港区は東京の港区。後者は大阪の港区である。おなじ港区だが、ぜんぜん違ったそうだ。
日浦氏が、東京から大阪に移り住んだのは、氏が小学3年生の時。港区弁天町。お世辞にもガラがいいとはいえない町だった。その町に、すぐに溶け込んだというから、日浦氏も相当なもんだ。
ちなみに大阪にはハタチになるまで暮らしている。青春が詰まった街だ。
「小学校の頃は野球で、中学では先輩に勧められて柔道です。『そのガタイなら、全国に行ける』って、そそのかされたんです(笑)」。先輩の目はただしかった。大阪の大会では、3年間、団体で優勝している。
高校は、天王寺区にある高校に進学した。まさか男子校とは思わず、入学式の日に仰天し、半年で退学することになる。「知らなかったんですよね。男子校だって。なんかつまんないし。ええ、大阪でもトップクラスのアホ学校です(笑)」。
「その頃ですね。定時制に通っていた昔の柔道部の先輩がダンスをやっていて、格好いいな、って思ったのは。それをみて、私もダンスを始めます。当時はヒップホップが流行っていました」。「教えてくれ」と先輩の家におしかけると「じゃぁ、1万回、このステップを踏んでこい」と言われる。
「そこは、それ、柔道部のノリですよね」。
ダンスをやっていたのは、3年くらい。年齢でいえば16〜19歳くらいまでだ。
「ほかは、ちゃらんぽらんですが、ダンスだけは、真剣でした。でも、ある時、すごく巧い先輩が、自動販売機にジュースを補充する仕事があるでしょ、あれをやっているのをみちゃって。『あんだけ巧いのに、ダンスじゃ食べていかれへんのや』って。みたのは、現実です」。
それからもしばらく大阪で頑張るが、20歳になって東京へ行こうと決意する。

大阪から単身、東京へ。殴り込み。

「友だちが携帯の会社を立ち上げ、手伝ってくれないかと言ってくれていたんです。それで、単身で乗り込みます。仕事は順調で、その会社には結局、4年くらいいました」。
25歳になる。東京にも慣れた。
「当時、バイク便っていうのが流行っていて。資金は、その携帯会社の時に貯めていましたので、バイク便の会社を立ちあげて、その一方で、親父のために湯島に飲食店を一つつくってやったんです。小さな店ですが、親父は喜んでくれました」。
父親は、かつて中華料理店を経営されたこともあったそうだ。
「そうですね。食っていければそれでいいわけですから、小さい店でも充分でした。むしろ、1人で切り盛りするには、小さなほうがいい」。
父に任せた飲食店はボチボチだったが、バイク便のほうは儲かった。固定客も付き経営も安定する。にもかかわらず、また、日浦氏の「やりたい虫」が騒ぎ出す。
「水産の仕事をしたくなっちゃったんです。今もそうですが、私は中国が好きで、中国人も、中国の文化もとてもいいと思っています。それで中国に日本の水産物を輸入してやろうと思っていたんです」。
もちろん、何のノウハウもない。だから、水産関連の会社に入った。「この会社には、1年半くらいいました。朝5時に出社して。成績は社内でも群を抜いていました。目的が違いますからね。観ているものが違うんです」。
何でも吸収した。市場にも知人がいっぱいできる。「よし、やってやろうと思った時に、震災が来て。放射能に汚染されていると言って、中国人が日本の水産物を買わなくなった。それで、ハイ、終了です」。

カレーのちから。

「残ったのは、親父の店だけです。その頃、たまたま親父が『もう俺は、あきたから辞める』って言いだしたんです。それで、じゃ1年くらいやってみよか、と今度は飲食店の店主にチャレンジするんです。親父は一度、中華料理の店を潰していますが、舌はめちゃくちゃいいんです。親父のラーメンは人気でしたので、ラーメンに、おばあちゃんがつくっていたカレーをプラスして2品で勝負をかけました。親父のアドバイスは、カレーづくりにも生かしています」。
そのカレーが神田カレーグランプリを制覇する。
「味には、自信があったんです。お客さんも『旨い』とおっしゃっていただけていましたし。ターゲットはズバリ、サラリーマンです。女性は、インドのカレーとかが好きでしょ。うちは、日本のカレー。この日本のカレーで、カレーの聖地、神田に喧嘩をしかけたんです」。
神田カレーグランプリ。40店以上の店が予選にかけられ、うち20店がブースをだし、客数で勝敗を決定する。ある意味、公平だ。「最初に参加したのは、2012年です。店をつくって間もない頃だからオペレーションでつまづき、結果4位です。それが腹立たしくて。翌年にはフライヤーも2つもっていって、準備万端。今度は、宣言通り優勝しました」。
「日乃屋カレー」が一気にブレイクする。FC展開をスタートしたのも、この優勝がきっかけとなっている。「西新宿にも、進出するんです。9坪ですが、さすが新宿ですね。家賃は65万円です。しかし、この店が、うちのカレーの実力を証明するんです」。
行列につぐ、行列。9坪にかかわらず、月商550万円を叩き出した。

多くのオーナーが人生をかける、日乃屋カレー。

ロイヤリティは月3万5000円で固定。初期投資も、そうかからない。だから、50歳代の脱サラ組みも多いという。FCオーナーの話である。
「いま、直営店は4店舗で、残り37店舗はFCでやってもらっています。撤退した店は、1店もない。ただ、いちばん最初というか、まったく外部の人に初めてオーナーになっていただいた時は、オープンしてからしばらくして、向こうから『辞めていいですか』と言われました。私にとってもとても残念で、それがきっかけで仕組みも見直し、組織の体制もちゃんとしました」。
話を聞くと、日乃屋カレーが悪かったわけではないようだ。資金の借り入れも氏が、段取りを組んだ。
「あてにされていた借り入れが、土壇場でできなくなっちゃったんです。それではオープンできないから、何とかしてあげないと、と思って、いろいろサポートさせてもらいました。ただ、もう65歳という年齢ということもあって、『立ち仕事がきつい』とかね。だんだんやる気もなくされていったようです」。
むろん、まったくの未経験からスタートしてもできるオペレーションである。ルーは、日乃屋カレーからだから、問題がないし、米なども氏が問屋を紹介してくれる。そもそも、初期投資も少ないため、軌道にも乗りやすい。おまけに日本人は、カレーが大好きだ。
「小さな店ですから、個人のオーナーさん向けです。脱サラ組も多いですね。脱サラという覚悟が、ちからになるんだと思うんです。それが証拠に、全店売上が好調です」。
更にFCのサポートの強化も行っていく予定。ただし、首都圏に出店するのは、60〜70店だけだそう。それを上回ると「食い合いが始まる。オーナーさんとの約束ですからね、そこは」。
義理堅いといえば、それまでだが、いくつもの転機によって、日浦氏は「人」に対する熱い思いを育んできたのではないかと思う。
いまの日浦氏の心境は「めっちゃ楽しい」というより、「めっちゃたいへん」ではないだろうか。何人ものスタッフ、そして何人ものオーナーの人生が、日浦氏の肩にのしかかっている。
その肩にかかった重みを知っている。日浦氏はそういう人なのだ。

思い出のアルバム
 
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