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第633回 株式会社ウインドウ 代表取締役 臼井大士氏
update 18/03/27
株式会社ウインドウ
臼井大士氏
株式会社ウインドウ 代表取締役 臼井大士氏
生年月日 1977年8月14日
プロフィール 大阪交野市出身。龍谷大学卒。卒業後、「なか卯」でアルバイトを開始。5年ほど勤め退職し、生命保険会社に就職。1年半後、飲食の経営支援サービスなどを行う「リンク・ワン」に転職。「リンク・ワン」の民事再生時に、株式会社ウインドウに転籍。2017年、社長に就任する。
主な業態 「カレー食堂 心」「わっはっはっ風月」「浜ちゃん」
企業HP http://www.window-co.jp/

交野市出身。

大阪府交野市出身。小学校ではソフトボール、中学ではバレーボール。いずれでもキャプテンを務め、運動神経も、勉学の面でも秀でた少年がいた。それが今回、ご登場いただく臼井氏である。生年月日は1977年8月14日。
「父親も、母親も松下電器(現パナソニック)で勤務していました。父親は松下電器が運営する高校に進み、卒業後も事務方としてずっとあゆんできた人です。鳥取に6年、台湾にも単身赴任していました。そういうこともあって、たまに帰ってくる父が大好きでした」。
中学でバレーボールをはじめたのは、姉の影響。高校も実は姉の勧めで、公立ではなく有名私立「東海大付属仰星高校」に進んでいる。「できればバレーボールをつづけたかったのですが、スポーツ科と進学科は、そもそも授業時間から違っていて、つづけたくてもつづけられなかったんです」。
スポーツでも、進学でも有名な高校に、よくあるといえばあるコース分けである。「高校2年の時ですね。母が病気で倒れ、幸いなことに全快したんですが、それがあって医学の道を選択します。今までは、どちらかといえば方向性がなかった私ですが、一念発起して医学部をめざしました」。
医学部をめざすというのだから、学力は相当高かったはずである。ただ、進んだのは京都の龍谷大学。希望の大学には進むことができなかったらしい。
「コネがないと、選択肢は国公立しかありません。推薦で、ある大学の薬学部も受けたんですが、数点足らずで」とのこと。「それで、思い切って文転して、経営学部に進んだんです」。
医師は諦めたが、経営という観点からも人の役に立つ仕事ができると思ったから。「そもそも経営にも興味があった」と話している。

卒業後、もう一度医学の道を志すが。

「大学に入って、やっぱりスポーツをしたくなって、それではじめたのがアメフトです。もっともサークルで練習は週2回。大会では、いつも最下位か、最下位の一つうえが定位置でした。それでも、いい経験ができたと思います。アルバイトもできたし、フィールドを思い切り駆けることもできましたから」。
ポジションはランニングバック。
ところで、臼井氏は「料理に天賦の才がある」と姉にほめられていたらしい。「う〜ん、なんでしょうね。もちろん、飲食の道に進むとは思っていませんでしたが、小学校の頃からTVの料理番組をみて、なんとなく。もっとも、つくっていたのはチャーハンとかですね。大盛りの/笑」。
だから、母が入院した時も困らなかったそう。料理は姉ではなく、臼井氏の担当だったようだ。
大学を卒業すれば、ふつう就職ということになる。しかし、臼井氏は時間を巻きもどそうとする。
「やっぱり、医学というのが頭のすみっこにあって。それで、臨床検査技師になるために3年制の医学関係の専門学校へ進みました」。再度、一念発起。ただ、思いはそう長くつづかなかった。「周りの生徒とは年齢も違うわけで馴染めなかったというのが正直な気持ちですね。3ヵ月で退学してしまいました」。
医学部をあきらめ、龍谷大学に進むとき、友人から「すぐにあきらめるんだ」と言われた。その言葉も、どこかわからないが心のすみにずっとひっかかっていた。だから、改めて医学の道に進みはじめたが、再度、挫折。「ひきこもりになってしまった」と笑う。

飲食へ。

家に居座りつづけること数ヵ月。「だんだんお金もなくなるわけで。そうですね。そのおかげで、次の道に進めました」。お金のために「なか卯」」でアルバイトを始めたのは、この時。年齢は23歳。「このなか卯で、飲食の仕事を始めてから、いままで一筋といえば一筋。一時、生命保険会社でも1年半勤務しているんですが」。
アルバイトで入社し、半年後には、正社員となり店長に昇進する。「学歴も何も関係がない」という一言に惹かれたそうだ。どこかに学歴のコンプレックスがあったのだろうか。龍谷大学卒といえば、悪くはないのだが。医学部をめざしていた本人には肯定できる学歴ではなかったのかもしれない。もっとも、仕事を始めてから、臼井氏に対する評価は極めてたかかった。実家を後にし、主に名古屋で勤務している。
「なか卯にいたのは、5年くらいですね。辞めた理由は、自分を曲げられなかったからです」。「なか卯」を退職し、いったん生命保険会社で勤務をスタート。1年半後、今度は、飲食事業の経営支援サービスなどを行う会社に転職した。社名は、リンク・ワン。臼井氏によれば、業績はすでに下降線をたどっていたらしい。それでも社員数200名。経営する飲食店も少なくなかった。
もともと経営学にも興味があった臼井氏である。「飲食」と「経営」と言う言葉が、文字通り「リンク」するはずだった。しかし、当時、東証マザーズに上場していた会社は、民事再生の道をたどる。
「いま、私どもが行っているスープカレーや海鮮居酒屋といったブランドも、リンク・ワンから譲り受けたもの。親会社は、コンピュータのメーカーでもある株式会社マウスコンピューターを擁する株式会社MCJ。国産で、高性能なコンピュータということで、ご存じの方も多いのではないでしょうか。とにかく、その株式会社MCJが受け皿になってくれたんです。私も、その時に、転籍します」。
カレー食堂「心」、大阪鶴橋お好み焼き「わっはっはっ風月」、地魚屋台「浜ちゃん」。この3つが現在の主力業態である。

社長、就任。

「私が社長に就任したのは、昨年です。それまでは親会社の方が社長を務めていましたので、まさか私が、というのが正直な思いです」。
社長の座は、居心地がいいばかりではなさそうだ。親会社の意向も無視できない。ただ、社長といってもフリーハンドというのは、そうそうない。上場すればしたで、株主を無視することができないし、そもそもアクセルとブレーキを1人で自在に使いわけるのは至難の業でもある。
「そういう意味では、いまの状態は私にとってプラスかもしれません。ある一定の範囲のなかで、何ができるかを考えられるわけですから、勉強にもなります」。
業績は、悪くない。なかでも海鮮居酒屋である<地魚屋台「浜ちゃん」>は絶好調。連日、満席らしい。メディアを用いずとも、口コミで広がっているそうだ。スープカレーの<カレー食堂「心」>、お好み焼きの<わっはっはっ風月>は、リンク・ワンの時と比較すれば、店舗数は減った。ただ、臼井氏がひきついだ3店舗とその後に出店したヨドバシAkiba店はとりわけ好調。
「私も、現場に立つことが少なくないですね。リンク・ワンの時代から長く営業をつづけていますので、いずれのお店も、地元で愛されています。そこがうちのつよみだと思っています」。
こうなれば気になるのが今後だが、そこには親会社の意向もはたらく。臼井氏の思いだけで、突っ走ることはできない。
「M&Aなどにも興味はありますが、今は、値段も結構するでしょ。無理することはないと思っています。代わりに今は、組織力強化の時だと考えスタッフの育成や、ホームページの作成などに注力しています。いずれいいお話をいただいた時に、すぐさま反応できる体制を整えておきたいんです」。
正解だろう。今、焦ることはない。焦れば、高値をつかむことになりかねないからだ。だから、臼井氏の方針は間違っていない。ただ、問題は、「では、いつ打って出るか」である。
すでに入れ始めた事業のギアを、一段階上げる日が楽しみだ。
ところで、臼井氏は今も、昔を振り返ることがあるのだろうか。人の役に立つために志した医学の道。道は違えども今、飲食という事業を通し、臼井氏は間違いなく人の役に立っている。
臼井氏の下に集う社員や、店を訪れるお客様の笑顔がそれを証明している。

思い出のアルバム
 

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