株式会社キングス ノウ 代表取締役 山田一希氏 | |
生年月日 | 1979月9年11日 |
プロフィール | 東京都世田谷区生まれ。専修大学卒。グローバルダイニングで修業し、頭角を現し、2007年独立。2009年に1号店「串だおれ」オープン。以来、様々な業態にチャレンジするとともに、世界にも進出。人々の心をふるわす飲食店を展開している。 |
主な業態 | 「串だおれ 串カツ」「ゴデレッチョ」「ジャポリ」「琥珀」他 |
企業HP | http://www.kings-know.com/ |
小学生の頃の作文には「パン屋さんやコックさんになりたい」と書いていた。
パン屋さんになりたいと書いたのは、父親がパン屋さんに勤めていたから。コックさんになりたいと書いたのは父親が弁当屋を開いたからである。
「弁当屋は、ほっかほっか弁当が登場する前に、惣菜と手作りのお弁当をお出ししていたんで、かなり儲かったそうです」。
店の前には行列ができた。いまでも「兄妹2人が私立に行けたのは、その時に儲かったからだ」と口酸っぱく言われるそうである。飲食の遺伝子も刷り込まれる。
「アルバイトもとにかく飲食ばかりでしたが、まだ『飲食で』とは決めていたわけではありません。大学2年の時にグローバルダイニングでアルバイトをするようになって、意識がかわります。きっかけは知人に代官山のレストランに連れていってもらったことです」。
「代官山」「レストラン」「アジアンテイスト」。
連れていってもらったレストランには、当時の先端が詰まっていたようだ。
「アジア料理にももちろん魅了されたんですが、何より接客です。気遣いといいますか、そういうのに感銘を受けたんです」。
いままでとはまるで違う世界観だった。アルバイトといえど、飲食経験が長いだけに違いは一目でわかる。次の日に履歴書をもって押しかけた。
「ええ、相当、厳しかったですね(笑)。ただ、アルバイトでも時給が1500円とか。当時の話ですから、相当高かったんじゃないですか」。
ハードだが、楽しかった。遺伝子がふるえた。大学を卒業できたのは、不思議なくらいである。
月1のミーティングにはアルバイトも参加できて、意見もする。むろん、肩書がものをいう世界ではない。これもまた山田氏にとって観たこともない世界である。
「大学で没頭したことを一つ挙げれば、このアルバイトです。3年時には、お台場に異動します。もともといたのは世田谷の店だったわけですが、お台場は、おなじ系列でも客層も違うし、ある意味、ショッキングでした」。
21歳の心は、益々、わしずかみにされた。就職したのは、むろん、グローバルダイニングである。
グローバルダイニングは、いわゆるコンセプトレストランである。「モンスーンカフェ」「ゼスト」「ラ・ボエム」「権八」など、知らない人はいないだろう。
「社内は、いわゆる実力主義です」。
実績の良し悪しにより、評価にも天と地の開きがあった。そのなかで山田氏はめざましい実績を残していく。さすが、飲食のサラブレッドである。
「独立という思いを固めたのは、26歳の頃にゼストで統括のポストになり、経営者にちかい仕事をさせていただいたから。それで、経営に興味を持ち始めたんです」。
「オレがしたいことはこれだ」。心が定まった。「30歳で独立しよう」。
「グローバルダイニングを卒業したのは、29歳の時です。といっても資金もないので、最初は運営受託や業務受託を行い、資金を貯めました。私自身の店をオープンしたのは、独立して3年目の2009年です」。
店名は『串だおれ』。いまも主力ブランドである。
「それからイタリアンの店や、中華も出店します。でも、いちばんは、この串カツメインの居酒屋でした」。「串だおれ」が生まれた背景も伺った。グローバルダイニングで運営してきたコンセプトレストランとは、いささか趣が異なるからだ。
「はっきり言うと、社員のアイデアなんです。社員に『何がいい?』って聞くと、『串カツでいきましょう』っていうんですね。ちょうどハイボールが流行っているから、『串カツとハイボールだ』と」。
「半信半疑だった」そうである。それでも、本場大阪まで足を伸ばしてみた。「東京には、そういう文化がなかったから、最初、串カツと聞いて、『二度付け禁止のアレ?』って聞いたくらいです。で、大阪まで行ったんですが。、それでもぴんと来なかった(笑)」。
だが、御徒町の駅前。相手はサラリーマン。しかも、2階。レストランで勝負できるとも思わなかった。「2階だったのは、むろん家賃が安いからです。それで、立ち飲みスタイルにして『串だおれ』をオープンします。この店が、うちの基盤をつくってくれたんです」。
ホームページの沿革を観ればわかるが、その後、立てつづけに出店する。2010年だけで、7店舗を出店している。グローバルダイニングで学んだとはいえ、その大胆な軌跡に驚かされる。
「リーマン・ショックがあって、ちょうど物件も取りやすかった。うちにとってはいいタイミングだったかもしれません」。2012年にも4店舗。
2017年現在では、海外合わせ、25店舗となっている。「しんどい時ですか、ありましたね。特に最初の3〜4年は一気呵成に出店したもんですから、ブランドで業績に凸凹ができて。『やばいなぁ』って思う時もなくはなかったですね」。
それも乗り越えた。いまではレストランにも進出している。恵比寿西1丁目の「ゴデレッチョ」や、神宮前にある「ソプラ・ソット」などがそれにあたる。ちなみに、海外では台湾に2店舗、シンガポールに3店舗ある。まさにグルーバルである。
シンガポールでは「天丼」が受け、国内では、大衆すし酒場「カドハチ」が楽しみだという。一つひとつが、一つのコンセプトを持っているのが、グローバルダイニング流と似ていなくもない。ただ、いま山田氏の遺伝子をふるわせているのは、かっこのいいレストランではない。
「大衆というのも、私のなかで一つのコンセプトです。『串だおれ』をやって初めて気づいたのは、単価2000円の商売の難しさと楽しさですね。こういうと叱られますが、たった280円、380円の世界です。でも、お客様は、妥協されません。たとえば、ポテトサラダってあるでしょ。あるお客様がこういうんです。『向こうの店はおなじ280円でも、手づくりで旨かった』って。シビアでしょ(笑)。でも、毎日、食べて、呑んで、楽しむサラリーマンにとっては大きな違いですよね。実は、これが飲食の奥深さなんだと思うんです」。
「大衆」という存在に気づいたことで、山田氏の世界観はある意味、無限に広がった気がする。父親、母親から譲りうけ、グローバルで育てた飲食の遺伝子。その遺伝子がなす仕事に、今度は我々の心がわしづかみにされそうだ。
最後に山田氏がホームページで語っている言葉を記す。
「世界のテーブルを笑顔にしたい。それが私たちの願いです」。
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