株式会社鷹丸 代表取締役 相原正孝氏 | |
生年月日 | 1972年1月25日 |
プロフィール | 兵庫県尼崎市生まれ。役者をめざし、上京。ジャパンアクションクラブでの役者業を経て、23歳の時に水産会社に入社。魚の目利きを覚え、独立。日本初の魚コンシェルジュとして、大手スーパーでの鮮魚卸売業からスタート。2018年現在、仲卸事業、飲食店事業、スーパー事業を展開。新たに第1次産業から第6次産業までを一貫して行う事業にも取り組んでいる。また、2013年にはTakamaru fish center inc.USAを創立するなど、世界も視野に活動。築地市場の買参権を所有している。 |
主な業態 | 「タカマル鮮魚店」 |
企業HP | http://www.takamaru-inc.com/ |
馬から落ちた。いい具合に落ちないと怪我をする。「あれって、前に落ちちゃうとだめなんです。だって、馬にふまれて、ボロボロになっちゃうから」。
今回ご登場いただいた相原氏が、まだ20歳前後の時の話である。兵庫県の尼崎から上京した相原氏は、ジャパンアクションクラブのオーディションに一発合格。もっぱら時代劇に出演し、切られ役や落馬役を演じていた。
「千葉真一さんにも何度か会いましたよ。なけなしで上京しましたが、採用いただいたおかげで生活には困りませんでした。給料は月8万円でしたが、寮も飯もありましたからね。もっとも貰ったのは、ちょい役ばかり。だから、給料はぜんぜん上がらない。実は、オレが23歳のときに、同じジャパンアクションクラブにいた今の奥さんと知り合って、彼女はTVにも出ていたりしてたんですが、『オレがいいって』いってくれて。それで、2人して辞めたんです。月8万じゃ、まともな生活ができませんから。それからいっしょに住んで、籍も入れて。オレのほうは水産会社に転職して。2人の生活が始まるんです」。
相原氏は、むろん、奥様に生い立ちからの話をされている。
「うちの奥さんは、とにかく強運で、TVに出てもすぐにいい役をもらうような子で。そんな強運の彼女が、オレの話を聞いて『わかった。私の運をぜんぶあなたにあげるから』って、いってくれたんです。そうだね。運かどうかはわからないですが、彼女と出会ってからオレの人生は確かにかわりました。くすぶってばかりの目の前が急に開けたような」。
そんな大事な奥さんが仕事ばかりに熱中する相原氏に愛想をつかして、出て行ってしまった時には、さすがに相原氏も途方に暮れるしかなかった。
「そう、あの時は、オレもヤバイな、と思って。彼女の故郷の北海道に行ったりして。ええ、もちろん、彼女は子どもといっしょに無事、帰ってきてくれたんですが、代わりに1週間くらい、その時、世話になっていた水産会社の仕事をさぼったから、クビになっちゃっいました。いや、正確にいえば、オレが『辞めてやる』っていったんだった/笑」。
相原氏が生まれたのは、1972年1月25日。複雑な家庭環境だったそう。それでも、父親が経営する会社が傾くまでは仲のいい家族だったという。「うちの親父はとにかく酒飲みで。酒飲んで仕事をするような人で、オレもさんざん殴られて育った。それでも、小学校3年までは飯も食べることができたし、幸せでした。でも、それからは借金取りが来たりして」。
正義感が強かったのだろう。小学3年生の相原氏は、木刀を持って借金取りたちに立ち向かったそうだ。「親父が逃げて、おふくろがオレたちを育ててくれました。でも、いつだったかな、オレが14歳の時に、おふくろが問題を起こして姿を消すんです。最後にオレたちにつくってくれたのは、白ごはんとにぼしを醤油で炒めただけのおかず」。
当時、相原氏は14歳。年の離れた弟は施設に引き取られたが、相原氏は頑なに拒み、住み込みで仕事ができる居酒屋を転々として暮らしたそうだ。どうやってだか思い出せないが、中学校にも何度か行ったことがある。
「あの頃は、暴走族で。あかんこといっぱいしていましたね。でも、ふつうだったら、中卒で終わりなんでしょうけど、オレは、友だちが通っている塾に潜り込んで、3ヵ月くらいやったかな。ただで勉強させてもらって、尼崎産業高校って高校に進学します。授業料とかは、奨学金かなんかで、なんとかなったんやったと思いますが、制服を買うことができなかったから、そやね、1ヵ月くらいで卒業してしまいました/笑」。
高校を退学したあとも、就職もせず、その日暮らしのような日々だった。独りになってから4年。18歳の時。「友だちに伊藤って奴がいて、そいつがダンサーになるために上京するいうんですね。で、『じゃぁ、オレは役者になるわ』いうて、土方をして1万円もらって、それを財布に仕舞って新幹線に飛び乗ったんです」。
行いはけっしてほめられたものではなかった。しかし、奥様には「運」がないように映ったのだろう。だから「運をあげる」といった。
東京で、役者の道が開きかけた相原氏だったが、前述通り、退職し、水産会社に勤務。ただ、こちらもすでに書いた通り、退職する。当時の勤務時間を聞いて、びっくりした。朝3時河岸に入り、夜12時に帰宅する。「天職だった」という通り、おもしろくてしかたなかったそうだ。
その会社では6年勤め、重要な役職にも就いていたが「こっちから、辞めてやる」の一言で、ふたたび、ふりだしに戻る。しかし、もう裸一貫ではなかった。奥様に、お子様、それと、犬2匹。そのうえ家のローンとアメ車のローンが残っていた。
「辞めてからは、新聞配達でしょ。居酒屋の仕事でしょ。休みの日は引っ越しの仕事をして、なんとか食いつないでいたんです。でも、ね。食費にもそんなにお金を回せなくなっていたもんだから、買い出しは1ヵ月に1回。アメ車はすぐに軽に乗り換えたから、軽で月1回、買い出しに行く。それも、激安のお店です。安いのはいいんですが、びっくりするくらい不味いことに気づいちゃって。それで、『こんなんじゃあかん』と真剣にそう思って。そう、そう思って、奥さんの財布にあった1万円を『オレにくれ』って言って。それを元手に会社をつくったんです」。
なんとも、大胆な話だ。乱暴な話でもある。しかし、そのスピーディで思い切りのいい行動力が、相原氏の真骨頂。
最初の仕事は、新宿住友ビルの50階にあった飲食店の立て直し。ミッションは、200万円の赤字を垂れ流していた飲食店をすぐに黒字に転換すること。
「簡単な案件でした。伝票みたら、赤字の理由がすぐにわかりました。仕入れが、高すぎたんです。魚の値段はいやっていうほど知っていましたから」。およそ4ヵ月ぶりに河岸に行った。河岸は、相原氏のフィールド。仕事は辞めたが、河岸の空気は何より好きだった。エネルギーが充満する。「よし、一丁やってやるか」。
「仕入れをオレ流にするだけで、黒字になるのはわかっていました。一方、それからの食材はオレが目利きした鮮度のいいものばかりだから、当然、売上もアップ。すぐに200万円の利益がでるようになったんです。それでね。ちょっとオレのわがままを、聞いてもらったんです」。
「その店の社長と交渉して、仕入部っていうのを設けて、オレがつくった会社から魚を仕入れたんです。もちろん了解をいただいて始めました。その一方で、さっきの奥さんの財布にあった1万円で、コンビニに行って、いちばん上等な封筒と便箋を買って、勝負に出たんです」。
やるからには、しょぼいのはいやだった。だから、ありったけの自慢話を綴った手紙を、当時あった大手5社の流通会社の社長さん宛に送った。その一通が、ある会長の心までとどいた。その相手は、なんと当時ダイエーの社長、林文子氏(2018年現在、横浜市市長)だった。
「引っ越しの仕事に行こうと歯磨きしていたら、奥さんが『パパ、パパ、電話』って。当時、けっこう嫌われていたから、オレに電話してくる奴なんていない。誰だ? って思って、電話を取ったら『ダイエーの林です』って」。
話はトントン拍子に進み、数日後には、役員を含めた50人の前で汗をたらたら流しながら、プレゼンテーションをしていた。都合、2時間強。
「オレのプレゼンが終わったあと、ある役員が何か質問ありますか?ってみんなに聞いたんですね。そしたら、いちばん真剣に聞いてくれていた人が手を挙げて、『ずいぶん長いプレゼンだったんですが、ぜんぜんわかりませんでした』って/笑。そりゃそうだよね。プレゼンの方法なんて知らないし、ただただ真剣に、オレ流にやっちゃったわけで。でもね。熱意だけは伝わったみたいで、『じゃぁ、ウソかマコトか1回やらせてみよう』ってことになり、ある店の朝市を任せてもらったんです。そしたらね。いままで20万円だった売上が、2倍の40万円になった。マグロの解体ショーが、受けたんです。ちがう店では、生筋子を2トン売り、ある店でも売上を2倍にした。これは、ほんもんだと思ってくれたんでしょうね。だって、年末、ある店で昨年対比2000%って記録までだしちゃったわけだから。そうやって、オレは日本で初の魚コンシェルジュって肩書きを持ったわけです」。
ネット販売もスタートし、順風満帆。社員も、入社する。出資金1万円の会社が、何十倍、何百倍の利益をたたき出す。相原氏の収入も1000万円を超える。しかし、それさえ、相原氏にとっては、「しょぼい額」だった。
「それで、オレたちのやり方で、売上をあげることができたんだから、今度は、オレたちだけでやろうじゃないか、って話になって。あるガレージを借りて、1号店を出店。最初は客がつかなかったけど、1ヵ月もすれば、もう立派な繁盛店です」。
武器は、仕入れ。仕入れありきが、相原流の経営スタイル。だから、その日、どんなメニューで勝負するかは、午前2時、相原氏が河岸に立ってはじめて決まる。
ふつう、マグロは日に1〜2本売れればいいそうだ。しかし、ある店で、相原氏は、なんと24本のマグロを売り尽くした。「役者をやっていたでしょ。その経験をオレなりにアレンジして、セールストークを工夫する。そういう独自の方法もあったから、それを飲食店でも展開しました。それも功を奏したと思うんです」。
実はいま相原氏は、超多忙である。店舗は5店舗。アメリカにも出店。魚のコンシェルジュとして、ナショナルチェーンの水産物売り場をコンサルタントする。そのうえ、やりたいことがまだ山ほどある。
「ショッピングモール内のフードコート。今やろうとしているのは、水槽のあるお店です。食べることも、買うこともできる、イートインコーナーのある魚屋。関東煮(おでん)と豚足のお店。豚足はオレの大好物。関東煮の食材はもちろん大根とかもあるんですが、今考えているのは、イセエビのしっぽのところとかね。オレが得意な水産物で勝負します。いいでしょ。神奈川県から、鶏の話もいただいていて。それもやりたい。いちげんさんお断りの大衆居酒屋っていうのも、出店していきますよ。それでね。シングルマザーの人たちのはたらき口をつくりたいんだ」。
最後の一言は、まるで自身の母親に向かっていっているようだ。
「いつの間にかやりたいのは、金儲けじゃなくなった。今いちばんやりたいのは、魚屋っていう日本の昔からあった文化を残していくことです。スーパーや、百貨店に入っている魚屋だって、今は苦しい。若い人が目を向けなくなったから。それとも魚を食べる文化がなくなってきたから。理由はいっぱいあると思うんだけど、新鮮な魚の味を知らないことが問題だと思うんです。流通が発達して、鮮度は保てるようになったけど、そもそも旨い魚を食べたことがないとね」。
たしかにそうだ。魚を料理するのは、案外、面倒。代表とはいわないが、魚の煮付けは、いつの間にか日本の食卓から姿を消そうとしているような気がする。島国の特権をなくしてしまいそうで、これはたしかにもったいない話である。だから、相原氏に期待があつまる。相原氏の口上に乗って、魚のコンシェルジュの相原氏が目利きした旨い魚を食べる。そんな人が1人でも多くなれば、魚屋文化は、きっと後世に残るはずである。
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