株式会社そら 代表取締役 都築 学氏 | |
生年月日 | 1975年11月11日 |
プロフィール | 愛知工業大学卒。大手スポーツメーカーに就職したが、思い通りの仕事につけず退職し、飲食を志す。40社ちかい会社を受け「KUURAKU」を選択。7年の在籍を経て独立し「株式会社そら」を立ち上げる。 |
主な業態 | 「うっとり」「あばら大根」「Azzurro520+Caffe」他 |
企業HP | http://www.sola-japan.co.jp/ |
愛知県豊田市はトヨタ自動車が本社を置く企業城下町である。人口は名古屋市に次いで多い。この豊田市で、都築氏のご両親は居酒屋を経営されていたそうだ。
「実家に併設したような居酒屋です。もともとこの店はお好み焼き店で、ほかに喫茶店も2〜3店経営していたそうです」。
兄弟は2人。3つ離れた兄がいる。子どもの頃からスポーツも、学校の成績も悪くなかった。記憶にあるのは、バレンタイン・デーのチョコの数。兄にはいつも負けていたそうである。
人気者。親の影響で始めた空手を7年。定番の野球やソフトボールも巧みにこなした。
「そうですね。いろんなスポーツをやりました。中学ではテニス。高校ではソフトボール。初めてやる種目でも、そつなくこなし、すぐ飽きていました」。高校3年からはスノーボードにもチャレンジする。スキー用品を買いたくて、新聞配達やゴルフ場のボール拾いを始めたのもこの頃。
むろん、成績もいい。進学した高校は、今や豊田市のなかで2番目の偏差値の高校となっている。
「大学は愛知工業大学に進みます。豊田市からすぐなんで、うちから通っていました。専攻は電子工学です。電子レンジやオーブントースターなどを研究していました」。
大学には通っていたが、ホームグラウンドはキャンパス外。サッカーにスノボにサーフィンにバイト。これらが生活の中心。
「サッカーは市民リーグで、大学とは関係のないチームです。バイトはプールの監視員に、ユニクロやコンビニ、花屋さん…。大学3年の時、ふと『何をするために大学に来ているんだろう』『意味があるんだろうか』って、かなり真剣に悩みんだこともあるんです(笑)」。
大学の生徒たちと交わるチャンスが少なく、コミュニティはバイト先やサッカーチームのなかでできあがってしまっていた。それでも、なんとか大学は卒業。アルペンに入社する。
「アルペンといったら販売会社ってイメージが強いと思うんですが、実は製造業なんです。私はチームアルペンにあこがれて就職しました」。
チームアルペンとは、アルペンのなかでもよりすぐりの開発メンバーたちが、アスリートたちといっしょに世界を回ることを指すそうだ。
「スポーツではいろいろな意味で目立っては来ましたが、いつのまにかサポートする仕事に惹かれていたんです。だから、チームアルペンとしてアスリートをサポートし、世界を回る。悪くないと思ったんです」。
「休日がとにかく多くて年間休日は156日もありました」と都築氏。最初に配属されたのは、当時、日本でトップクラスの売上規模を誇る群馬県高崎市の店舗だった。「休みが多すぎて、何もすることがないので休みになれば、車を駆って300キロ以上離れた豊田市に向かっていました」。「ともだちもいないので、さみしかった」と都築氏は笑うが、かなり本音の話である。
ところで、当時のアルペンの店舗では冬の数ヵ月で年間売上の大部分を叩きだしたそうである。だから、年間156日の休みも実現できた。しかし、都築氏がやりたいこととは少しずれている。
「最初は、みんな店舗からスタートするんです。ただ私は理系ですし、開発をしたかったんです。チームアルペンを目標にしたのも開発から参加できるから。しかし、そういうチャンスはない。1年くらい経ったときには、店の立ち上げがもっぱら私の仕事になりました」。
結局、2年半いて退職したそうだ。「何ていうんでしょう。次の就職は『飲食しかない』と思っていました。開発して、商品化して、評価してもらう。それは、飲食でしかできないと思っていたからです」。
当然、家業というのも選択肢に入ってくる。しかし、都築氏は、実家のある名古屋ではなく、東京で就職することにした。
名古屋だけで、10社。東京では20〜30社も受験した。ただし、テストを課したのは企業側ではなく、都築氏のほうだった。
「不遜だったかもしれませんが、面接に社長が出てこない会社はパスさせていただきました。つづいて私の目標が理解できない社長の下でははたらけないと思いました。その結果、合計30〜40社受けて残ったのが2社のみ。私がこの人とならと思ったのが、KUURAKUの福原社長と外食文化の水口社長だったんです」。
実は、この2人、大親友なのだそう。結局、友人宅から近いという理由で「KUURAKU」を選択した。
ところで、都築氏がその時、語った目標は45歳でセミリタイアし、シドニーと日本で生活することだった。名前が挙がったお2人とも「絶対できる、応援するよ」と言ってくれたそうだ。
「それで、結局、私は福原社長の下で、飲食の仕事を学ばせていただくことになりました。当時、まだ3店舗くらいしかない時代の話です」。
まず銀座店に配属されゼロからスタート。当時は、飲食のレベルもそう高くなかったと語る。未経験だが、アイデアを凝らし、結果を残す。完全歩合給制だったこともあって、12月の月給は70万円になった。
「最初の就職の時とは、むろん意識が違います。私自身は、尊敬できる人と仕事がしたいという一心で会社も選んだわけなんですが」。
福原氏以外に尊敬できる人がいない。「とんがりすぎていたんでしょうね。それで半年経った頃ですね。福原社長のカバン持ちのような仕事に就かせていただいたんです」。イメージ的には、店長をパスし、エリアマネージャーになったようなもの。店長会議も、いくら結果を残したとはいえ、入社半年に過ぎない都築氏が仕切る。
「当然、反発も起こるわけです。それで、今度はいったん店長に降格して、それで半年、ぐぅの音もでない結果を残し、再昇格しました」。
その後は、福原社長の下で会社を動かす、文字通りキーマンに育っていく。辞める時には、人事、教育、採用などを主に行っていたそうだ。
KUURAKU在籍期間は約7年。いよいよ独立の日が近づく。
2017年現在「株式会社そら」は、飲食事業だけではなく、スポーツストレッチ事業、海外事業、2018年からは車事業をスタートする。来年度の年商は、27億円を見込んでいるとのことだ。
実に幅広い。そもそも都築氏がしたかったことは何か。この幅広い事業展開に、その意味が隠されている気がする。都築氏は飲食を志した時、「開発して、商品化して、評価してもらう。それは、飲食でしかできないと思った」と語っている。しかし、いまやその思いは飲食事業以外にも広がっていることの査証だろう。
「事業」という、ある意味、かたちのないものを開発する。それを商品化なり、パッケージ化なりして見える化し、評価してもらう。これが、いまの都築氏の立ち位置であり、やりたいことかもしれない。
開発という意味では「人」もそのなかの一つだろう。「みんながやりたいことをやる。そして、つながる」。空がどこまでも広がっているように、思いでつながれば未来は彼方まで広がっていく。
「やりたいことをやる」。
それは、都築氏の流儀であり、追い続けてきたテーマなのかもしれない。
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創業時にみんなで富士山に登りました |
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