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第606回 株式会社ノヴァリンク 代表取締役 川筋祐次氏
update 17/09/12
株式会社ノヴァリンク
川筋祐次氏
株式会社ノヴァリンク 代表取締役 川筋祐次氏
生年月日 1967年7月18日
プロフィール 山形県に生まれる。三人兄弟の次男。東京・埼玉で暮らし、大宮のスポーツ校卒。コカ・コーラの配送を経験したのち、当時、マハラジャで絶好調の、ノヴァ・インターナショナルに入社。カリスマ経営者2人から薫風を受け、平成24年8月に株式会社ノヴァリンクを設立。事業を継承する。
主な業態 「牛禅」「びじんや」
企業HP http://www.novalink.co.jp/

三人兄弟の次男坊。

「マハラジャ」。 ひと昔前、一世を風靡したディスコの名称である。名づけ親はデヴィ夫人。連日、連夜、若者たちが集い、カクテル光線の下で、乱舞した。
「私が入社したのは、マハラジャの最盛期です。もともと事務方として入社し、経理をしていました」。今回、ご登場いただいたのは、そのマハラジャ出身。株式会社ノヴァリンク代表取締役の川筋 祐次氏である。
「私は、母方の実家である山形で生まれました。三人兄弟の次男坊です。親父は鹿児島出身で、東武鉄道の路線バスの運転手でした」。父親は典型的な九州男児。18歳になるまで、怖くてまともに会話もできなかったそうだ。
「山形は母の実家で、私が育ったのは、東京と埼玉。小学2年生から坂戸市で暮らし、いまも実家はそちらにあります」。
いまでは親分肌の川筋氏だが、子ども頃はどうだったんだろう。
「中学校までは野球をしていました。兄も、そうだったもんですから。ただ、兄は高校でも野球をしますが、私は、中学で卒業。帰宅部に甘んじます(笑)」。ただ、進学した高校は、スポーツ学校だった。

4500名のマンモス校。

「大宮にある高校で、超マンモス校でした。生徒だけで4500人はいたかな。普通科が20クラス、スポーツ科が6クラス、私が通っていた自動車科が6クラス」。
自動車科?
「当時は、車とかバイクとか乗り物が大好きでした」。好きが高じてバイクの免許をこっそり取って、それがばれて停学になる。厳しい父親は、怒らなかったのだろうか。
「そういうのは、ぜんぜん。厳しかったのは躾です。挨拶とか、返事とか。『ひとに迷惑はかけるな』『嘘をつくな』『人との付き合いは借金をしてでもしろ』。口酸っぱく言われたのは、特にこの3つです。ただ、親父より学校が厳しくて」。
さすが4500名をコントロールする学校である。ルールも、校則もハンパなく厳しかった。だから、高校を卒業すると糸が切れたたこのように、舞った。

赤い車に惹かれて。

「大学には進学しませんでした。かといって、就職するわけじゃない。ぷー太郎って奴です」。幸い、大学生になった友達も多い。遊ぶ相手は困らなかったそうだ。
「10ヵ月くらいフラフラしていました。だいたい私は天性の次男坊なんです。だから、何も考えない(笑)。そろそろ就職をしないといけない雰囲気になって、コカ・コーラに就職します。ただそれも制服が恰好よかったからなんです」。
川筋氏が、就職するのは高校を卒業した翌年2月ことだった。「赤いルートカーに乗ってね。当時は、女子高生たちが手をふってくれたりしたもんです。もっとも仕事はハードです。いまのようにペットボトルもないし、缶もスチールです。酒屋にコカ・コーラを卸すだけでたいへんでした。でも、いやじゃなかった。何しろ、給料もよかったから」。
この仕事はおよそ3年つづけた。

転職先は、六本木。マハラジャを経営する「ノヴァ・インターナショナル」。

「マハラジャを展開するノヴァ・インターナショナルに転職したのは、その次です。私は事務方だったもんですから、本社の六本木勤務です。事務方だけで70〜80名くらいいました。それだけマハラジャがすごいことになっていた時代です」。
レジにお金が入り切らず、段ボール箱に札束を投げ込んだのはこの頃のことだそう。連日、連夜、マハラジャに莫大な金が落ちた。「もっとも私は営業じゃなく経理だから、気楽なもんです。朝9時〜夕方6時まで。アフターファイブが何より楽しみってタイプでした」。
ちなみに「マハラジャ」は1980年代のバブルを象徴する高級ディスコである。会社をいくつもに分割し、全国チェーンを実現した。その核となるノヴァ・インターナショナル株式会社の代表は、菅野諒氏。「最後の20セント」「深海魚」「泥棒貴族」などの名店を次々、オープンさせた稀代のクリエイターである。

ピークを迎えた「マハラジャ」。その後始末が始まる。

「下り坂ですね」。川筋氏が「下り坂」というのは、マハラジャの業績のことである。驚異的な売り上げをたたき出していた「マハラジャ」も、時代の波には勝てなかった。「結局、私が入社した頃がピークでした」と川筋氏。しかし、すでに関連会社70社もある巨大グループである。簡単に潰すわけにはいかなかった。
「私は、グループ会社のなかにカラオケ・バーをやっている会社があって、その時の社長が事業を買い取ってスタートするというので、そちらに回りました」。
川筋氏が転職したのは、22歳の頃。独立した関連会社に転職したのは27歳の時。わずか5年で巨大な龍はちからをなくしていた。
「もう、経費削減です。そういう会議ばかりでした。資金繰りはどうするんだって。それから先のことはあまり詳しく知らないです。私も、別会社に事務方の責任者として出向いたわけですから、それどころじゃありません。私自身の仕事で精一杯でした」。
アフターファイブを謳歌するのんきな生活はもうできなくなっていた。少なくとも、のんきな気分ではいられなくなったはずである。

平成24年8月、株式会社ノヴァリンク設立。

「カラオケ・バーの会社にいたのは、6年間です。それから、もう一度、ノヴァ・インターナショナルに舞い戻り、その時、1年くらいでしょうか。私たちにとってはカリスマ以外何者でもない菅野諒社長と仕事をさせていただくんです」。
もっとも濃密な1年だった、と川筋氏は当時を振り返る。
「やっぱり、凄いんです。発信力でしょ。行動力。アイデアも凄い。とても精力的に仕事をされ、どんどん新しいことを発想されていく。雲の上の人は、地上に降りてきても尚、雲の上の存在にかわりなかった。そんな印象です」。
すでに事業は縮小を余儀なくされていた。だからこそ、菅野諒氏はもう一度、旗をふった。「菅野諒社長のちかくで仕事をさせていただいたことで、いちばんかわったのは私の人生観です」。
すでに川筋氏も30歳を超えていた。やがて、ノヴァ・インターナショナルの社長も菅野諒氏から弟の菅野晃氏に引き継がれる。
「菅野晃さんも、雲の上の人ですが、事務方の面倒もみられていたもんですから、わりと近い存在です。そうですね。このあとも12〜13年いっしょに仕事をさせてもらって。私自身は、関連会社の営業部長になりました。それが、今のうちの会社の前身といえば前身です」。
豪快な人だった。
「『お前に任せてだめなら仕方ない』と自由にさせていただきました」。
その晃氏から、ある日「お前がやれ」といわれた。事業を買い取り、継承しろということだった。「私は営業部長でした。営業は順調だったんです。ただ資金繰りが厳しい。何とかする体力は本体にも残っていなかった。従業員が路頭に迷う。私も、それだけはさけたかった」。
とはいえ、潤沢な資金があるわけもない。本体からの支援も期待できない。どうするか。川筋氏はここで、諒氏から学んだ発想力と行動力で勝負をかけ、ち密な戦略を構築する。
「平成24年8月に、まず会社をつくります。それから、翌平成25年3月に『やきとり屋 すみれ』を開業します。ええ、FCです。効率を考えれば独自というわけにはいきませんでした」。
類まれな行動力で、その店を育て、金融機関から資金を引き出す。同年7月、牛禅 すすきの店を計画通り買取ると、さらにその1ヵ月後、牛禅 京都四条烏丸店を譲り受ける。
「私自身、起業ということは考えていませんでした。今思えば、これもまたマハラジャという巨大なビジネスの継承だったのでしょう」。
川筋氏だけではない。事業を継承し、事業家となった人が少なくない。
これが、株式会社ノヴァリンク、創業の背景である。継承者という意味では、創業者の弟である晃氏自身もその1人だろう。一つの宴が終わり、もう一つの宴が始まる。
「業績はお蔭さまで好調です。何より今は、訪日外国人の方が多いです。札幌、京都、東京と、観光主要都市というのが、ある意味、功を奏したのかもしれません」。
ただ、「一段階ギアをあげなければならない」と川筋氏。そういう川筋氏には、もはや次男坊の優柔不断さは、どこにもない。事業戦略のコアとなるのは、社員教育である。幸い、ノヴァ・インターナショナル時代からのスタッフも少なくない。定着率の高さの証明済である。
「人」という財産をどう活用するか。鍵はそこかもしれない。

思い出のアルバム
 
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