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第626回 株式会社エヌクリエート 代表取締役 山本敦之氏
update 18/02/06
株式会社エヌクリエート
山本敦之氏
株式会社エヌクリエート 代表取締役 山本敦之氏
生年月日 1974年6月9日
プロフィール 東京中野に生まれる。高校を卒業後、商社マンになろうと外国語の専門学校に進むが、サーフィンに魅了され、内装工事を請け負う会社に就職。結婚を転機に、サーフィン主体の生活を改め、都内でも指折りのラーメン店に修業でる。グルメサイトでも高得点をたたき出し、ミシュランからも認められる名店「金色不如帰」は、その4年半にも及ぶ修業からスタートする。
主な業態 「金色不如帰」
企業HP https://tabelog.com/tokyo/A1318/A131807/13022582/

孤独な少年。

4歳の時に、両親が離婚。その時の記憶はまだ鮮明だ。それ以来、育ての親は、祖父と祖母だった。祖父からもぶん殴られて育った。「父からも、好かれてはいなかった」という。
4歳から剣道を習った。全国大会出場の常連になる。中野区の大会では優勝は、いつも山本氏のものだった。いまも中野区では名前が残っているそうだ。「認められたかったんだったと思う」と山本氏はもらす。
2つ違いの兄と比べられたことも少なくない。「お小遣いも、明らかに違った」と笑う。いま思えば、それらすべてがバネになった。
中・高は、ケンカの日々だった。目立っていたのだろう。なにがあっても、山本氏が原因と決めつけられた。
「私にとって、祖父が大きなカベでした。いつか超えてやると思っていました。どうしてでしょうね。たぶん理不尽だったんです。たとえば私が、剣道でいくら優勝してもぜんぜん認めてくれない。そういうことに対して、反抗していたんだと思います」。
心のなかに、いつもモヤモヤと何かがくすぶっていた。
高校を卒業してからは、外国語の専門学校に進んだ。昔から英語が得意で、商社で勤務しようと思っていたからだ。ただ、道は違う方向につながっていた。

結婚を転機に、無謀なチャレンジを開始する。

「18歳からサーフィンを始めたんです。これが、楽しくて、そちらが主になっちゃうんです。サーファーなのにサラリーマンのヘアスタイルっていうのは、どうかなって(笑)。それで、当時、バイトをしていた内装業者に、そのまま就職することにしました」。
商社と内装業者。失礼な話だが、まるで異なる職業だ。「でも、若い時って、そんなもんでしょ」と山本氏。選択が間違っていたという思いはないようだ。
「ただ、しばらくして転職します。小さな会社だったもんですから。22歳の時に、規模の大きなゼネコンに移りました」。
職人をつづけながら、「監理」の仕事もするようになった。給料は悪くなかった。その一方で、サーフィンはつづけた。サーフィンをするために、海外まで出かけたことがある。
「あの頃、頭のなかはサーフィンのことで埋め尽くされていました。でも、どこかで、こういう生活をつづけていてはいけないなと思ってもいたんです。そんなときに、ひとりの女性と知り合いました」。
それがいまの奥様だ。
ふつう結婚ともなれば、そうそう転職はできない。しかし、山本氏は、真剣に仕事をするために、もう一度ステージを回転させた。
無謀といえば無謀だろう。山本氏が選んだのは、ラーメン。むろん、料理の経験はない。真っ白な素人である。

逃げ出さなかったのは、それだけラーメンに惹かれたからかもしれない。

それから山本氏は4年半に亘り、永福町にある、都内でも、最もきびしいと評判のラーメン店で勤務する。
「ラーメンが好きだったんです。真剣に仕事に打ち込むなら、これだと。いくつかあるなかで、最高の一杯だったラーメン店の門を叩きます」。
面接はなんと7回を数えたそうだ。
「それくらいは、当然の店です。だって、みられているのは、根性だけですから」。
休みは、ない。
「月に3日。休みがあるにはあったんです。でも、休みの日も『4〜5時間は、はたらくもんだ』と言われて」。むろん、拘束時間は長い。1日15時間。
新婚なのに、山本氏が、妻と過ごす時間は限られていた。しかも、自宅でも、山本氏はラーメンをつくった。食材を調べては、新たな味の掛け合わせを追求する。奥様とはすれ違いの日々。一心不乱にラーメンづくりに没頭する山本氏をみて、奥様はどう思われていたんだろう。
「きつかったですね。あの頃は相当。私もだし、女房も」。いつのまにか、食卓には、離婚届がおかれるようになっていたそうである。
「どうしてでしょうね。あの頃は、根性だけはだれにも負けないと思っていたもんですから、折れることができなかったんです。それに、結婚して、逃げ道もなかった。だから、やるしかなかったし、ラーメンが、それだけ私を惹きつけたとも言えるじゃないでしょうか」。

真夜中0時から朝5時まで。店は「研究室」と化す。

素人だった山本氏は、4年半でラーメンをものにする。ただしく言えば、ラーメンをつくる方法をものにした。「食材も徹底的に勉強し、舌を鍛えまくりました」。だから「スープを一口飲めば、味の構成が理解できる」という。いまでは、コピーできないラーメンはないらしい。
鰹、昆布、肉など、それぞれ単体の味をまず頭と舌に叩き込み、掛け合わせを追求する。AとBなら、どうなるか。AとCならどうだと。新たな食材に出会った時は、イメージが頭のなかでふくらみつづける。
「修業を終え、金色不如帰を出店したのは、31歳の時です」。
ちなみに、「金色不如帰」は「コンジキホトトギス」と読む。失礼な話だが、ラーメン店にしてはおしゃれすぎるネーミングだ。そこにも、山本氏の思いが込められているような気がする。
「金色不如帰」は京王新線の幡ヶ谷駅北口から徒歩4分の路地裏にある。席数は8席。
「オープンして5年はしんどかったですね」。今からは想像できないことを言う。もっとも、肉体的なことだけでいえば、今も店に泊まり込む日が週に2日はあるそうだ。
「朝から12時まで仕事をして、それから朝5時まで勉強です」。超人気店になった今もだから、頭が下がる。「ラーメンは、奥が深くて、その底がまだみえないんです」。
はっきり言って、趣味の領域に近い。原価は、50%。山本氏の時間を正確にコストに反映させたとしたら、まるっきり赤字になってしまうのではないかと心配にもなる。しかし、それらすべてを含めて、山本氏のラーメンなのだろう。いただく我々からすれば、このうえなく贅沢な一杯だ。3年連続で「ミシュランビブグルマン」に選ばれた名店だけのことはある。ちなみに、グルメサイトの★の数は、3.82。限りなく5近い書き込みも多い。

海外で星を獲る。

今後は、海外が主となるのだと山本氏はいう。実際、いまからしばらくは、「店にも出られない」そうだ。
「まず、カナダのトロントに、今年(2017年)の12月に出店します。これが、海外1号店です。つぎにシンガポール。こちらは来年の3月か4月になり、5月か6月にはトロントにもう1店舗。ここまでは決まっていて、ほかにもオーストラリアの話がいま進んでいます」。
「ええ、独資ではありませんから、ロイヤリティビジネスになります。そのほうがいい、と思います。ラーメンも、こちらからもっていくつもりはないんです。食材も向こうの食材を使います」。
何をどう掛け合わせるか。それが楽しみだそう。
カナダの食材、シンガポールの食材、その一つひとつをかけ合わせて、異国の地でも、世界共通の笑顔を引き出す。それが、山本氏の思いである。
「世界で星を獲る」。
山本氏は、そうも宣言する。山本氏流の、自身に対する追い込みの一言かもしれない。ところで、どうして、海外にこだわるのか聞いてみた。
「日本にはもうこれ以上、食材がないんです。うちが国内で店舗展開しないのは、そのためです。『クオリティを守れるなら、出店してもいいじゃないか』という声もありますが、そう簡単じゃない。店を繁殖させていくのはたしかに簡単ですが、クオリティを維持するのは難しい」。
「もし、いまのクオリティを維持できないまま、いまと同じ食材を使えば、どうなるか。もったいないんです。生産者の方が苦労して、おいしく育ててくれたのに、そのちからを出し切れない。もったいないし、申し訳ない。私はそう思うから、国内では、いまの店だけで行こうと思っています。もっとも、もうすぐ移転し、拡張はしますが」。
ぶれない。
どうして、ここまで山本氏はつよく生きることができるのだろう。
「どこかで、認められたいという思いがあるんでしょうね。だから、昔は祖父に対して、反抗もしていましたが、いまは逆に感謝しています。すべては、そこからスタートしていますから」。
金色の一杯。そこに込められた思いで、世界で星を獲る。まだまだ山本氏の戦いはつづきそうだ。ちなみに、デンマークのコペンハーゲンにある、とある有名なホテルの料理研究室長が来日した時、山本氏がつくったラーメンを食べて、「日本にきて、いちばん感動した」と絶賛したそうだ。

思い出のアルバム
 
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