株式会社デイジイ 代表取締役 倉田博和氏 | |
生年月日 | 1962年9月17日 |
プロフィール | 「日本菓子専門学校」卒。京都の名店「ローヌ」で修業したのちに、実家が経営する「デイジイ朝日堂」に就職。30歳で、社長になる。有能な経営者である一方、日本を代表するパン職人の一人。国際的なコンクールでの受賞歴も多い。 |
主な業態 | 「デイジイ」 |
企業HP | http://www.daisy1962.co.jp/ |
「親父やお袋が、うちの職人さんたちに手を焼いているのを観ていたから」。
パン職人を志す。その始まりは、小さな頃にあった。倉田氏のご両親は、倉田氏が生まれた1962年にデイジイ朝日堂(現川口店)を創業されている。
「登校する前によく手伝いをしていた。パンは焼けないから、苺を洗ったり卵の殻をむいたり。あぁ、小学校の頃からだよ」。
同い年の、店といっしょに育っていく倉田氏。店も同様に少しずつ売り上げを伸ばしていく。
「サンドウィッチがいちばんだったかな。親父もお袋もパン職人じゃないから、そのぶんアイデアを凝らして、カツサンドを作ったり、焼きそばサンドにしてみたり。いわゆる惣菜パン。アレは、よく売れたんじゃないかな」。
実は、倉田氏の母方は、親族のだいたいがパン屋で、ベーカリーショップの一族なのだそう。「自分が半年くらい経営の勉強に行った船橋の叔父さんのところもその一つ」。もちろん、川口市には、デイジイ朝日堂だけである。
中学になってバレー部に入った。生活指導員でもある、国語の教師に勧められたからである。「今じゃ、できないけど、当時は殴るのも許容範囲で、いちばん自分が教育されたかな(笑)」。
倉田氏はエースアタッカー。「わりと強い学校で、北区ではいちばん。都大会にはいつもでていたし、一つ下は、全国大会にもでている」。
この教師の影響で、本を読むようになったそう。もっとも勉強はあまりしない。
「この頃もそうだよな。職人さんが休むと自分が仕事しないといけないから、いつも予定が立たないし、嫌な思いもした。だけど、うちの親父は人の悪口はぜんぜん言わない人だからね。でも、自分からみていると、結局技術があることは大事だと痛感した。だって、うちの親父は職人じゃないから、その分苦労を知ってる」。
小学校の頃に思っていた漠然とした思いが、「言葉」となってかたちを現す。キーワードは「職人」の二文字だった。だから、「いつか職人にならなくっちゃ」という思いがあったのも事実である。
「高校にはもちろん進学したよ。高校でも生徒会長にもなったりした。でも、もう部活はしていなくって。だから、まぁ、いろんなことができるわけで、あることがきっかけで無期停学になっちゃうんだ」。
1週間に1度、校長室に登校して、珈琲を淹れて、校長先生といっしょにお菓子食べて話をする。
「ちょっとしたケンカだったんだ。自分は首謀者でもなんでもないのに、いつの間にか首謀者に祭り上げられてしまっていたんだよね。で、その責任を取らされたってこと。でもまったくの無実。それが真相なんだけど。当時はもうどちらでもいいかなって」。
「それに、停学のおかげでいいこともあった。自分の人生のターニングポイント」。
倉田氏、実はこの停学の期間を利用し、西ヨーロッパに渡っている。
「ま、いろんな理由があるけど、とにかく行ってみたいなと思って。1週間に1度、校長先生とお菓子食べるのが、仕事みたいなもんだから、暇だった」。ヨーロッパは、イタリア、スペイン、フランス、デンマーク、イギリスを転々とする。
「飛行機の中で、知り合った人が向こうで『画廊』やっている人でね。当時のローマ法王とも話ができるってすごい人だったんだよな。その人にいろんな店に連れてってもらった。チーズ、パスタ、もう、『ほっぺが落ちる』じゃなく、『度肝を抜かれる』くらい旨かった。まさに衝撃だった」。
スペインでも、フランスでもおなじような、衝撃を受ける。「まだ、イタリアンも、フレンチも、今ほど日本に定着してない時代だからな。でもまぁ、そういう時代に言葉も知らないのに、よく行ったもんだ。ま、お金が潤沢にあるわけじゃないから、いつも、どの国に行っても、スーパーに行ってパンを買って、公園でブランコ乗って食べていた」。そんな時は、決まって空を見上げて、中島みゆきを歌った。「あれが、いうなら自分が海外に行く、始まりだった気がする。だから、自分にとってあの1ヵ月は、人生のターニングポイントなんだ」。
高校を卒業すると、倉田氏は迷うことなく、「日本菓子専門学校」に進む。
「当時は、出席日数もギリギリで、担任泣かせの生徒だったと思うよ。なにしろ担任本人がそう言っているから、間違いないだろ」。
当時の担任の先生は、今校長となり、出席日数ギリギリだった倉田氏は、縁あって、今や同校の講師を務めている。
「ともかく、学校に行くまでいろんな誘惑があるんだよな、これが。ま、いい生徒じゃなかったのは、たしかだよな(笑)」。
「それからどうしたって? 2年制だったから、2年間、その学校に通って。反省もするんだよな。それで、ともだちがいない関西に行けば、自分もちゃんとするだろうって。そう思って、1人、関西に行って、もう、職人になるって決めていたから、いろんなパンやケーキを食べ歩いて。それでいちばん旨かった、京都山科にある『ローヌ』ってお店でお世話になるんです。計5年ですね」。
「今じゃうちもそうなんだけど、スタッフにドイツ人やスイス人もいたりしてさ。国際色も豊かなんだよね。ま、それだけ店主がすごい人だった。あの5年も、自分にとっては貴重な日々。そりゃ、感謝している」。
5年の修業を経て職人となった倉田氏が、両親が経営する「デイジイ朝日堂」の軒先に立ったのは、25歳の時である。
今では人がいて会社が成り立っていることを痛感しているが、当時は結局自分の未熟さのせいで辞めていった職人さんも結構いた。
自分の目から見たら、周りの人たちのやっている仕事がぬるく思えた。たぶんかなり尖がっていたから・・・。
倉田氏が25歳ということは、「デイジイ朝日堂」もおなじだけの年齢だ。時は昭和63年。バブル経済真っ只中でもあった。
「とにかく、改革もいろいろやって、翌年の昭和63年、自分が26歳の時に2号店を西川口に出店した」。42坪。1号店の倍くらいのスペースがある。もっとも、坪単価450万円。出店コストは3億2000万円。
「でも、バブルの時代だからね。26歳の若造にも、銀行はポンとそんな大金を貸してくれた。まさか、貸してくれるなんて思ってもなかったんだけど。でも、そのおかげで、自分は人生で初めてってくらい凹むんだな」。
返済は、月々300万円。若い経営者の精神をむしばんでいくには、十分すぎるくらいの金額である。「日商30万円と想定していたんだけども、オープンニングの時以外は、10万円くらいしかあがらない。『どうしうよ』『どうしたらいい』って」。
邪で、浅ましい心で、仕事に向き合った。「いつもなら、お出ししないような、少しかたちの悪いパンや、うまく焼けなかったパンも、味は一緒だからわからないだろって出すようになった。お客さんのほうを向かないといけないのに、あの頃は銀行ばかり観ていた。お客さんは、素人ではない、買うプロだ。すぐに見破られちゃったよ。」。
倉田氏は、すっかり憔悴する。陰気なショップに客は来ない。まさに、悪循環だった。
今思えば、その時の苦労が、パン職人「倉田 博和」のもう一つの原点かもしれない。「お客さんの方を向いていない、ってことに改めて気づいて、思い出したんだよ、なんで自分はパン職人になろうと思ったか」。
「たしかに、親父をみていて、『経営者って言ったって職人の腕がないと苦労する』。そう思ったから。それも事実。でも、実は、フランスでフランスパンを初めて食べた時に、オレ自身がびっくりするくらい感動して。この感動を伝えたいと思って、パン職人を目指したんだ」。
「その時の志を思い出した」と倉田氏はいう。
1度なくした信用を取り戻すには、3倍の努力がいる。努力せずに済むならそれがいい。ただ、その時、倉田氏に、それ以外の選択肢はなかった。
「すべての本質をその時に知った気がする」と倉田氏はつぶやく。
その後、倉田氏は、日本でも初となる郊外型のベーカリーショップをオープンする。また、国内のコンクールに参加。やがて国際的なコンクールでも、数多くの賞を受賞する。パン職人、倉田の名は、広く知れ渡り、現在、倉田氏は、日本はもちろん国外でも広く活動している。
「中国、韓国、台湾、タイ、オーストラリアなどに日本のパン作りを広めてきたという自負はある」。
倉田氏は、パンを教えるために、インドネシアまで出かけている。半年以上、海外で暮らした年もあったそう。それができたのも、倉田イムズを受け継いだ職人たちが、いるからだろう。
「卒業生も含めて、みんながんばってくれています。ドイツ人や、フランス人、向こうからもうちの店に勉強に来るから、国際色も豊かですね。でも、今はまだいいんだけど、これからはいろんなことを試さないといけない時代になってくるんじゃないかな。『人材』という意味でもそうでしょ」。
「いま一つやろうとしているのは、セントラルキッチンでもある「ラボ」。そこに最新設備を導入して。2017年11月に完成するんだけど、人間の手ではできない、またやらなくていいような作業を機械化しようと思っているんです。かなり大きな金額がかかるから、本気ですよ」。
職人不足、人手不足、時代は、そういう流れである。時流には逆らわないが、ポリシーは貫く、それが倉田氏の経営哲学でもある。
「いまどき、長時間仕事しろなんて言えないでしょ。自分はそういうときもあった。でもね、1日10時間くらいじゃ、ほんとうの職人なんて育たないんですよ。だから、いまからも旨いパンをつくろうと思えば、機械化が避けて通れない。オレはそう思っている」。
今年二月、再開発されたJR八重洲北口改札内に、デイジイ東京グランスタ店をオープンした。新たな「デイジイ」のストーリーがここから始まるかもしれない。
ともかく「守りながら攻めていく」と倉田氏はいう。「ラボ」も攻めていくための手段の一つだろう。
ちなみに、店名の「デイジイ」とは「ひな菊」。花言葉には「無邪気」、「美人」、「純潔」、「明朗」などがあるが、「「踏まれても負けない強い花」という意味もあるそうだ。
失敗してもくじけずに自分で納得のいくパンを作り続けるという思いが、この社名に託されている。父親から、譲り受けた大事な思いでもある。
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