株式会社丸道 代表取締役 丸山 忠氏 | |
生年月日 | 1973年8月31日 |
プロフィール | 東京都あきる野市に生まれる。調理専門学校卒。17歳で「道とん堀」に就職。18歳で店長となり、22歳で独立。 |
主な業態 | 「道とん堀」「ドクターストレッチ」 |
企業HP | http://www.031.co.jp/ |
丸山氏は1973年8月31日、秋川(現、あきる野)市に生まれる。父親は車関連の部品を製作する「丸山製作所」を経営。規模は小さいが、F1カーの部品も手がけた職人集団だ。
ところで、あきる野市といえば「東京サマーランド」が思い浮かぶ。その話をすると「そうですね、俺らの小さい頃からあったと思います。割引券とかもらって通っていましたから」と丸山氏。小さい頃を思いだすように目を細めた。
「親父は会社を経営する一方で、民謡の先生もしていました。お袋は踊りの先生です。俺もガキの頃から民謡を習っていました。子どもが民謡を歌うなんて珍しいでしょ。だから、じいさんやばあさんたちが、お小遣いをくれたりしてね。まだ、俺も可愛かったんでしょうね(笑)」。
小学校では空手。中学ではテニス。運動神経は良かったが、成績は体育と家庭科以外は、オール1。高校は2つ受けたが、2つとも落ち、結局、調理師の専門学校に進む。
「勉強がイヤというか、やる意味が見いだせなかったんですね。当時は、他校との抗争に追われていて、勉強どころじゃなかったのが、正直な話です」。
専門学校に進学してからは、暴走族にも入り、走り回った。警察に追いかけられたことは1度や2度ではないし、捕まったこともなくはないが、不思議なことに、免許は没収されなかった。
それだけ運転が巧かった証でもある。つまり、逃げ切ったわけだ。
盗んだバイクは、100台以上。
「いまは知りませんが、直結すれば取り放題です。自転車のカギはもっと簡単で、傘のポッチで、すぐに開けることができました」。なんでも、「足がいるなと思ったら、ちかくにあるバイクや自転車を物色し、カギを開けた」そうだ。
はたからすれば迷惑千万な話であるが、本人たちからすれば、至って、当然のことだった。
「調理師学校でも中学時代同様、授業に出てなくって、日数が足りなかったので、俺が卒業したのは、みんなより2ヵ月遅れの6月です。4月からの2ヵ月間、猶予をくれたんですね。代わりに、遅刻も欠席も許さないと。だから、調理師免許をいただくために、さすがにまじめに通いました」。2ヵ月間は、休まず通ったそうだが、それでも生活の中心は「仲間とバイクで走る」ことだった。
「卒業して『道とん堀』に就職するわけですが、なぜ『道とん堀』だったかというと、勤務時間が17時から22時だったんですね。それで、これなら朝までバイクに乗れるな、と。で、17時まで寝ていればいいと。こいつは最高だと思って(笑)」。
「17歳の選択なんてそんなもんだ」と笑う人もいるし、丸山氏も、たしかにそうだと頷くはずだが、1人だけ、人とは異なる思いで丸山氏をみていた人物がいた。「道とん堀」の社長だった。
「道とん堀」の社長は、17歳の、金髪少年を受け入れた。誰もつづかないと思ったが、社長は「あいつなら」と思ったそうだ。社長は、金髪の少年に賭け、その賭けは大きな宝をもたらすことになる。
ともかく、金髪の少年は、意外にも、素直で、まじめだった。
「寝ることもできたし、遊ぶこともできたわけで、俺にとっちゃ天国ですよね」。いまでは300店ちかくある「道とん堀」だが、当時はまだ2店舗。創業時である。「それで3店舗目の時、18歳で店長に大抜擢です。ただ俺が抜擢されたのは、俺しかいなかったから。入社して2年目でも、古株の1人だったんです。それから、更に1年経って、本部勤務を開始します。本部といっても、まだ6〜7店舗しかない時だから、ちっちゃいです。フランチャイズを始めることになって、俺がその陣頭指揮を執ることになったんです」。
最初、フランチャイズと聞いて「なんじゃそれ」と思ったそうだ。「しくみもわかりませんが、とにかく、社長の言う通りやりゃいいと思って。FC1号店は、あきる野市にオープンしました。あきる野市の、お偉いさんがオーナーだったんです」。
コピー紙に文字を綴り、写真を貼り、レシピを解説した。マニュアルも手作り。もっとも丸山氏が乗り込んで陣頭指揮を執るのだから、マニュアルもあってないようなもんだった。そろそろ暴走族も引退かと思っていた時期だから、タイミングも良かった。朝から晩まで指揮を執りつづけた。
店は、既存の「道とん堀」同様、快調にスタートする。
そんなある日のこと。
「オーナーさんにも感謝してもらって。とてもいい仲になれたんですが、ある日、オーナーがPLをみせてくれて。今度は、『なんじゃこれ』ってなって(笑)」。
「朝から晩まで指揮を執る俺の給料が20万円で、なんにもしないオーナーの取り分が10倍の200万円。それをみて、俺は社長になるって決めたんです」。
「社長になると決めたのが、20歳の時です。PLをみて、『社長の方が絶対いいじゃん』と思って、うちの社長に相談するんです。そしたら『独立するっていっても金がいるし。そうだな、とにかく3年間、修業してみろ』と言い渡されるんです。それで、給料全部、社長に預けました。だから、3年間、ある意味、無給です。飯は店で3食、食べることができまたし、それ以外、お金はかからないですからね」。
「で、22歳の時に晴れて俺の1号店である『道とん堀、国立店』がオープンするんです。自己資金は、3年間の給料500万円と、残りは社長と親から、それぞれ1000万円の融資を受けスタートしました。立地など、経営のことはわからなかったので、本部任せです。とにかく、俺は店にでてはたらく。社長からは、『1日15時間、正月も休みなしだ』ってハッパをかけられました」。
国立駅から徒歩2分。家賃は27万円。先行投資2500万円。
「ビビらなかったですね。だって、何も知らないから(笑)」。むろん、のれん分けのスタイルも不安なくスタートできた要因である。それでも、2500万円。まさに、知らぬが仏である。実際、「今なら、怖くてできない」と笑う。ともかく、快調。丸山氏が、飲食事業の恐ろしさを知るのは、ずいぶん先のこととなる。
「儲かって、儲かってしようがなかった」と丸山氏。
22歳は同年代の人間が大学を卒業して、社会に出てくる年でもある。「奴らの給料は20万円くらいでしょ。でも、俺はすでに月150万円くらいあった。学校にも行かなかったけれど、それは、それで、『どうだって』って気分でした」。
儲かりすぎて、会社をつくって、ベンツを買って、ロレックスを買った。ちなみに社名の丸道は、丸山の「丸」に、道とん堀の「道」をくっつけただけだと、笑う。店もつくった。
「2店舗目も、3店舗目も、とにかく儲かりました。それがいけなかった」。
飲食の罠、経営者の罠である。
3店舗目ができる頃には、手取りで400万円ちかくあった。「あの頃は、バカで、有頂天になってもいました。店にも顔を出さず、毎晩、遊びほうけて」。
店のレジから、金をかっさらっていったこともある。「俺の金って思っていたから、悪気もぜんぜんなかったんです。レジは俺の財布だろ、みたいな」。
すぐに歯車が狂いだした。人が辞める。採用しても、長つづきしない。信頼していた奴にも裏切られた。「売上が減り、キャッシュがどんどんなくなっていく。普段は、『もう経営者同士だから』って何も言わなくなった『道とん堀』の社長までが『お前、いい加減にしろ』って」。
「3店舗だけだったことが幸いした」と丸山氏。「あれが5店舗、6店舗じゃもう制御できなくなっていたでしょう。幸い3店舗しかなかったから、もう一度、俺が店に入ることで、店の歯車をもとに戻すことができたんだと思います。あの時がいちばん辛く、いちばん、勉強した時ですね」。
現在、丸山氏は、お好み焼き店・居酒屋・リラクゼーションサロンの運営を行っている。お好み焼き店の「道とん堀」は、20店舗に達し、巨大な売上をたたき出すメガフランチャイジーとなっている。
17歳で、飲食の道に入り、もう22年(2017年現在)。ほかに選択肢がなかったから進んだ飲食業であり、飲食道でもある。そのなかで、丸山氏は何を学んできたのだろう。「飲食のいいところって何ですか?」という直截な質問に、丸山氏は、こう答えた。「人の幸せに寄り添っているところかな」と。
その答えに丸山氏の、22年間が凝縮している気がした。爆走するメガフランチャイジー。悪ガキだった頃の怖いもの知らずのエネルギーは、いまだ健在だ。
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