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第619回 株式会社コムサ 代表取締役社長 麻生直美氏
update 17/12/12
株式会社コムサ
麻生直美氏
株式会社コムサ 代表取締役社長 麻生直美氏
プロフィール 栃木県栃木市出身。お茶の水女子大学卒。新卒で「ファイブフォックス」に就職し、着実に階段を登り詰め、2017年9月、関連会社でもある「株式会社コムサ」の代表取締役社長に就任する。
主な業態 「Café comme ca」
企業HP http://www.cafe-commeca.co.jp/

漫画大好き少女が進んだファッションの世界。

漫画が大好きで、小説も大好きだった。漫画をむさぼり読んでも、通知簿には「5」がならんだ。小学校から高校まで、何度も学級委員長に推された。生徒会の副会長を務めたこともある。評判も、高い。中・高の時は、バレー部。「へたっぴだった」とこちらを笑わせる。
部活動が終わって家に帰れば、ご飯を食べて、お風呂に入って、宿題をとっとと済ませ、それから2時間は漫画の世界にどっぷり漬かった。
「高校の頃は、『読む』より、『描く』ですね」。机に向かっていたのは、漫画を描くためだった。それでも成績は、学年2位だったらしい。
勉強しなくても、できる。たまに、こういう人たちがいる。学問の神様に愛された、うらやましい人たちだ。なかには、それをハナにかける人もいるが、麻生氏は、ひかえめに笑うだけ。
イヤミにも、聞こえない。
「大学は、お茶の水女子に進み、『漫画研究会』に入りました。東大ですか? う〜ん、そこまではね(笑)」。お茶の水女子大学は、いうまでもなく東京にある。
「親元から離れたのは初めて。漫画はもちろんですが、音楽も好きで、バイト先は、ロック喫茶。ディスコにも週2〜3回通いました」。
1980年に入ると、日本はそれまでとは異なった様相を呈するようになる。女性の社会進出が声高に語られ始めるのも、この頃だ。人気の職業の一つに「ハウスマヌカン」が登場するのも、この頃ではなかったか。
「いまの子たちに、ハウスマヌカンといってもピンとこないですよね。簡単に言うと、ファッションの販売員です。当時は、憧れの職業だったんですよ」。
大学を卒業した麻生氏は、その花形職に就く。それも、当時もっとも人気があったアパレルメーカーの一つである「ファイブフォックス」に入社して。
「DCブランドのブームが起こり始めた頃です。もともと私の周りには、教師をしている人が多くって、私もいずれ栃木に戻って教師をするんだろうなって思っていました。でも、せっかく東京に出てきたんだから、もう少し遊んでからでいいかなって(笑)」。
仕事選びのモノサシは憧れで、その目的は、もう少し遊ぶことだった。ともかく、そうやって、麻生氏の「ファイブフォックス」時代がスタートする。

「5000万回、辞めようと思った」。時代はDCブランド華やかな頃の話。

「当時、DCブランドっていったら、それは高価な服でした。私のアルバイト代も大半が服に化けていたほどです(笑)」。念のため言っておくと、DCブランドとは、デザイナーズ&キャラクターズブランドの略である。「ファイブフォックス」はどちらかといえば、キャラクターズなのだそう。
麻生氏の腰掛け程度の新たな人生は、池袋のパルコで始まる。むろん、職業は「ハウスマヌカン」。「ファイブフォックス」の8期生だそうだ。
「だいたい真剣に就職を考えていたわけじゃない。ファイブフォックスに決めたのも、実は面接に行った翌日に合格通知をいただいたから」。
ある意味、志望動機は軽い。「その程度で入社できるなんて」と、就職氷河期の学生が聞くと悔しがるだろう。しかし、入社後「5000万回、辞めようと思った」という通り、それからというもの、麻生氏もまたいくつもの波乱にあっている。
「当時はブームになる時でした。私が配属されたのは、メンズです。お客様の数が半端なかったですね。セールの日になると夕方4時にはもう、ショップのなかはカラに。そんな事態になっていました」。
まさに、飛ぶように売れ、「ファイブフォックス」の業績は、猛烈ないきおいで空を駆け上がった。腰掛け程度で入社した麻生氏もやがて中途半端な気持ちではいられなくなる。半年で店長。1年半後には、ブロック長に就任。「ブロック長になるとトレーナーとなって複数店舗をマネジメントします。私の場合は、新宿や池袋などの8店舗を担当しました」。
部下ができる。誰よりも、高い販売力と技術が求められる。むろん、部下の管理も大事な仕事である。「我々、ファイブフォックスが絶好調だったのは、私が入社して10年目くらいですね。乱暴な言い方ですが、ロゴがついていれば売れる、そんな時代です」。
すでにこの時、麻生氏は、ブロック長をたばねるヘッドトレーナーとなっている。「私が、ヘッドトレーナーになったのは26歳です。コムサには3人のヘッドトレーナーがいましたが、それ以外は一つのブランドに1人だけ。私は26歳でメンズのヘッドトレーナーになりました。そうですね。最年少です。それから、入社7年半の時に、メンズからレディースに異動します。だから、ピーク時にいたのは、レディース、つまり、コムサです」。
コムサはいうまでもなく、「ファイブフォックス」のトップブランドである。

ぜったい負けられない1日。

「メンズから、レディースに行くって、ちょっと勇気がいるんです。メンズには男性もいますが、レディースのほうは、ほぼ100%女性です」。
典型的な女性社会だったそう。
「実をいうと、異動する以前から、気になる女性がいたんです。私と同年代。コムサのなかでも、群抜く成績です。ただ、妥協ができないというか、ピリピリムードで、彼女の下では人がつづかないといった問題も起こっていました。女性社会って、割とヒエラルキーがちゃんとしていますから、彼女が私をどう思うかで、私の位置づけもかわると思っていました」。
麻生氏は、レディースに異動した最初の一歩を、その女性がいるショップへと向けた。足が震えていたそうである。「だって、もし、私が彼女から低くみられれば、もう終わりです。だから、彼女には絶対負けられなかったんです」。
ショップに到着した麻生氏は、販売員に混じって、販売を開始する。むろん、その女性も販売を行っていた。売り上げ勝負である。麻生氏にとっては、負けることができない戦いだった。
「レディースを販売するのは、初めてです。だから、戸惑って、以前、私の部下だったスタッフにアドバイスをしてもらったりして。そうですね。なんとか、彼女には勝つことができました」。
仕事帰りに、2時間、話し合ったそうである。販売面からみれば絶対的なエースである。しかし、簡単に和を乱すことは、いかにエースであっても許される行為ではない。「実は、いまでも彼女とはお付き合いがあって。一挙にというわけではありませんが、それから、少しずつ交流が生まれたんです」。
初日の一歩は、大きな一歩になった。コムサでの麻生氏の立ち位置が決定づけられた1日といってもいいだろう。麻生氏は、全国を飛び回る。スタッフたちの憧れの存在となり、ヒーローともなった。スタッフたちと同性という意味でも、麻生氏は「ファイブフォックス」にとって、なくてはならない存在となっていった。
「DCブランドが、絶頂期だったのは、私が入社して10年目といいましたが、ファイブフォックスが、最高の売り上げをたたき出すのは、それから5年くらいした時です。実は、コムサと異なるもう一つのブランド、コムサイムズをリリースしたからです」。
コムサイズムは、ファミリー対象のリーズナブルプライス。
「この時はじめてショッピングセンターに進出します。反対する人もいましたし、ブランドが劣化するとも言われました。それでも、当時、社長の上田は『やるんだ』と。その判断の正しさは、それからの業績が証明しています」。
絶頂期でも800億円だった売上が、5年後には1800億円になる。コムサイムズが、爆発したからである。負けられない1日からスタートした新たな人生の旅は、彼女を益々、高みへと導くことになった。
しかし、時代は移る。それも、簡単に。「ファイブフォックス」も、いつまでも頂点にいられるわけではなかった。ファストファッションが流行りだし、海外からも競合が上陸する。麻生氏は、7年半いたレディースから離れ、今度は、営業次長となり、一つのブランドを立ち上げることになる。

もう一つのブランド。

「コムサイズム同様、当時では低価格のブランドです。低価格だけど、ちゃんとおしゃれも楽しめるブランド。リリースしたのは、1999年です。コムサイムズとは違って通勤着で、ちょっとしたパーティになら着ていける。そんなブランドを『コムサコムサコムサ』として展開しました。このブランドは百貨店で展開するんですが、やがて『ボナジョルナータ』というブランド名に変更しています」。
その頃になると、麻生氏はブランドのトップとなり、企画も、営業も、すべてをまとめる部長に昇格している。
ところで、麻生氏は、いま飲食の世界にいる。何をどうして、現在地にたどりついたんだろう。
「実は、まだ社長に就任して、14日目」と麻生氏は笑う。このインタビュー記事が、掲載される頃には、何ヵ月かが経過しているはずだが、それでも、なりたて、である。
「カフェ コムサが創業したのは1996年です。だから、もう22年は経っています。現会長の上田が、コムサのお客様にくつろいでいただこうと、創業したのが始まり。だから最初から、そろばんを弾いて出店したわけではないです。そして、つい先日、このコムサの社長に抜擢していただいたわけです。ええ、思ってもいなかったもんですから、上田から電話がかかってきた時には、『会長、相手をお間違いではないですか?』と言ったくらいなんです(笑)」。
それでも、やるとなったからには、門外漢というつもりはまったくない。すでに「カフェコムサ」の事業の本質をつかみ、強みと弱みをもう一度、整理し、より強い「カフェコムサ」を育てようとしている。
かつて、ブランドを移り、まなじりを決して戦いに挑んだ気負いは、もう感じない。いくつもの事業を育ててきた自信が、そうさせるのだろう。
「近々の目標は、40店舗です。店舗数を追いかけるつもりはありませんが、それくらいにはしたいですね。うちは、すべてのケーキをちゃんとしたパテシェがショップで手づくりしています。だから、チェーン化するようなビジネスではないんです。でも、40店舗は、なんとかいける範囲です」。
強みはなんといっても、フルーツ。
「うちのケーキには、おいしくて、希少性の高い、旬のフルーツを惜しげもなく使用しています。むろん、それができるのは、全国の農家の方々と深く、長くお付き合いさせていただいてきたから。そういうつながりも、すべて引き受けていくことになるんだな、と思っています」。
なかには、ホールで20,000円ちかいケーキもある。買える人はいうまでもなく、限られてくる。ただ、ホームページをご覧になれば、価格の高さにも納得できるはずだ。
美しい。アートにも思える。
それはともかく、新米社長が、どんな展開をするか、ここまでお読みいただいたみなさまには、それも楽しみにしていただけるのではないだろうか。麻生氏をリーダーに、もう一つのコムサは、さらにファッショナブルなカラーで、「食べる」「楽しむ」を彩っていくはずだから。
ケーキは、コムサで、アートとなり、ブランドとなる。

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