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第609回 ひなた株式会社 代表取締役 辻 英充氏
update 16/10/03
ひなた株式会社
辻 英充氏
ひなた株式会社 代表取締役 辻 英充氏
生年月日 1976年5月9日
プロフィール 長崎県長崎市出身。工業高校卒。音楽に魅了され、バンドのメンバーたちと上京するが、いつしか解散。いったん長崎に戻ったのち、福岡に出て音楽活動をつづけるが、その時、食べていくためにはたらいた店で飲食業に魅了され、ふぐ料理人になることを決意する。ふたたび上京し、ふぐ料理の免許を取得して、独立。しかし、ふぐ居酒屋をオープンするも、3ヵ月で閉店し、自己破産。そこから本当の意味で、飲食人生がスタートする。
主な業態 「やきとんひなた」「日々是君想」「雨ニモマケズ」他
企業HP http://yakiton-hinata.com/

やんちゃ坊主。音楽に夢中になる。

今回、ご登場いただくのは「やきとん ひなた」などを8店舗展開する「ひなた株式会社」の辻 英充氏である。出身は長崎。物心がついた頃には、すでに父親はいなかったという。
「姉弟は4つ上の姉1人です。母は縫製工場とかではたらいていました。小さい頃、ぼくらは祖母、祖父にも育ててもらっていました」。
「勉強はキライだった」と辻氏は笑うが、代わりにスポーツは大好き。小学生の時から野球部に入り、副キャプテンを務めている。もっとも同年代の子どもをいじめているのを監督にみつかるなどして、いつも怒られていたそうだ。「やんちゃだったんですね。昔は」と笑う。
中学でも野球をつづけたが3年になる前に退部した。「小学生の時の監督よりおっかない監督で、殴る蹴るは当たり前。3年になると本気モードになるのがわかっていたから、その前に逃亡したんです(笑)」。
高校は工業系に進む。その頃から音楽に傾倒し、かなりマジメに音楽に打ち込んだ。20歳くらいまでは、真剣モードである。

音楽。その熱、なかなか冷めず。

「高校を卒業して、東京の企業に就職しました。東京に行ったのはバンドをつづけたかったから。ボーカル以外のメンバーみんなで上京しました」。
高校生の頃は、九州大会に出場するなど評価を集めた。自信はあったが、東京ではなかなか芽がでなかったそうである。会社には2年勤め、退職。バンドは自然消滅する。
「それでいったん長崎に戻り、白木屋とライブハウスではたらきました。この時が最初ですね。飲食っていいなと思いったのは」。
ただし、まだバンドへの思いは捨てきれていなかった。それで、福岡へ。
「福岡でも、飲食の仕事をはじめます。もちろん、食べていくために。ところが、就職した会社の社長がパワフルな人で、益々、飲食っていいな、格好いいなと。関門海に転職したのは、21歳の時です。ふぐ料理をやりたくなって、転職したんです」。
音楽の代わりにみつけたのが、「飲食」というもう一つのライブ。

ふぐ料理人に。

「最初は、大阪でと思っていたんですが、ちょうど関門海が東京に進出していた時で、就職したら『東京に行ってくれ』と。私にしたら『また、東京かよ』って感じです(笑)」。
当時は関門海がもっとも勢いがあった時でもある。配属は新橋。ところでどうして「ふぐ」だったんだろう。「なんとなくかな。これだっていう理由はありませんでした。免許を取ったのは、関門海に入社して2年目です。こちらに10年間いました」。
関門海ではすぐに料理長をやらせてもらったそうだ。長崎の先輩もいて可愛がられた。今まで人のいうことを聞かなかった辻氏が、心酔する。「ただ、料理長になるとやっぱり我が出てきて、マニュアルを守らず左遷されちゃいました(笑)」。
マニュアルがうるさかった。それが性に合わなかった。だから、守らない。シンプルな理由である。しかしそれがバレて、左遷だったそうである。いかにも辻氏らしいエピソードである。
「それで、ちょっと頭を打つんです。料理も客観的にみればパッとしなかったし(笑)」。ただ、それで改心する辻氏ではない。「ちょうど上場を控えて小型店を出店していた時です。中板橋店を立ち上げる時に立候補して、店長になったんです」。料理長から店長へ。なんでも、辻氏が初、だったそうだ。
小型店だからか社員は、店長1人。だれも注意する者はいない。
「結構、やる気になって、今度も好き勝手しました」。本気になればなるほど、我が強くなる。「酒も銘柄モノを仕入れて、売上は小型店のなかで1、2位だったんですが、原価とか経費がかかり過ぎて(笑)」。
小型店では、業務委託の道を選択した。業務委託となれば雇用関係はなくなる。企業にすれば、負担が軽くなる。ただ、報酬となり収入は多少上がったが、あくまで給料制である。「固定で40万円くらい」だったそう。その後、社内FC制度ができ、手を挙げた。今度は正真正銘の店主である。しかし、儲からない。そういうしくみだったといえばそれまでだが、だんだんやる気までなくなっていく。

どん底と再生と。

「それで思い切って関門海を離れて、独自に『ふぐ居酒屋』をオープンします。でも、いっちゃぁ料理しかできないわけですよ。集客の方法すら知らないもんだから、客もぜんぜん来なくて。毎月、毎月赤字で、3ヵ月後に閉店です」。
残ったのは1600万円の借金。
「あの頃がいちばん辛かったですね。もう、病んでたっていったほうが正しい気がする。近くにあった『もつ鍋屋』の大将が相談に乗ってくれて雇ってもらったんですが、結局、3ヵ月しか気持ちがつづきませんでした」。
途方に暮れる。長崎に帰ろうとも考えた。しかし、踏ん切りがつかない。自己破産した。
ちゃんちゃ坊主が、ため息ばかりの日々を送る。
「でも、心のどこかでもう一回っていうのがあったんですよね。もう1000万円もかけられないけど、屋台なら100万円くらいでなんとかなるんじゃないかって思ったりしてね」。
気持ちが浮き沈みするなかでみつけたのが「やきとん」だった。「これなら、ローコストで出店できるんじゃないかって」。
冒頭に書いた通り、2017年現在、ひなた株式会社は「やきとん ひなた」をメインブランドに4店舗。「日々是君想」「雨ニモマケズ」「君想ふ暮らし」「魚猫」とイタリアンや割烹の店も出店している。
自己資金なし。そこから、どうやっていまを築き上げたのだろう。その再生のストーリーのなかに1人の人物が登場する。
「秋元屋って知っています? 『焼きとん』のお店で、私は1年、そちらで修業させていただきました。いまの私も、私の会社も、みんなあの人のおかげで生まれたんだと、いくら感謝しても仕切れないですね」。
レシピも惜しげもなく、教えてくださったそうだ。パートナーもでき、秋元氏の下を訪れてから1年後、辻氏は再生の咆哮を上げる。

「ひなた」

もし、ふぐ居酒屋が好調だったとしたら? そう水を向けると、「そちらのほうがぞっとする」と辻氏はいう。あのまま生意気なままだったとしたら、いずれ、より大きな失敗を招いていただろうし、人に感謝することも知らなかったからだそうだ。
自己破産という1度の失敗が、いまの始まりだったというのだ。それもまた飲食の人生である。
 ちなみに、社名の「ひなた」とは、文字通り、陽の光をあびた「ひなた」のことである。「ひなた」の片隅には、影がある。その影を知っている人にとって、「ひなた」は、大事なよりどころとなるのではないか。
社名に託した辻氏の思いにいま、多くの人が共感する。時間があれば、ぜひ、ホームページも参照していただきたい。そこにいまの「ひなた」がある。

思い出のアルバム
 

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