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第639回 株式会社GRAST 代表取締役 和田賢次氏
update 18/05/15
株式会社GRAST
和田賢次氏
株式会社GRAST 代表取締役 和田賢次氏
生年月日 1975年8月25日
プロフィール 東京都練馬区出身。帝京高校野球部。エースで、四番。2年時には甲子園も2度出場。大学には進学せず、26歳までフリーター生活を満喫。26歳で「株式会社ムジャキフーズ」に就職し、8年、飲食店経営のノウハウを学び、独立支援制度で、独立。1年と少しで、直営店を開業。2018年現在、直営店10店舗経営。
主な業態 「てつまる」「しお丸」「味噌樽」他
企業HP http://www.grast2009.co.jp/

やんちゃな力持ち。

むかつくと、スグに手が出た。小学生の頃の話である。担任からは「あなたはもう大人のちからなんだから、加減しなさい」と注意されたそう。いま身長は180センチだが、当時から背が高く、ちからが人一倍、強かった。そのうえ、とにかく喧嘩ぱやい。
「小学3年で埼玉に引っ越すんですが、転校初日から、むかつく奴がいたんで殴っちゃいます。そういうこともあって、一時期、仲間外れにされてしまうんです。あの時は、さすがに参りました。誰もいないって、こういうことなんだって。それで反省して、だんだん大人しくなっていったような(笑)」。
喧嘩では大人しくなったが、3年生からはじめた野球では、試合の度に大暴れした。「小学校の時は、それなりに評価されていたと思います。もちろん、小さなエリアで評価されていただけですが」。

大逆転劇。

「そう、小学校では、少しばかり評価はされていたんですが、中学になるとぜんぜんです。ピッチャーで、四番。あ、一時期、センターも守っていましたが、だいたいピッチャーです。もっともノーコンなんですが」。
野球が人より巧いかどうかでいえば、少し、巧かった。ただ、少しのレベル。にもかかわらず、突然、「甲子園へ行こう」と思う。
「私の2つ上に近鉄に行かれた吉岡さんがいらっしゃるんです。甲子園に出場した帝京の試合で吉岡さんを観て、『これだ』って思うんですね。だから、めざすは甲子園。進むのは、帝京です」。
その話を聞いて耳を疑った。帝京高校といえば、スーパースターばかりのはずである。目立たない、野球少年が入れるはずがない。「そうなんです。セレクションではもちろん落ちます。セレクションを『落ちる』というのは、入学も『あきらめろ』ってことなんです。だって、一般入学となると偏差値60です。とんでもないカベです」。とんでもないのは、野球のレベルで言ってもおなじではないのだろうか。だが、和田氏はそうは思わない。
「それで、生まれてはじめて猛勉強です。私にとって偏差値60なんて、ぜんぜん手が届かない。それでも、あきらめなかった。結果、一般で合格して、野球部に。そしたら、私を落とした監督が目を剥いて、『なんで、お前がいるんだ』みたいなね。ええ、大逆転勝利です」。
たしかに、大逆転である。しかし、まだ帝京に進んだだけ。いまからが本番だ。甲子園。セレクションにも落ちた選手になにができるんだろうか。

エースで、四番。帝京高校の伝統をつぐ。

「中学時代にもおなじチームに私より、巧い奴はたくさんいました。でも、あいつらは有名な高校に進まなかった。もちろん、私なんて、声がかかるような選手じゃない。高校に入れば、さらに巧い奴ばかりです。でも、なんでしょう。動揺もしなかった。相手が巧いかどうかっていうのも、ピンとこなかったんでしょうね」。
「そりゃ、練習はしました。練習は8時くらいに終わって、そこから筋トレです。通学は1時間少し。授業中が、睡眠時間です」。
名もない選手が、実は、2年から控え投手となって春・夏の甲子園でベンチに入り、3年の秋大会ではエースで四番となった。「私らの代がいちばん、あかんかったんです。エースで四番っていうのは、帝京の伝統なんですが、そのエースで四番の私がだめなんですから」。
秋大会では国士館に、13対6という大差で負ける。和田氏の世代は、これで、終焉である。「スピードは、140キロは出てなかったですね。コントロールもよくなかった。打つのはいい。たしかに打ったらとぶ。それでも、ホームランは20本くらいです」。充分である。しかし、和田氏の高校野球は、幕を閉じる。ただ、それでも、ふつう考えれば凄いの一言である。名もなきところから、トップまで登り詰めたのだから。結果だけではない。何より凄いのは、心を折らなかったことだ。
「あの時くらい、しんどく、辛かったことはないですね。練習だって、そうです。あれ以上、辛いと思ったことは、まだないです。もちろん、国士館に負けた時もそうですね。べつに不調じゃなかった。好調なのに、どこに投げていいかわからなくなってしまった。そんな経験もはじめてでした。辛い経験です。でも、そのおかげで、何があっても、もう心は折れない」。
大会で負けたその日、ベランダで、1本の「たばこ」を吸った。はじめて吸った「たばこ」は、どんな味がしたのだろう?

甲子園の次は、ラーメン店で起業する。

中学時代、本人以外、まさか、あの帝京高校で、エースで四番になるとは思っていなかったはずである。しかし、和田氏はその結果を残した。目標だった甲子園にも控え投手だったが、2年時に行っている。有言実行。しかし、ベランダで夕日を観ながら、たばこをふかした日に、目標も煙のようになくなった。
「それからは、バイトですね。大学なんて、行くつもりもなかったし、監督がOKださなかったから、推薦もだめでしたし。とにかく、学校が終わって4時から9時までガソリンスタンドでバイト。9時から翌3時までラーメン店でバイトです」。
月収は30万円にもなったそうだ。睡眠はもちろん授業中。「高校を卒業して、26歳くらいまで、だいたいこんな感じです」。
「当時から月100万円はいきたいなと思っていました。今でも交流のある、ラーメン店の親父さんの影響ですね。男は、30歳まで決めろ、って言われたことも、私の人生の道しるべです」。
当然、ラーメン店で起業というのも、この時の店主の影響である。

ムジャキフーズに育てられた。感謝。そして、ムジャキフーズの育成力を証明する。

「ラーメン店で起業すると思っていても、いまだフリーター生活です。26歳になって、そろそろヤバイかなって。それで求人広告をみて入社したのが、ムジャキフーズです」。
ムジャキフーズといえば、業務委託による独立支援を行っている会社である。同社では「トラスト契約」というが、画期的なシステムである。「情熱と腕だけで駅前開業ができる」。HPで謳っている通りの独立開業を果たしたチャレンジャーも少なくない。
「こちらで計8年です。最初の4年は、店舗で仕事をして、残りの4年は本部です。そちらで、商品管理やスーパーバイザー的な仕事をしていました。独立は32歳の時です。最初は、ムジャキフーズのシステムで開業します」。
ホームページには次のように書かれている。<2009年3月 ラーメン店の委託業務で2店舗運営する。2009年11月 ラーメン店の委託業務で3店舗目オープン。2010年1月 ラーメン店の委託業務で4店舗目オープン。2010年5月 直営店のノウハウを取得し、足立区竹ノ塚にて直営店1号店をオープンする>。
つまり、1年少しで、直営店をオープン。見事に軌道に乗せる。「失敗というか、ヤバイなって時はもちろんありました。アクセルばかり踏むタイプですから。それで、お金のことは、いまの部長にぜんぶ任せるようにしました。そしたら、ぜんぜん問題ない」。
和田氏と部長の奥村氏は、ムジャキフーズからの同僚でライバル。和田氏が、独立時にライバルの奥村氏を誘った。2人の関係は喧嘩ばかりからスタートし、いまは互いにリスペクトする関係だ。だから、実は、株式会社GRASTには2つのエンジンが備わっていると言える。
ホームページをご覧いただければわかるが、現在、和田氏が経営するのは、直営店10店舗。和田氏は主に出店から現場のオペレーションを担当している。野球でいえば、ピッチャーとキャッチャーという関係なのだろうか。
ともあれ、好調である。部下のなかには、月収100万円を視野に入れている独立組もいるそうだ。ベトナム人、ミャンマー人もいるから国際色も豊かだ。
さて、これから和田氏はどこに進むのだろう。それがどれだけ難しく、困難なことでも、和田氏なら簡単にやってのけてしまいそうな気がする。これも、「帝京魂」なのだろうか。

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