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第632回 株式会社熱血 代表取締役 横田晃一氏
update 18/03/20
株式会社熱血
横田晃一氏
株式会社熱血 代表取締役 横田晃一氏
生年月日 1984年4月13日
プロフィール 藤沢市辻堂出身。小学校4年からバスケットボールをはじめ、開花。特待生Aクラスで、四国にある有名なスポーツ高校に進学する。しかし、不慣れな寮生活、厳しい校則から、脱走。もう一度、神奈川県の公立高校に進んだが、そちらも数ヵ月で退学。母に背中を押され、役者の道を進み始めたのは、そのあと。役者をあきらめ、ラーメン店で修業を開始。29歳で独立。株式会社熱血を設立する。
主な業態 「家系ラーメン藤澤家」「鶏豚大将」「つけ麺愛染I-zen」

獣道は、下界につづく唯一の道。

いつまでもバスに揺られつづけた。 野球でも有名なその高校は、高知空港からバスで数時間。山間にあり、「コンビニに行くにもタクシーで1時間かかった」という。今回、ご登場いただいた横田氏が、この高校に進学したのは、もうずいぶん前だから今とは異なっていることも多いだろうが、横田氏のなかにある風景は、今も山間のなかにある、収容所のような建物だ。
「当時は、インターネットもない時代でしょ。バスに揺られながら、『どこまで行くんだ』って/笑」。当時、そのスポーツ高校は、次のスポーツの目玉としてバスケットボールに注力しており、選りすぐりの選手が全国から集められた。横田氏もその一人である。
出身地は、藤沢市。その市のバスケットボール関係者で、横田氏の名を知らない人はいなかった。身長は当時から184センチ。バスケの選手としては飛びぬけてはいないが、それなりの背丈である。スピードは群を抜いていた。小学校でも、中学校でも、チームは横田氏の名をもって語られた。
「合宿に参加して、特待生のAで入学します。1人息子だから両親も淋しかったと思いますが、背中を押してくれました。でも、今になって思えば、あれが挫折の始まりかな、とも」。
下界から隔離されていた。生徒の90%以上が寮に住み、大半が何らかのスポーツで名をあげた選手だった。校則はきびしく、学校を抜けだすとそれだけで「停学」。食事も、全員で。「収容所みたいですね」というと、「まさに、そんな感じです」と笑う。食事は「カラアゲと大盛りの飯」と決まっていた。タンパク質と糖分をブロイラーのように摂取させられた。ただ、選りすぐりの選手のなかでも、横田氏は群を抜いて期待されていた。神奈川のレベルが、相当高いことを証明している。
「バスケのほうは、よかったんですが、生活のほうがたいへんで/笑」。最初にぶち込まれた4人部屋には、名主のようにふるまう柔道部や相撲部の先輩がいた。
「獣道っていうのがあって」。「獣道?」「そうです。文字通り獣しか通らないような道があって、それが唯一の抜け道なんです。夜中こっそり、獣道を使って抜け出してタクシーでコンビニまで行く。片道1時間。そうやってコーラとかを買ってくるんです。もちろん、買いに行くのは1年生。行くではなく、『行かされる』ですね」。
横田氏も何度か、獣道を駆け下りた。

退学。その道はどこにつづく?

「まぁ、そういうこととか、いろいろあって。実は、夏が過ぎる頃に学校から脱走しました。友人宅に逃げ込み、そこがバレ、2日くらい野宿して、藤沢に逃げ帰ったんです」。
朝の点呼の最中。窓から抜け出したらしい。
「いちばんの理由は、朝の点呼に間に合わず学校を抜け出していたことがバレてしまったことです。それでも、ふつうなら一時の『停学』で済むんですが、私の場合は特待生のAクラスですから、『それで済ましてはまずかろう』と違約金を取られることになったんです」。
今でも、その額は申し訳なくて親に聞けないそうだが、「相当な額だったのは間違いない」とのこと。「シェフの父親はもともと寡黙な人でこの時も何も言われなかったと思いますが、さすがに、こちらは申し訳ない思いでいっぱいでした」。
3週間後、横田氏は1度、その高校にもどっている。退学の手続きをするためだ。その手続きを終え、校舎を後にする時、横田氏はどんな気持ちだったのだろう。
負け犬。遠くから、そんな声が聞こえてきたかもしれない。

役者。まだ人生の答えはでない。

もともと県内にも「来い」と誘ってくれていた高校があった。公立だったが相談したら、1年遅れだが入学できた。しかし、横田氏は、その学校も3ヵ月程度で退学してしまう。もう、好きなバスケットボールもつづけられない。
「役者の道に入ったのは、そのあとです。母親がプロダクションに勝手に写真を送って。1次選考を通過したもんですから、『オーディションに行って来い』と/笑」。
役者のことなど何もわからない。しかし、今度は逃げ出さなかった。「9年くらいですね。ただ、生活は極貧です。月数万円。アルバイトもするんですが、急に仕事が入ったりするわけで。そうそう融通がきくバイトもなく、だんだん夜のバイトが中心になるんです」。
どこまでいけば、役者として独り立ちできるのか?
「もうそろそろ限界かな、と思ったのが25歳の時です。その頃にはもう、夜の仕事ばかりだったので、そういうのもまずいんじゃないかなって」。
高校を逃げ出してから、およそ10年。将来を誰より期待されていたバスケット選手は、夜のとばりに立って途方に暮れていた。

すなおに、まっすぐに。

それから、何年経っただろう。現在、横田氏は、ラーメン店を3店舗経営している。もうすぐ4店舗目を出店する予定だ。その4号店をモデル店にして、「出店をさらに加速させる」という。「今までの店は立地が良くなかったので、家系のなかでもエッジの利いたマニア受けするテイストにしていたんです。4号店目は、いい物件が手に入ったんで、もう少し一般受けするようなテイストにします」。3店は、いずれも好調。 ところで、役者を辞めてから、ラーメン店の店主になる。その道はどのような道だったんだろう?
「家系のラーメン店で仕事をすることになったのがそもそもの始まりです。でも、そこもすぐに辞めてしまうんです。その時、知人から、今まで君は仕事を転々としてきたから、『毎回ゼロからのスタートになるんだ』て諭されるんですね。で、『そうか!』と。初めて気づくんです。それで、次もおなじラーメン業態のお店ではたらきはじめます。 そこで、栄光復活です/笑」。
何でも、最初の店のレベルが格段に高く、転職先では、「ふつうのことをしていても、凄いと誉められた」そうだ。そうなると、人間、調子がいいもので、横田氏もとたんに前のめりになった。この会社では、要職につく。店舗開発も行い、部下もついた。何よりラーメンを通し、ジブンを表現するすべを知った。その延長が独立だ。
「もちろん、店舗数を増やしていくためには、『経営』というのが大事になってくると思います。組織づくりもそうだし、労働条件もそう。もう一度、それも見直していきます。その一方で、ホームページも現在作成中(2018年3月12日現在)です。実は、そのホームページで語る理念を今考えているんです」。
何だろう? 横田氏を真ん中にして、みんなを結ぶ言葉とは?
最終的に変わるかもしれないが、横田氏がその時に言った言葉を拝借して、それを締めの言葉にしたい。いかにも挫折を味わった、人間味があり、まっすぐな横田氏らしい言葉だからだ。
「すなおに、まっすぐに、どこまで行けるか」。
そのいさぎよさがいい。

思い出のアルバム
 
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