株式会社高倉町珈琲 代表取締役会長 横川 竟氏 | |
生年月日 | 1937年11月1日 |
プロフィール | 長野県諏訪市出身。横川家四兄弟の三男。厳格な父母に育てられる。中学を卒業し、上京。東京・築地の「伊勢龍」に就職する。店主に商売の基本を学び、独立。1962年、24歳の時に「ことぶき食品」を兄弟たちと創業する。 |
主な業態 | 「高倉町珈琲」 |
企業HP | http://takakuramachi-coffee.co.jp/ |
「横川四兄弟」と言われている。「すかいらーく」の創業者である四人兄弟のことをそう言う。今回、ご登場いただいたのは、三男の横川竟氏。兄弟のなかでも、創業時に果たした役割はもっとも大きい。
「兄たちは頭のできもよくて、弟もよかったもんだから、ぼくばかりが目立っちゃった」と竟氏。勉強がキライで、中学を卒業すると同時に上京し、就職する。
「ぼくは3歳から6歳まで大陸で暮らしていました」。
竟氏が大陸というのは中国・満州のことで、竟氏が暮らしたのはロシアとの国境ちかくの町。山もなく、どこまで行っても平原。「360度、地平線が広がっているんです。そんな大草原のなかで、羊や山羊や豚といっしょに暮らしていました」。
竟氏が大陸に渡ったのは、教育者でもあった父親が「横川中隊」という開拓団をつくり、大陸に渡ったからだ。しかし、竟氏が6歳の時、父親が亡くなり、両親の故郷である長野にもどる。勉強がキライというのは、帰国してからの話である。
「勉強はしませんが、仕事はしました。小学3年生から新聞配達をはじめ、そのお金で山羊や兎や鶏、一時期は牛も飼っていました。学校から帰って新聞を配ります。配り終えてから、今度は餌を積んで帰宅する。時間は、もう夜8時です」。
冬になれば、気温はマイナス7度。部屋に飾った花は、一晩で凍った。「ぼくは、中学を卒業してから上京して、東京の築地で仕事をするんですが、ぜんぜん苦じゃなかった。それまでと比べれば、白ご飯を腹いっぱい食べられるだけで、天国だったんです」。
採用の条件は、朝・昼・晩、従業員全員の飯をつくることだった。「独立するつもりだからね。食品は倒産する確率の低い商売だと思ったから、それを勉強するために築地に行ったんです。中卒で、学歴もないわけでしょ。できることも限られている。しかも、まだ小僧です」。
「ずっとオヤジの顔色をうかがっていた」と竟氏は言う。追い出されたらどこにも行くところがないとわかっていたからだ。言われたことは素直に吸収した。箸の上げ下げから、教えられたそうだ。「キホンの『キ』ですね。商売の原理・原則。そういうのもすべて叩き込んでいただきました」。
そういう意味では「すかいらーく」の源流は、築地にあると言っていい。
「私たち兄弟が、はじめて店を出したのは1962年、私が24歳の時です」。
4年間、築地で学んだ知識を総動員し、兄弟3人を集め、起業する。薄給のなかから、月々、貯めたお金が元手になる。店名は「ことぶき食品」。現在、すかいらーくのHPには、小さなひもの食品店とあるが、竟氏に言わせれば、いまのコンビニのリッチ版ということだ。オープンから、大量に客が押し寄せた。
「私たちは、ダイエーを追いかけていたんですが、スーパーには勝てなかった。それがわかったから、1970年に今度は飲食で勝負しようと、すかいらーくの1号店、国立店(府中市)をオープンするんです」。
1970年といえば、大阪で万国博覧会が開催された年である。ちなみに翌1971年には、銀座に日本マクドナルドの1号店が誕生している。
「なぜレストランだったかといえば、ビジネスとしていちばん遅れていたからです」。キャバレーか、レストランか、最終的にはこの2つの選択肢が残ったそうだ。「それで、キャバレーはちょっとなっていうことで、レストランになったんです(笑)」。
「当時から日本一を目指されていたんですか」と伺うと、首をふり「それは違う。日本一になるために、遅れていたレストランビジネスに的を絞って打って出たんです」と、こちらを諭すように語る。レストランビジネスを選択した時点で、竟氏のなかでは、すでに「日本一」が既定路線だったのかもしれない。
ともかく、それが「すかいらーく」の始まりである。
「すかいらーくが、大ヒットしたのは、簡単です。アメリカのシステムを採り入れたジャパニーズレストランだったからです」。
レストランのメイン料理はハンバーグ。
「日本一おいしいハンバーグをつくろうってね。みんなでがんばったんです。いまの人は、うそだと思うでしょうが、当時、スーパーに並んでいるハンバーグの中身は、ウサギやウマの合いびき肉です。そういうのが主流の時代に、うちは、ちゃんとした豚と牛の合いびき肉でハンバーグをつくりました。しかも、380円です。ホテルの有名シェフを口説き落として、最高のソースもつくりあげ、メニューの幅も広げました。お客様が来ない方がおかしいでしょ」。
「1日1000人は来た」と竟氏はいう。
「用意しておいたランチが、15分でなくなちゃう。うちは11時からオープンするんですが、11時30分からランチのお客様でごったがえすんです。お客様らからすれば、早くいかないとランチがなくなっちゃうから」。
大げさな話ではない。当時、ファミリーレストランは子どもたちの憧れだった。休日になれば、ファミリーが大挙して押しかけオープン前から列をつくった。
「お金がなかったから、たんぼのなかにつくった」と竟氏は言うが、モータリゼーションを見越した戦略だったに違いない。広い駐車場を設けたレストランは、ファミリーレストランとも言われ、巨大なマーケットをつくり、自らそのマーケットを押し広げた。
「日本一の300店になったのは、昭和56年です。それまで赤字店はゼロです」と竟氏は胸を張る。
「すかいらーくが成長できた最大の要因を探ろうと思えば、昭和48年までさかのぼらなければなりません。当時、オイルショックでインフレが起こり、景気は逆に落ち込んでいた。その時、すかいらーくは『5年間、価格を上げない』と宣言します。人件費だけで18%上がる時代です。価格に転嫁しないとやっていけない。それでも、すかいらーくは380円のまま。しかも、味も一切、落とさなかった。それが評価されました。いうならば、これがすかいらーくの流儀です」。
お客様のため。
それが原点であり、商売の原理、原則である。
「私の好きな本田宗一郎さんは、汗をかきながら自転車を漕ぐ人をみて、カブをつくりました。私も、商売はそうあるべきだと思うんです」。
創業より11年で、すかいらーくは、当初の宣言通り日本一となった。すでに株式も上場している。横川四兄弟は、勝ち組となり、羨望のマトとなった。
しかし、三男の竟氏だけは、その時もまだ汗を流しつづけていた。「ジョナサンという店があって、1年で8億円の負債をつくった店です。縁あって、そのジョナサンを、潰しに行ったんです(笑)」。
やるからには、自らの資産を投げ出してもいいと思っていたそうだ。「でも、乗り込むでしょ。すると、従業員たち、みんなに頼まれちゃって。潰さないでくれって。で、勝算もなくはないなと思っていたんで、『じゃぁ、俺の言うことを聞くか』って言って。聞くというから、『じゃぁ、5年で株式上場だ』と宣言したんです」。
1年で8億円のマイナスをつくりだした会社である。それを5年後に上場させる。だれが聞いても正気の沙汰ではない。バカな話だ。しかし、すかいらーくの創業者の1人である竟氏が、言えば話は異なる。
「それで、すかいらーくを辞めてジョナサンに来て、ぼく1人が、いまだせっせと汗を流していたんです。ま、それのほうが性に合っていたんですが」。
2017年、現在。竟氏は、もうすぐ80歳になる。
その軌跡は、奇跡といってもいいはずだ。
すかいらーくは、ファミリーレストランという一つのカテゴリーだけではなく、日本の飲食業すべてに影響を与えた。創業時、「遅れていた」と竟氏が表現した飲食ビジネスは、すかいらーくによって、それまでとは異なる可能性あるビジネスに生まれかわったと言ってもいい。
すかいらーくが日本一となり、さらに1000店という目標にチャレンジしていくなかで、さまざまな有能な人材が育ったという事実もある。すかいらーくの歴史は、優れた経営者を輩出してきた歴史でもあるのだ。
さて、ジョナサンに移って5年、竟氏の宣言は実現する。わずか5年で、苦境のレストランを立て直したばかりか、株式を上場させるまでに育て上げたのである。
「経営の神」といえば大げさすぎると笑われるだろうか。
「みんなから凄いねって言われてきたよね。でも、それはぼくだけじゃなく、スタッフのみんなだって、凄いねって言われてきたと思うんです。ぼくらが創業した当時は、外食は、大学生が見向きもしないカテゴリーです。でも、幸いというか、オイルショックのおかげで、いままで見向きもしなかった学生が、うちのような外食にも目を向け、就職してくれるようになるんです。もちろん、ほかの会社を落っこちて、仕方なくという学生ばかりでしたが。ところが、入ってみれば、どんどん会社が成長していくわけでしょ。それに合わせて本人のポストもどんどんあがっていく。そりゃ、逆に『凄いな』ですよ」。
「そもそも、ぼくら兄弟は最初から日本一になるために飲食を選んだわけです。だから、お金じゃないんです。とにかく日本一になるために『仲間をつくろう』『環境を良くしよう』とそれだけを追いかけてきました。だから、ボーナスだって凄い。現金支給だから、ボーナスを入れた封筒が立つんです」。
ボーナスを入れた封筒が立つ。なかなか考えられることじゃない。
「しかも、締め付けが甘い。好きにやることができる。たしかに、はちゃめちゃな部分もありましたが、成長するには、ロスもあって当然なんです」。
1号店の創業から、300店舗に至るまで、すかいらーくは規模だけではなく、たしかに、すべてが日本一だった。そして1000店に向け、再スタートを切るなかで、竟氏はジョナサンに移るわけである。
そして、皮肉なことに、すかいらーくが悲鳴を上げ、国内最大のMBOを実施するなかで懇願され、ふたたび、すかいらーくに登場することになる。ただし、任期半ば、改革の半ばで、社長の任を解かれる。
「高倉町珈琲は、地域の生活者がホッとする憩いの場をつくろうと思ってスタートした店です。日本に新たなフランチャイズシステムをつくろうという思いもあり、いまそれを模索しています」。
すかいらーくは、いったん非上場となったが、いまでは再上場を果たしている。
さて、竟氏がつくり、追いかけたものはなんだったのだろう。「日本一のハンバーグをつくろう」。すべては、この一言に凝縮されているのではないか。
「生まれかわったら今度は何を目指しますか」と聞いてみた。すると、「そうだね。今度は、スポーツがいいな。だって、飲食で世界一は難しいと思うけど、スポーツなら、できそうでしょ」。
世界一。どこまでも、でかい人だ。
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