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第629回 株式会社MUGEN 代表取締役 内山正宏氏
update 18/02/27
株式会社MUGEN
内山正宏氏
株式会社MUGEN 代表取締役 内山正宏氏
生年月日 1974年1月3日
プロフィール 福井県敦賀市生まれ。専門学校卒。「ロイヤルパークホテル」を皮切りに、江戸時代からつづく料亭などで、修業を重ね、2006年、「なかめのてっぺん」を開業。現在、「なかめのてっぺん」をはじめ、「はまぐりや串座衛門」、「年吉次蟹蔵」、また独自の取り組みとして「築地もったいないプロジェクト 魚治」を展開している。
主な業態 「なかめのてっぺん」「はまぐり屋串左衛門」「吉次蟹蔵」他
企業HP http://www.mugen-c.jp/

父親に連れられ、割烹に通う。

「ファミリーレストランに行ったことが一度もない」と内山氏は笑う。1974年生まれの内山氏が子どもの頃といえば、ファミリーレストラン全盛期。
「親父が、料理人に憧れていたんです。だから、連れて行かれるのはいつもカウンターがある割烹です。『息子に肉でも焼いてやってくれ』と親父がいうと、神戸牛のヒレがでてくるようなお店ばかりでした」。
豪勢な話だが、内山氏にすれば「一度は、ファミリーレストランへ」という思いもあったに違いない。親子3人で仲良くテーブルを囲む。そういう光景は、頭に浮かばない。
「ぼくが子どもの頃に、両親は離婚します。ぼくと母親は、それまで暮らしていた豊田市(愛知県)から離れ、母方の親戚がいる川崎市に引っ越しました。その時、何かと母の相談に乗ってくれたのが親子で通っていた、ある割烹のオーナーだったんです」。
「同年代の子どもがいたから」と内山氏。オーナーは、内山氏が川崎に引っ越してからも、何かとよくしてくれた。内山氏も甘えるようにして、長期の休みになるとのれんを潜った。
「3日とか5日とかの短期間ですが、アルバイトをさせてもらいました。お客様にお茶をお出ししたりして。帰る時には、だいたい5万円くらいいただきました。いいアルバイトでしょ(笑)」。
内山氏のなかでの父親像は、この店のオーナーによって焦点が結ばれる。オーナーといっしょの部屋で寝泊まりし、朝の仕入れにも連れて行ってもらったことがある。
「最初は、ぼくだけが特別だと思っていたんです。でも、アルバイトをしていてわかったことなんですが、オーナーは、ぼく以外の子どもも預かっていましたし、だれにも、やさしく接していました」。
だから、いつも店には客が溢れた。
「料理が巧いだけじゃなんだな。料理人って、最後は人間力なんだなって。そう思うと、飲食の世界がとても素敵に思えてきたんです」。
高校を卒業するまで、何かにつけ内山氏は、このオーナーに相談している。

専門学校に進むか、オーナーの下に進むか。

高校までテニスをつづけていた内山氏は、大会でも優秀な成績を残してきた。母親一人である。経済的にも、大学進学は簡単な選択ではない。
「最初は推薦で大学へ、と思っていたんです。実際、それくらいの成績は残していましたから、お声もかかるだろうと高をくくっていました。だけど…」。
結局、天の声は降りてこなかった。大学進学をあきらめた内山氏は、はじめて飲食の道に進むことを決意し、母親に頭を下げ「専門学校に行かせて欲しい」と言葉をつむいだ。
「オーナーにも当然、相談しました。すると『専門学校に進むぐらいだったら、うちにすぐ来い』って。でも、まだ若いでしょ。オーナーの下に行くと青春がなくなっちゃうと思って、誘いは全力でお断りしました(笑)」。
専門学校では、たしかに青春を謳歌した。授業の成績は、そこそこ。ホテルを受検すると言った時には「受かる訳がない」と断言されている。
「それでも怖いもの知らずで、ロイヤルパークホテルを受検します。ところが、合格しちゃうんですね。当時はバブル全盛で、まだ開業して1年も経っていなかったから人手不足だったんでしょう。ラッキーといえばラッキーな話です」。
たしかにラッキーな話だった。待遇にも恵まれていた。
「仕事は朝7時半から終電まででしたが、休みも当時から月8日あった。給料も総額で20万円くらい」。
たしかに、恵まれている。料亭や割烹であれば、極貧生活が待っていたはずである。「しかも、すぐに魚にも触らせてもらいましたし、いいことずくめです。ところが、ホテルのなかで尊敬していた先輩が出身の割烹に戻るというので、迂闊にも『連れて行ってください』って言っちゃうんです。これが地獄の始まりです(笑)」。

料亭へ。地獄の始まり。

「ぼくが21歳の時です。浅草橋にある江戸時代からつづく有名な料亭でした。料理人はぼくをいれて6人。料理長と、そのぼくが尊敬していた先輩、それとあとは、ほぼ同年代。もちろん、ぼくがいちばん下っ端です」。
調子にのって決めてしまったことを何度、後悔したか。
「半年に一度のペースで辞めたくなるんです」。
仕事は朝から深夜まで。寮があったとはいえ、給料は10万円。仕事といっても雑用ばかり。
「料理長のシャツやネクタイ、靴下のアイロンがけ、靴磨き、あと国宝級のお皿があったんで、それを桐の箱にしまうのも、ぼくの仕事。何をしに来たのか、わかりません」。
寝泊まりするのは、店の近くにある寮の6畳一間。「2段ベッドが2つデンとあって。そう4人部屋です(笑)」。給料10万円。独り暮らしができるわけもない。おまけに、先輩に誘われ、仕方なくキャバクラ通い。借金も相当な額になった。
「ある意味、地獄でしたが、親父がいないぼくがどこで人間形成したかというとやはり間違いなく、あの料亭だったと思います。その意味をどこかでわかっていたから、辞めたいと何度も思いながら、逃げ出さず5年もつづいたんだと思います」。
最終的には、刺身を切る板場に立つようになり、3番手となった。「料亭っていうのは、これが一つの区切りなんです。3番手の仕事ができるようになるといったん店を離れ、外で修業をするというのがだいたいの流れなんです。ところが、ぼくはそうなってもまだ店を辞めようと思っていました。辞めるというのは、縁を切るという意味です」。

透明人間。

もう、26歳になっていた。大人である。大人の言葉は重い。「そうですね。初めて『辞めていいぞ』って言われたんです」。ただし、ただの了解ではなかった。
辞めると決まってから、2ヵ月。「ぼくは、透明人間でした」と内山氏。総シカト。大人のやることじゃない。
「精神的にもつらかった。口も聞いてくれないし、後輩たちもいたんですが、ぼくのいうことは聞かなくていいって言われていたもんですから、彼らにすれば、これ幸いです」。
許されたくて、気づかれたくて、深夜に1人で厨房をピカピカに磨き上げたりもした。それでも、だれも何も言わない。
「今思えば、当時、店を辞めるというのは、そういうことだったんです。約束の2ヵ月が経って、料理長にあいさつに行くと『どうだ? つらかったか?』って。『あ、みていてくれたんだ』と思うと急に涙がこぼれました」。
料理長の思惑がどうであれ、つらい仕打ちであったのはたしか。「辞めるからには、うちの名はだすな、うちの関係者ともつながるな」とも釘をさされた。
「ぼくは、人付き合いがうまかったし、きらわれるような人間でもありません。でも、うわべだけだった。それを見抜かれていたんだと思うんです」。だからこその仕打ち。たしかに、人は痛い目にあってはじめて、成長する。
ともあれ、「一人前になるまでは暖簾を潜るな」とも釘を刺した料理長は、その一言にどのような思いを込めたのだろうか。内山氏の漂浪はまだまだつづく。

天狗になって、クビになる。

店を辞め、就職雑誌をみて銀座のとある居酒屋に就職する。
「料理人っていうのは、料理だけつくっているのがうれしいわけじゃないんです。お客様が旨そうに食べてくれる、それをみるのが、いちばん楽しいことなんです。次の店は、カウンターで、すし職人もいるような店でした。だから、お客様との距離も近い。今まで接客のようなことはしていなかったので、新鮮でもありました」。
実は、内山氏が5年もつづけた店を辞めた理由もそこにある。「前職では、料理長のオッケーをもらって、はじめてお客様にお出しできたんです」。
「客ではなく、料理長に向いている」。そこに疑問を感じたという。「客単価2万円くらいの店ですからね。そういうことも仕方なかったのかもしれませんが、それではいつまで経ってもお客様のための料理はできないと思った。それが転職のきっかけなんです」。
次の店では料理長という肩書がついた。オーナーにも頼られた。給料も25万円。破格だった。だから感謝もした。しかし、いつしか内山氏の思いが大きくなりすぎる。「だんだんとオーナーに意見するようになりました。今、思えば天狗になっていた。それで実はクビにされました(笑)」。
内山氏29歳の時である。
このあと内山氏は、知り合ったばかりの、ある人物が店長を務める居酒屋でアルバイトを開始する。その人物こそ、「てっぺん」創業者、大嶋氏である。

日本一の意味。

大嶋氏の片腕として、敏腕をふるった内山氏は2006年に独立を果たす。そして、料理人としてはもちろんだが、経営者としての力量も世間に知らしめた。抜群のプロデュース力も証明する。
いま、内山氏は、「なかめのてっぺん」をはじめ、「はまぐりや串座衛門」、「年吉次蟹蔵」、また2014年に「築地もったいないプロジェクト 魚治」をオープンしている。こちらは、規格外やセリで余った魚などを有効に活用した「安くて、旨いブランド」である。
料理人だからできた、発想だろう。
ホームページには以下のように書かれている。
「日本各地には食に対する“もったいない”があふれています」。無駄に廃棄されている食材の量は、なんと、飢餓で苦しむ世界中の人たちに援助されている食材の量を上回っているそうだ。
「食料自給率が40%に満たない日本が、世界で一番廃棄してしまっている」。「もったいない」の合言葉で、この現実をなんとかしたい。それが、内山氏の思い。
このプロジェクトは、「もったいない」という精神をもった我々、日本人がこれから進むべき道のような気がする。そう考えると内山氏のやろうとしていることが少しだけみえてきた。それは、繁盛店づくりではなく、それ以上の、でっかいこと。いうなれば、それは、、日本人の生き様までかえようという試みのような気がする。
飲食ができることは、つくづく大きくなってきた。

思い出のアルバム
 
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