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第614回 株式会社オリエンタルフーズ 代表取締役 米田勝栄氏
update 17/11/07
株式会社オリエンタルフーズ
米田勝栄氏
株式会社オリエンタルフーズ 代表取締役 米田勝栄氏
生年月日 1974年3月23日
プロフィール 東京都日野市生まれ。5歳から、サッカーをはじめる。桜美林高校卒。TVドラマの「HOTEL」に影響され、専門学校を経て、都ホテルで勤務。バーテンダーの全国大会に出場し、銅メダルを獲得。オーストラリアで1年、ワーキングホリディで過ごしたほか、様々な仕事にトライし、キャリアを積む。縁あって「東洋大学」の学生食堂内の店舗を経営。現在、大学内に3店舗、それ以外で2店舗の飲食店を経営する。
主な業態 「ワイン酒場 東京食堂」「東京チキン」「東京食堂」「鉄鍋屋」「窯焼きKITCHEN」
企業HP http://www.orientalfoods2006.net/

都ホテル時代。1年目にして、銅メダル獲得。天才、現る?

東京都日野市。今回、ご登場いただいた株式会社オリエンタルフーズの米田社長は、1974年、この日野市に生まれる。父親は、ゴルフ関連の商社に勤め、のちに起業。兄は地元で飲食店を経営。兄弟は3人で、兄、姉、米田氏という順番。「末っ子だから甘やかされた」と米田氏は笑う。
専門学校を卒業し、進んだのは有名な「都ホテル」。
「当時、『HOTEL』っていうTVドラマがあって、そのドラマに影響されてホテル業界に進もうと専門学校に入りました。ただ、ホテルといったって、そう詳しくなかったもんですから、先生に『ココとココを受かったんですが、どっちがいいですか?』ってたずねているんですね。先生は、『そりゃこっちの、都ホテルだろ』って」。
米田氏にとって、ホテルにバーがあることを知らなかった。手に職をつけたかった。ただし、都ホテルの配属は希望制ではなかった。だから、バーに配属されるように、いろんな手を駆使したそうである。
「当時、都ホテルのバーは、都内でも5本の指に入るといわれていました。にもかかわらず教育方針は、ほかのバーとは異なり、若い頃からカウンターに入れて、やらせるというスタイルで進められました。私も1年目からカクテルをマスターし、実は、1年未満のキャリアで全国大会にも出場させていただき、銅メダルを獲得しました」。
米田氏は淡々というが、凄いことである。会場として選ばれたのは、帝国ホテル。その会場に集まったのは、選りすぐられたキャリアあるバーテンダーばかり。しかも、応募総数全国2000名。ふつうなら1年目の小僧など出番がない。かたい扉が閉ざされている。しかし、米田氏は、その門を1年足らずでこじ開け、しかも堂々3位に入賞し、銅メダルを獲得している。天才、登場である。しかし、本人は「あの時は、結構、緊張しました」というばかりだ。

オーストラリアで、関西弁の社長にまくしたてられる。

「都ホテルからスタートし、実はいろんな仕事についています。バーテンダーですか? そうですね。最初の1年でそれなりの結果を残すことができたことと、どうしても海外で生活経験をしたくて、それで、『都ホテル』を去りました」。
「それから、オーストラリアに渡りました。ええ、ワーキングホリディです。もともと、私は桜美林高校なんですが、その学校に進んだのも、英語が好きだったからなんです。いつか、英語が公用語の世界で生活したいと思っていたもんですから、この時、思い切って」。
思い切りすぎて、所持品はトランク一つ。知り合いもおらず、準備もないまま、オーストラリアに飛び立った。「いま思えば、あの時の1年がぼくを育ててくれたと思うんです。あれがなければ、いまこうしていることもないような気がします」。
「凝縮した1年だった」と米田氏はいう。知り合いもいないから、店の裏口をノックし「はたらかせてくれないか」と聞いて回った。そのうち、一つの店が、快諾してくれたそうである。その店は「YUTAKA」という日本料理店だった。
「オーナーが関西の人で、ぼく以外スタッフも全員、関西人です。関西弁と関西のノリに圧倒されました(笑)。ただ、みなさん、あたたかくて。生き様もそうですし。あの店で学んだことは、いまもぼくの一つの原点となっています」。
人の優しさも、味わった。シェアハウスを転々とし、慣れない土地での暮らしが、いつしかからだに馴染むようになっていた。
「今、うちの会社では、バングラデシュの人や、バリの人にはたらいてもらっているんです。あの時の、ぼくを助けてくれた人たちと同じように、彼らをサポートしてあげたくて。だって、ぼくといっしょでしょ」。
勇気をだして、異国の街に来た。たしかに、行為は、おなじ。国は違っても、人間はたぶん根っこはみんないっしょなのだ。

様々な、寄り道。

オーストラリアに向かってから、1年が経ち、帰国する。
「帰国してから、西新宿の新宿アイランドタワーにある『SPICE ROAD』という多国籍の料理店で勤務します。私は、フロントとバーを担当していました。勤務したのは2年半です。それから、半年ばかり親父の仕事を手伝ったりもしましたが、次に選んだ道は、恵比寿にあるカフェの立て直しです。そちらを半年くらいで立て直し、五反田のレストランで、4年勤務しました」。
その後、義理の兄の会社でも勤務している。「IT会社です。最初はサラリーマンもやってみたいと思って入社させてもらったんですが、半年もしないうちに、合わないなって」。
飲食にカムバックしたくなったそうだ。
「その時、義兄に『辞めるのはいいが、飲食に戻るなら1億円くらい売る仕事をやれ』ってハッパをかけられるんです。ええ、いまでもよく覚えています。あの言葉が、励みにもなりましたしね」。
飲食か、それ以外か。義兄の一言で、米田氏の迷いは吹っ飛んだのではないか。しかし、飲食といっても、どうカムバックすればいい?
「まず、知り合いから、バーを任せてもらって。ハイ、業務委託です。そのあと、これが起点にもなるんですが、東洋大学の学生食堂のなかにあるある店舗の経営が思わしくないので、『立て直して欲しい』というオーダーをいただくんです。それで、深夜の2時までバーをしながら、早朝から大学に行って、という生活がスタートします」。
米田氏が、担当すると魔法がかかったように、とたんに店は再生した。「いえ、特別なことはしていないです。ただ、ハンバーガーやサンドイッチ、ピザがメインだったのを、米モノにしたんです。学生は、いっても米です。米なら大盛りも有ですからね(笑)」。簡単にいうが、結果は凄まじい。それまで最低3万円だった日商が、最高15万円になったそうである。

学生たちの胃袋は、オレに任せろ。

「立て直しには成功したんですが、なんと、会社が撤退すると言い出したんです。バーのほうも、実は学食一本に絞るために、手放していたもんですから。無職で露頭に迷いました。あの時は困りました(笑)」。
しかし、すぐに師匠とも慕う恩人から、声をかけてもらい、ふたたび学食で勝負することになる。今度は、委託ではなく正真正銘、じぶんの店。学生たちの胃袋は、オレに任せろ。経営者、米田氏の誕生である。
「バーでもちょっとは料理もしていましたが、本格的に習ったこともない。実は、店を始めることになって、コックもいないもんだから、後輩(現在のマネージャー)にハヤシライスの作り方を教えてもらう、そんなところからのスタートだったんです(笑)」。
料理はできなかったが、アイデアでは負けない。米モノがいいのは実証済み。ハヤシライスに、オムライス。店名は、「東京食堂 Oriental Kitchen」。
「学生にとってはありがたい学食ですが、経営する側にとってはどうですか?」とたずねてみた。
「案外、難しいものなんですよ」と米田氏。
「大学にもよると思うんですが、メニューがかぶってはいけないし、うちの大学では500円という目安もあって。夏休みとか、春休みでも、学生以外の人もいらっしゃるんで、それなりにはなりますが、やはり授業がある時と、メリハリもつけないといけません。それ以上に難しいのは、学生さんの口コミって、すぐに広がるんです。いいことも、ですし、わるいことも。だから、その点でも難しいですね」。
たしかに、東洋大学のホームページを観てみたが、いろんなショップがフードコートのように軒を連ねている。東洋大学の学生は全国学食ランキング1位、様々なメディアにも取り上げられており、全国はもちろん世界からも視察に来るほどで競合も、少なくないはずだ。そのなかで「東京食堂」は、長い間、根強い人気を誇っている。
「現在の店舗は、大学内が3店舗、それ以外が2店舗。あと店舗ではないですかが、ケータリングやワインショップを展開しています」。
東洋大学内にあるのが、「東京食堂」「鉄鍋屋」「窯焼きKITCHEN」の3店舗、五反田に店を構えるのが、「ワイン酒場 東京食堂」と「東京チキン」。それ以外にもケータリングサービスも行っている。ワインショップは「東京闇市ワインショップ」というユニークなネーミングだ。
年商は、数億円と、「億」という目標は、軽く超えている。しかし、「まだまだ」と米田氏。しかし、先に進むには、問題もある。「物件もそうですが、問題は、人ですね」と米田氏。育んできた学生食堂のノウハウは、フードコートなどにも横展開ができるし、他大学に進出する手もなくはない。実際、海外の大学からもオファがあるそうだ。
「そういう意味でもいまから」と米田氏。「学食」という、個性的なマーケットで証明した米田氏の実力。いまからさらに伸ばすには、いま1人、大事な人との出会いがかかせないのかもしれない。

思い出のアルバム
思い出のアルバム2 思い出のアルバム1 思い出のアルバム2
18歳のころ
引っ越しのバイト
オーストラリア時代の
ハロウィン営業
五反田肉祭G1グランプリ優勝
【牛スジ赤ワイン煮込み】
思い出のアルバム1
地域の祭に参加    

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