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第621回 株式会社ローカルダイニング 代表取締役 榊原浩二氏
update 17/12/26
株式会社ローカルダイニング
榊原浩二氏
株式会社ローカルダイニング 代表取締役 榊原浩二氏
生年月日 1978年12月3日
プロフィール 静岡県清水市出身。上智大学卒。自らを無気力人間と評していた大学時代。何かを求めて、バックを抱え、世界を回る。就職はもっとも苦手と思った営業職と狙いを定め、大手企業に入社。周りの助けもあり、優秀な成績を残す。その後、飲食に進むため、ベンチャー・リンクに入社。FCのオーナーとの二人三脚を通し、飲食の難しさを学びつつ、30歳での独立をめざす。
主な業態 「えんがわ」「FISH HOUSE MARIO」「ダオタイヤムヤム」他
企業HP http://l-dining.com/

100年品質。その源流。

静岡県清水市は、富士山を望む港町である。この港町に代々つづく、ふぐ料理の名店がある。「いま5代目の長兄が継いでいて、およそ100年の歴史があるお店です」。今回、ご登場いただいた株式会社ローカルダイニングの代表取締役、榊原浩二氏の実家である。
榊原氏は子どもの頃から「将来、社長になる」と言っていた。理由は「社長が、いちばん偉いと思い込んでいたから」だそう。
「社長になる」と宣言した少年榊原氏は、静岡の港町ですくすくと育ち、進学校の一つである「清水東高校」に進学する。
幼少期を振り返り、ホームページでは<実家が料理屋で、幼い頃から祖母や両親がはたいている姿をみてきた><仕込みや清掃時間等の裏方の仕事ばかりみていたせいか、本当にたいへんな仕事だなと感じた>と書かれている。
100年つづく、由緒あるお店。それはいうまでもなく榊原氏の源流でもあるのだが、当時は、まだ、その流れに気づいてはいなかったということだろう。

いちばん苦手な仕事をしよう。

1年浪人して、上智に進学。「進学したのはいいんですが、勉強はしないし、何かに打ち込むわけでもない。最低な無気力人間でした」。
自分をそう評する榊原氏にひとつのターニングポイントが訪れる。
「やりたいことがみつからず、自分探しの旅に出かけました。アメリカ、メキシコ、べトナム、インド。そうそう、メキシコにいた時に9.11があって、3日間足止めを食らいました」。
海外はトラブルも多く、何かあっても1人で対処しなければならない。初めての町は知らないことばかり。不安もなくはない。
「窮地に追い込まれるでしょ。トラブルも起こる。日本にいたら、出会わないシーンでしょ。でも、そういうことを一つひとつクリアして、少しずつ何かがみえてきた。周りの人たちにいかに支えられているかということも、みえてきたことの一つでした」。
自称、無気力な人間が少しずつ変化する。
ただし、何かをしたいというコアはまだなかった。「就職の時も、『これをしよう』『これをやりたい』ってことはなかったですね。ただ、一つのルールを課したんです。『いちばん苦手な仕事をしよう。そして、3年つづけて、成果をだそう』って」。榊原氏がいちばん苦手な仕事と思ったのは、営業職だった。

営業時代。

営業時代の榊原氏の仕事ぶりは、愚直でまじめを絵に描いたようなものだった。「もともと人と話すのが苦手でした。だから、営業には向いていない人間なんです。仕事ができる人は、数字を上げるプロセスを知っていますが、そのプロセスを知っても、私にはできませんでした。だから、『質より量だ』と飛び込みまくるというスタイルの営業をつづけました」。
「無駄なスタイルだ」と榊原氏はいうがけっしてそうではないだろう。血肉は、いつもいちばんたいへんなことをしてはじめて身になる。「私の実力というより、みんなのおかげで成果を残すこともでき、ルール通り、3年が終わって退職しました」。
このあと、榊原氏は飲食に進むのだが、その時の様子をホームページには以下のように綴られている。<異業種で働き、お客様の立場で自分が飲食店で食事をすることが増えていくにつれて、改めてサービス業、飲食業の魅力に気づき、自然とこの道でいきていこうと決心するようになりました>。
そう、榊原氏と飲食が重なる。偶然ではなく、必然。ようやく、方向が決まる。いったん向かうべき方向が決まれば、あとは突き進むのみ。目標は、30歳で独立すること。

オーナーたちと二人三脚。

「私が修業先に選んだのは、ベンチャー・リンクです。こちらでも丸3年勤務しました」。
仕事は、壮絶と言っていいほどハードだった。
「入社したのが4月。初めて休みを取ったのは8月だった」といって笑う。お盆ではない。初めて休日を取れたのが4ヵ月後だったというのである。
「ともかく、寝る間もなかったです。実際、睡眠時間は3時間程度しか取れませんでした」。榊原氏が担当したのは、某FC店を支援する仕事だった。通常、担当するのは3〜4店舗だったらしいが、榊原氏は、その10倍を任された。しかも2エリア。神奈川と東北。訪問するにも1日1店舗では追いつかない。
「担当させていただいたのは、2つのエリアを合わせ30店舗ほどです。3年間、とても濃厚な時間を過ごさせていただきました」。FC店を支援する、つまりオーナーをサポートするといっても、すべてが巧くいくわけではない。売り上げをいかにすれば確保できるか。
オーナーと二人三脚。
どうすることもできない時もあった。
「たしかにいい勉強にはなりましたが、それは今になって思うことで、当時はもう、なんとかしなくっちゃ、そう思ってばかりいました」。
休むことなく3年、走りつづけた。社会にでて、6年。1年浪人しているから、目標の独立まで、あとわずか。「退職した時に残っていたのは、もう半年くらいでした。ただ、経営のことはわかっても、現場を知らない。それで、グローバルダイニングにお世話になったんです」。
渋谷の「権八」。オペレーションはもとより経営のレベル、売上数字、料理のクオリティ、みるものすべてが段違いだった。「期間は短かったですが、あの時の経験は私のサービス業に対する基礎になっていると思います」。
30歳。ついに独立に向け、動きが具体化する。

100年品質の正体。

「最初は、サブライムさんの業務委託というスタイルで溝の口に出店しました。当時、サブライムさんは業務委託にシフトされていくところで、ちょうど私の後輩が向こうで仕事をしていたもんですから『どうですか?』と声がかかったんです」。
物件を取得でき、出店コストも抑えられる、願ってもないオファーだった。「そうですね。初期投資を下げ、運転資金を残すことができるので業務委託は、願ってもない契約でした」。
ホームページには、当時の様子も綴られている。
<1日でお客様が2人の日があったり、売上げが伸びないことに苛立つことも。しかし料理長、バイトの皆や業者様、友人、先輩に助けられなんとか半年後、劇的に売上が上がる>。
それが2009年のこと。以来、現在2017年で8年が経過している。店舗数は11店舗。3業態。業態ごとに会社をわけているから、現在、関連会社は3社になる。
分社化の理由を榊原氏は次のように語っている。
「飲食店経営は、人がすべて。だから、地に根を張っている人が経営すること。それが、長く続くお店を経営するのに必要なことだと考えています。エリア、業態で分社化するのは、実は、すごく面倒なのですが、それでもあえて今のようなステージから実行しています。共通の理念の下、それぞれの会社が専門特化した業態を深掘りし、地域コミュニティをつくる。規模のメリットが働くものは、本体でその役割を担う。そんな集合体にしていこうと思います」。
「けっして出店ありきではない」という。
その町に根付き、コミュニティをつくり、末永く支持される。それが100年つづく、店の有り様だ。
「百年品質」。それは町とともに息づき、育つことによって生まれる品質のことかもしれない。地域の人の笑顔があふれる店。それが百年品質の正体でもある。

思い出のアルバム
 

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