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第618回 株式会社べラヴィータ 代表取締役 中村雅彦氏
update 17/12/05
株式会社べラヴィータ
中村雅彦氏
株式会社べラヴィータ 代表取締役 中村雅彦氏
生年月日 1957年10月16日
プロフィール 東京都世田谷区の成城に生まれる。高校時代から競技スキーを開始し、3年時にはインターハイにも出場する。大学卒業後もスキーをつづけたいとスキー場を経営する会社に就職。27歳、さらにスキーを追求するため、単身イタリアに渡る。
主な業態 「リヴァ デリ エトゥルスキ」「ピッツェリア・トラットリア ナプレ」「アミーコビオ エ ナプレ」
企業HP http://www.bellavita.co.jp/

地元スキーヤーにはぜんぜん敵わない。心に炎が宿る。

「荒木大輔がいた調布リトルから勧誘された」と、今回ご登場いただいた中村雅彦氏はいう。株式会社べラヴィータの代表取締役である。生年月日は1957年10月16日。「荒木大輔」というあたりからも、年代がわかろうというものだ。 生まれも、育ちも東京都世田谷区成城。「成城というだけで、金持ちと間違われる」と笑う。父は画家。兄は建築家。芸術的な家系である。
「兄貴は昔から勉強家だったんですが、ぼくは違ってスポーツばかり。小・中はずっと野球。中学3年から部員数が足りないといって駆り出されたラグビーにハマりました」。
中村氏は、ウイング。花のポジションである。トライを積み重ねた結果、チームは関東大会で優勝したそうだ。
スポーツマン。
競技を問わず、なんでもできた。「高校も最初は野球だったんですが、1回戦で負けて、それからスキー部に入るんです」。
スキーは当時、最先端のスポーツである。流行に敏感な若者が、板を担いで山にでかけた。「ぼくが始めたのは、競技スキーです」。スキー部に入部したのは、夏の盛り。スキーとは無縁のシーズンだと思っていたら、そうじゃないそう。
「富山県の立山に行けば雪渓があってね。だから、ぼくも入部したその夏から滑りだしたんです」。
「当時、競技スキーっていうのは、まだ始まったばかりだった。ぼくも多少は滑れたほうなんですが、雪山のある地元のスキーヤーと比較すれば、まるで大人と子供。ぜんぜん、敵わない。それがいけなかったんでしょうね。元来、負けず嫌いだから、心に火がついちゃった」。
そこからはスキー一本。高校2年で、関東大会に出場し、3年では念願のインターハイに出場する。インターハイの東京都の予選会では、スラロームで3位、大回転で5位という成績を残している。何でも、東京生まれ、東京育ちで、東京都の予選会を通過したのは初の快挙らしい。

念願のインターハイ出場。

「いちばん得意なスラロームでは、全日本のナショナルチームのメンバーと滑っても遜色ない時があった」と中村氏。スキーに出会ったことで、生活の大部分をスキーが占めるようになった。「正確に言えば、アルペンスキーという奴です。1日でも、1時間でも雪の上で過ごしたくて、高校1年の時からスキー場でアルバイトをしました」。
夏・冬の長期の休み。合宿が終わっても中村氏は、まだ1人、雪上にいた。
「日給700円」と笑う。かわりに3食、宿付き。たこ部屋とくさい飯だが、休憩の合間には滑走することができただけで充分だったそうである。
「秋田県出身のコーチもいて、その人にもずいぶん可愛がってもらった」とのこと。「とにかく、負けん気ですね。絶対、インターハイにでてやろうって」。
念願かなってインターハイに出場。しかし、その晴れ舞台で、いっしょに出場する選手たちの滑りをみて、中村氏はぼうぜんと立ち尽くす。
「なんでこいつらこんなに巧いんだ」。
ただ、それで歩みを止めないのが、中村氏の流儀だ。まったく敵わないと思っていた相手との差をつめる。大学、そして社会人。それが、「スラロームでは、全日本のナショナルチームのメンバーと滑っても遜色ない滑り」につながる。

イタリアへ。スキーの旅はまだつづく。

インターハイのショックを糧に、さらなる高みをめざすべく、大学を卒業後、スキー場を経営する会社に入社する。同期のなかに、天才スキーヤーがいた。
「彼と大の仲良しになってね。彼はのちにナショナルチームにも入るし、プロスキーヤーにもなるくらいだから、断然、ぼくより巧かったんですが、彼を真似、教えてもらっているうちに遠くからみればどちらが滑っているかわからないって言われるようになった。うれしい一言ですよ」。
選手として、スキーに寄り添う。そういう道もあったかもしれない。しかし、スキープレイヤーとして世界と戦っていくには、高いカベがある。好きというだけではできない。
「私がこの会社にいたのは5年くらいです。結婚も経験したし、離婚も経験した。イチからやり直そうと思って、イタリアに渡るんです。それがちょうど29歳の時でした」。
イタリアには、新婚旅行でも訪れている。なんと滞在期間、1ヵ月。「新婚旅行なのにスキーばっかりで1ヵ月でしょ。そういうので愛想つかされちゃったんじゃないかな」と苦笑いする。
何でもスキーには、いくつかのスタイルがあって、中村氏が好きなのは、当時、流行っていたフランスやオーストリアではなく、イタリアスタイルだったそうだ。
ただ、スキーのスタイルだけではなく、イタリアという国やイタリアの人々にも魅了されていたようだ。むろん、目的はスキー技術の向上である。
「とてもいいコーチに教えてもらって、彼らといっしょに日本にスキーの学校をつくりました。冬のシーズンには、イタリアからコーチを招いて。逆に夏のオフシーズンには、生徒たちであるスキーヤーをめざすジュニアたちをイタリアに連れていくといったスタイルです。かれこれ、10年つづけました」。
実は、中村氏。イタリアのスキー場で知り合った女性と二度目の結婚もしている。ファッションの街、イタリア・ミラノでバッグショップを経営していたこともある。
ともかく、スキーを通して、日本とイタリアを結ぶ。我々にとって当時のイタリアは知っているはいるが、観たこともない半ば想像の国だった。
「そうですね。日本人にとっては、地中海のどちらかといえば、あったかい国ってイメージだと思います。ただ、北は、アルプスなんです。南と北じゃ、ぜんぜん違いますね。気候も、風土も」。
最初に渡った時には、言葉もろくにしゃべれなかったそうだ。むろん、異境である。「恐怖とか、そういうのはなかったですね。それを感じられないほど一生懸命だったんでしょう」。
「選手をつづけるのは無理だ」と思ったのも、この頃だという。「レストランやホテルに興味を持ったのも、この頃です。いつか、ヨーロッパにあるような小さくても質のいいスキー場を日本につくりたいと思ったのがきっかけです」。
イタリアと日本を中村氏も行き来する。コーチたちイタリア人とのつながりも濃くなる。かたわらにいるのは、イタリア人の奥様だ。

「サルヴァトーレ」。

中村氏の人生は、波乱万丈である。しかし、すべてをサラリと語られる。日本のスキー技術の向上に果たした役割も、けっして小さくないはずだ。しかし、自慢げに語ることもしない。伝わってきたのは、「いかにスキーが好きだったか」ということ。まるで子どものようでもある。
 とはいえ、中村氏がピュアであればあるほど、利用されてしまうケースもなくはない。このあとは、日本に生活を戻し、「サルヴァトーレ」を開いてからの話である。
 「1995年に、サルヴァトーレ中目黒店をオープンします。日本ではじめてナポリの職人につくってもらったピザ窯があるお店です」。サルヴァトーレといえば、サルヴァトーレ・クオモをはじめ、サルヴァトーレ三兄弟が有名だが、1号店のオーナーは、中村氏である。むろん、ナポリから職人を招へいし、本場のピザ窯をつくってもらったのは先見の明である。イタリアが大好きな中村氏だけに、偽りのイタリア料理をつくりたくはなかったのだろう。しかし、この店は、やがて中村氏の手から零れ落ちる。
「いろいろあって、お店はとられてしまいます。奥さんと子どもをイタリアに帰国させたのも、この時です」。
「もうだめだと思ったことは何度でもある」。それが経営者の重みをつくる。しかし、人にだまされることほど辛いことはない。重みではなく、怨念のようなものが蓄積されるからだ。しかし、中村氏は、それさえバネにした。「負けるものか」と、質の高いイタリアレストランを次々とオープンしていった。

中村氏が手に入れたものの、お裾分け。

日本の飲食の世界は、いつごろからだろう、麻薬に汚染されている。1995年〜2005年くらいの間に広がったというのが、中村氏の見立てである。
中村氏自身、体験している。
「ある時、シェフから『助けてくれ』って連絡があって駆け付けたら、部屋の隅っこで子犬のようにおびえているんです。『殺し屋が来くる』って。幻想です」。
中村氏の言葉を証明するような、記事もなくはない。
「警鐘を鳴らしたい」と中村氏は語る。
さて、現在、中村氏は「リヴァ デリ エトゥルスキ」「ナプレ」など、合計7店を展開している(Bell’Italia(ベリタリア)というイタリア語教室も経営)。いずれも、日本にいてイタリアを堪能できるレストランである。
スキーから始まる人生のもう一つの旅は、我々日本人に、イタリアという国のリアルな姿を教えてくれる旅ともなった。この功績はけっして小さくはないだろう。
むろん、もはや飲食の戦士である。
「商売って難しいね」と笑う。「だってそうでしょ。飲食の仕事っていうのは、お客様の笑顔を追いかける仕事なんですが、お客様自身が、日々、成長しているんですよね。ナポリのピザ窯って言ったって、いまやいくらでもあるでしょ。雑誌でも勉強されるし、料理本もある。そのスピードを我々は、上回っていかないといけない。だから、難しいんですよね」。
「パスタ」「ピッツア」「ナポリ」「ミラノ」「イタリアン」。もうすっかり日本に定着した言葉である。とはいえ、まだ我々日本人が知らないイタリアがあるはずだ。中村氏が単身イタリアに渡り、手に入れたもの。そのお裾分けを、まだまだいただきたいと思うのでは、それゆえである。

思い出のアルバム
 

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