株式会社ミールワークス 代表取締役社長 小島由夫氏 | |
生年月日 | 1952年1月11日 |
プロフィール | 東京都吉祥寺出身。成蹊大学卒。マルハ(現マルハニチロ)株式会社の親会社である大東通商株式会社に就職。のちにマルハの会長、また横浜ベイスターズのオーナーを務める中部慶次郎に従事。中部氏をサポートしつつ、1982年にシーフードレストラン「マンボウズ」をオープン。1991年にブラジル料理のレストランをリリース。1992年に、マルハを離れ、会社を設立し、代表作の一つでもある「コカレストラン」を六本木にオープンする。 |
主な業態 | 「コカレストラン」「マンゴツリー」「スラッピーケークス」「ダンシングクラブ」「トロ」「フラッグスカフェ」 |
企業HP | http://www.mealworks.co.jp/ |
「私のちからで、オリンピックにでるか、でないか」。
祖父がいつものように二者択一の問題をだす。
「あれは、私が大学生で、フェンシングの大会で準優勝したりとそれなりの結果を残していた時です。祖父は、もと東京大学の教授で、明治大学の学長も務めた人です。オリンピックの委員にもなっていたものですから、人選にも影響力を持っていたんでしょう。『でたいなら、だしてやる。もっとも、予備選手だから試合にはでられないがな』という話でした」。
答えはいうまでもなく「でない」。つまり、「ノー」だ。「でも、正直悩んでしまいましたね。参加することができるんなら、そりゃね。最高の思い出にもなるでしょ。もちろん、私が、ひとつの枠を取っちゃうわけですから、そりゃできません。『でない』といったら、祖父はにっこり笑ってね。『それが正解』っていうんです。」
小島氏が生まれたのは、1952年。父親は、音楽家。その父親の教育方針なのだろう。小島氏は0歳からピアノを習わされた。「ピアノに、バイオリンでしょ。みんなで野球をやっていても、私1人うちに帰って、ピアノやバイオリンのレッスンです。イヤですよ。そりゃね」。
小学校入学時に受験し、「成蹊学園」に進む。「大学まで一直線ですよ。だから、勉強もしなかった」。
音楽は中学で辞める。「才能がなかったから」と小島氏。「好きなわけでもなかったからね。親父も、こいつには無理だと思ったんでしょう。認めてくれました」。
音楽を辞め、柔道を開始。高校時代には、フェンシング部をつくり、大学でもフェンシング、一本。冒頭に書いたのは、その時の祖父と小島氏の話である。年代からいえば、「ミュンヘンオリンピック」だろうか。
「JALってあるでしょ。祖父に『JALがいい』というと、叔父がJALの専務だったもんですから、採用枠をひとつ追加して、成績ではけっして入社できない私を拾ってくれようとしたんです。でも、この時ね。専務の叔父が『採用する』って言ってんだから、もう決定だと勘違いして、試験も受けずにスキーとかにいっちゃって。そりゃ、試験も受けないんだから、採用もできないわけで。そりゃぁ、もう大目玉です。それでも、『ジャルパック』って子会社を勧めてくれて、入社できる手はずを整えてくれていたんです。面接は、いきなり社長です。ただ、面接で仕事内容を知って、『そんな仕事はやりたくないです』って、叔父の顔にまたまた泥を塗るわけです」。
「社会常識がぜんぜんなかった」と、小島氏。つぎに紹介してもらった「博報堂」でも、いきなり最終面接だったが、「代理店はそんなもんだろう」と、私服で臨んでしまい、あっけなく不合格。
今度は祖父でなく、父親の紹介で、マルハ(現マルハニチロ)株式会社の親会社である大東通商株式会社に向かう。「当時は丸ビルの6階にオフィスがありました。実は、父方の祖父は一時、マルハ専属の医師をやっていて、この時、私がたずねたのと同じフロアで仕事をしていたそうなんです」。
縁というものがある。
「マルハっていうのは、有名な企業ですし、プロ野球球団ももっていたんで、知ってはいたんですが、むろん、常識がないですからね、知っていたのはそれくらい。向こうのほうが、私のことを知っていまして。『面白い奴だな。キミは』って。何もいう前からです(笑)」。
「面白い奴」といったのが、中部氏だったかどうかは記憶の外だが、その面接官のなかに、生涯の恩師ともなる中部氏もいたのはたしか。中部氏は、マルハの創業者一族。ここで言う中部氏は、のちにマルハの会長になり、横浜ベイスターズのオーナーにもなる中部慶次郎氏のことである。
恩師になるわけだから、試験は合格。無事、大東通商に就職することができた。
「中部さんから『何ができるんだ』と聞かれた時に、『たぶん、第一線の営業にはなれません。ただ、みんなをつなぐことはできる。そんなことをしたいと思います』と答えたんですね。そういう奴が1人くらいいてもいいんじゃないかって思われたんでしょう。ただ、野放しにはできないから、いきなり中部さん、直轄です」。
公私ともに中部氏に、付き添い、寄り添う人生が始まる。
余談だが、入社後の研修は、首相官邸で行われたそうだ。
「講師は中曽根さん、海部さん、最後に三木首相からお話をいただきます。贅沢な研修ですよね」。この研修には、様々な企業から精鋭が参加して、マルハから参加したのは2人だけで、小島氏はその1人。精鋭たちのなかで小島氏だけ、「浮いていた」と笑う。「くっつけ役」をめざす人は、そう多くない。
ところで、大東通商に入社し、中部氏の側近となった小島氏。ただ、それだけでは、小島氏と飲食のつながりがイメージしにくい。
「社内で『外食も研究しないといけない』ってことになって、私をヨーロッパに送り出してくれたんです。そう、イタリア、フランス、ドイツ…。経費で、食べて、飲んで。で、一つだけわかったのは、企業型の飲食と、個人型の飲食というのが2つあるってことですね。効率優先と、真心とクオリティの勝負です。ロケーションだって、企業型はお金があるからね。そういうのをリサーチして、1年弱で帰国します」。
外食と、マルハをくっつける。「くっつけ役」には、ある意味、最適な仕事だ。「そして、私が30代前半の時ですね。3億円かけて、表参道に『マンボウズ』をオープンします」。
小島氏は「好き勝手に店をつくった」と言っている。そりゃぁ、そうだろう。3億円もあればたいてい好きなようにできる。地下1階のワンフロア。22メートルの大水槽を設置した。
「シーフードレストランです。芸能人もけっこういらっしゃいました。連日、大盛況です。しかし、イニシャルコストが高すぎて、なかなか利益はでなかった。誤算といえば、誤算ですが、宣伝効果を加味すれば、充分、元は取れたと思っています。ただ、社内での評判がイマイチだったのはたしかですね」。
紆余曲折がある。「マンボウズ」は、8年ほど営業をつづけたが、小島氏は数年で経営から外れることになる。志半ばである。社内では、中部氏から可愛がられすぎだという、やっかみもあった。そんな時、キリンビールから一本の連絡が入る。
「マンボウズが、評価されたんでしょうね。ヘッドハンティングです」。条件も破格。熱意もビシビシ伝わってきた。「マルハにいるより、いいのでは」と思っても無理はない。
いったん転職を決意した小島氏だが、中部氏によって翻意させられる。代わりに、新たなレストランを立ち上げるチャンスを手にした。ただし、今回は「儲かる」のが条件だったという。
いま現在、株式会社ミールワークスは、「コカレストラン」「マンゴツリー」「スラッピーケークス」「ダンシングクラブ」「トロ」「フラッグスカフェ」などのブランドを運営している。「コカレストラン」は、日本においてタイ料理とともに「タイスキ」をデビューさせたレストランである。
さて、儲かるという条件で、はじめたレストランは「シュラスコ」料理のレストラン。
「ともかくお金をかけたら、そのぶんイニシャルコストが上がってしまう。料理人も、できれば少ないほうがいい。どうするかって時に『シュラスコ』がいいとなってことになって。すぐにブラジルに向かい、ブラジルのスタッフを15人くらい連れて帰ってきてスタートです」。
ともかく、行動がはやくて、大胆。そんな小島氏を起点に「儲かるレストラン」づくりが回りだす。
「東急さんが渋谷に空いた土地をもっていて、『5年だけ』という条件で、ただで貸してもらったんです。ただ、建物は、造らないといけない。その時もラッキーで、博報堂の知り合いから、『UCCさんがプロモーション店舗をだしたがっている』という話を聞いて。『じゃぁ、いっしょにやりましょう』ということになって、建物はUCCさんに造ってもらったんです。1Fが、UCCさんのショールームで、2Fが、うちの店舗です。ここまでコストは、ほぼ『0』ですからね」。小島氏は、結果を語るようにニヤリと笑った。
「『レジにお金が入らない』って、冗談みたいな連絡でした」と小島氏。店内は、人で溢れ、レジは、札で溢れたそうだ。月商1億円。オープンは、1991年。Jリーグができて、ジーコが来日するなど、ブラジルは注目されていた。それが追い風となったのもたしかだろう。
ただ、シュラスコは、ブラジル料理であり、肉料理でもある。「マルハなら、シーフードでしょ。それで、次に目をつけたのが、タイ料理』です」。これが、「コカレストラン」の始まりともなる。
「ヘルシー志向ですね。中華の次に来るとすればタイ料理だと思って。タイに渡り、オーナーと何度も交渉し、口説いてもってきたのが、常夏の国の鍋料理です」。
ちなみにこの時、オーナーのピタヤ氏から覚悟を示せと言われ、小島氏はマルハを退職。株式会社コカレストランジャパン(現 マンゴツリージャパン)を設立している。
これが、株式会社ミールワークスの始まりと言っていい。六本木にオープンしたコカレストランは、たちまち流行り、タイスキは、タイ料理とともにポピュラーな一品になる。
株式会社コカレストランジャパンの設立から数えれば、2017年現在で、もう四半世紀を過ぎようとしている。小島氏ももう60を超えた。しかし、レストラン事業にかける思いは、創業当時と何一つかわっていない気がする。
「レストランには、大規模なチェーンもあれば、小規模なレストランもある。ヨーロッパでみたままです。私がつくるのは、後者です。私自身が思い入れのあるレストランですから、いうならば子どもといっしょですね」。
フレンチでもなく、イタリアンでもない。もう一つのレストラン。それは、私たち日本人の味覚だけではなく、知覚を広げてくれたように思う。ひょっとすれば、それが小島流のレストランのつくりかたかもしれない。
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