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第641回 ハイライトインターナショナル株式会社 代表取締役 和田高明氏
update 18/05/29
ハイライトインターナショナル株式会社
和田高明氏
ハイライトインターナショナル株式会社 代表取締役 和田高明氏
生年月日 1982年11月8日
プロフィール 東京都東町田市出身 3人兄弟の末っ子。帝京大学卒。大学卒業後、一部上場企業の畜産メーカー「米久株式会社」に入社。1年目から頭角を現し、大幅な利益改善をリードする。在籍期間6年。2011年、米久を退社し、5月に練馬に1号店「AkiTaka」をオープン。2013年1月に法人化し、多店舗展開を開始。同年6月、高円寺に「パテ屋」のオープンを皮切りに、以来年間1店舗ペースで出店。2017年3月には「農園事業」も開始している。
主な業態 「AkiTaka」「ブラチョーラ」「パテ屋」「肉巻屋串衛門」
企業HP http://hi-light-intel.jp/

家族団らん。テレビはNHKと決まっていた。

今回、ご登場いただいた和田氏が生まれたのは1982年。出生地は東村山だが、すぐに町田市に引っ越している。兄弟は男子ばかりの3兄弟。父親はNTTの開発部長を務めた技術者。母は小学校の教師。英才教育と思いきや、案外、自由奔放な家庭だったそう。もっとも、父親の方針でバラエティ番組は禁止。7時からTVのチャンネルはNHKとなり、7時30分からは「クローズアップ現代」が定番だったという。「そういえば、ゲームも買って貰えませんでした。だから、自分で絵を描いて、当時は流行っていた『ストリートファイター』のオリジナル版をつくっていました。サイコロを投げて『1』がでれば『波動拳』みたいな/笑」。
ないものは、つくる。「ない」で終わらない。「そうですね。ゲームを買って貰えなかったおかげで、さみしい思いもしましたが、自分で工夫したり、発想したりすることはできるようになりました。そういう意味では、親父にも感謝です」。
TVは、NHK。ついでにいうと新聞は日経。だから、中学に上がる頃にはBSやPLを読むことができたそう。「だからといって、学校の成績がいいってわけではなかったです。テストはそう悪くなかったのですが、教師からみればやっかいな奴だったので/笑」。
「気に入らない奴は、殴った」と和田氏。高校に進むと、拍車がかかり、3年になって「退学をさせない」と謳う学校だったにもかかわらず、退学寸前まで追いやられた。真面目な父親に対する反抗もあったんでしょうか?と聞いてみた。「どうでしょう。子どもの頃って悪い奴に憧れるじゃないですか。私が16歳の頃は、ヒップホップやレゲエが流行っていたんです。『ボブ・マーリー(ジャマイカのレゲエミュージシャン)』の映像を観て、彼に憧れます。私がちょっと危ない道にそれたのも、そういう憧れの延長だったと思うんですが、たしかに、やりすぎました/笑」。
高校時代、和田氏の餌食になったのは、10人くらいに及んだ。素行と態度をみかねた当時の担任が、3年生の2月になって「大学に進学しろ」と迫った。大学進学か、退学かの二者択一だったかもしれない。
「そうですね。あの、先生の一言がなかったら、ちょっとヤバイ社会の方向に進んでいたかもしれません」。いまでも、その先生には感謝している。

新人が、1割以上の値上げを勝ち取る?

大学を卒業し、和田氏が入社したのは、米久株式会社という静岡県沼津市に本社がある一部上場の畜産メーカー(2016年に伊藤ハムと経営統合し、現在は「伊藤ハム米久ホールディングス」となっている)。むろん、和田氏が入社した頃は、ずいぶん前の話。この「米久」で、和田氏は1年目から頭角を現す。
「ふつう1年間はアシスタント的な仕事で、直接営業はさせてもらえないんですが、アシスタントっていうのが、どうもつまらなかった。だから、支店長にお願いして私だけ2ヵ月目から営業に出してもらいました。ええ、ぜんぜん、だめです。だって専門用語一つ知らないんです。それで、注文されたのと違う商品を納品したりして『ふざけんな、てめぇ』みたいな/笑」。それでもめげない?「そうですね。当時から独立しようと思っていましたから。やるからには、これくらいでめげていちゃだめで、少なくとも、『いちばん』を取るまで辞められないと思っていたんです。でも、なかなか売上数字は上がらないんです。それで」。
子どもの頃から、「ない」ものはつくってきた。「ある」ものは、それをもとに工夫してきた。実は、学生時代も、誉められたものではないが、いままでのしくみをアレンジし、独自のビジネスを行っていたことがある。その発想が、ここでも活きた。
「売上はどうしようもない。でも、利益だったら勝負できるんじゃないかなと。それで、当時、1キロ800円だったウインナーを100円、値上げしてみたんです」。
いきなり1割以上の値上げだ。乱暴すぎなかったのだろうか。「でもね、先輩に『何で800円ですか』って聞いても、みんな、『そういうもんだから』ってしか答えない。基準がないなら言ったもん勝ちかもしれないと、あるお得意さんに『900円になりました』って言ってみたら、『いいよ』って」。
なんのことはない。いままでが安すぎただけだった。何も知らない新人だからの、快挙である。これ以来、ウインナーの値段はキロ900円がスタンダードになる。
利益に目を向けた和田氏の快進撃はつづく。1年目から担当した顧客からの利益を2倍にする。翌年には3倍に。3年目には「大口顧客」を担当させて貰えるようになった。

めざすは、いちばん。

営業を4年やって、本部に2年。営業時代は、当初、目標とした「いちばん」を手放さなかった。「営業だけで1500人くらいいましたから、全指標でっていうのは無理でしたが、とにかく何かで「いちばん」になろうと、がむしゃらに頑張りました」。
米久時代を振り返って、「とっても勉強になった6年間だった」と和田氏はいう。長時間労働を改善する為に入社半年くらいで、当時の支店長を始めとする支店幹部に売上、利益を下げずに改善する提案を行ったそうだ。「本来ならば相手にされない、社会人に成り立てのド新人とも言うべき私の提案にも関わらず、当時の支店長をはじめとする幹部の方々は話を聞いてくださり、採用していただきました。とはいえ、それらは長年続いてきた慣習でしたので、変わるまでは2年かかりましたが/笑。ただ、そういった提案を受けてくださる風土、何より幹部のかたがたにすごく感謝していますし、それらが現在の弊社の風土のひとつでも活かされています」(生産性を高めて、短時間で最大の利益を追求する風土)。
また、仕入れと販路のつくりかた。いうならば「入口と出口の戦略を学んだ」という。
本部に行ってからは鶏肉を担当し、仕入れはもちろん、販売企画なども担当するようになる。「もっとも」と和田氏。「いちばん勉強になったのは、『へこたれない精神』だったかもしれません。何しろ、年末ともなれば激務です。休みも、ちょっとしかない。現在は労務環境が劇的に改善されているので、今じゃ考えられないですけど/笑。でも、私はあのおかげで、仕事の本質まで知った気がしています。だから、感謝です」。
5年目から本部に異動させられたくらいだから、和田氏に対する評価は高かったのだろう。しかし、和田氏は、そもそも会社という枠にはおさまらないタイプ。本人曰くは、「組織に属するのが、苦手なタイプだ」そうだ。

ビジネスの原理原則。

和田氏が1号店をオープンしたのは、2011年の5月。業態は「唐揚げ居酒屋」。「唐揚げ」がブームだったことに加え、米久時代、「唐揚げ」を商品として企画していたことも、「唐揚げ」をメインにした理由。「居酒屋で独立したのは『楽コーポレーション』さんの影響なんです。『汁べゑ』など、展開されているお店に魅了されて、『俺もこういうお店がしたい』と思って、スタートしたんです」。
「商売は、何をするにしても原理原則だ」と、和田氏はいう。これも米久時代に教わったこと。
「当時、キリンとか、三菱商事とか資本がいろいろかわって。その度に社長はかわるんですが、だれも畜産メーカーの仕事なんてしたことがないのに業績を上げる。当時、専務だった人の口癖が、『安く仕入れて、高く売る』だったんです。当然のことですが、実はこれが、『ビジネスの原理原則』なんです。どう安く仕入れて、どう高く売るか。ただし、『高く売る』と言っても、ぼったくりはNGです。どういう価値をつけるか。『楽コーポレーション』のお店には、まさにそんな価値があったんです」。
和田氏は、「ぼくは小心者だ」という。しかし、小心者ではなく、「戦略家」といった印象だ。1号店である「AkiTaka」オープンでは、その戦略家の本領が余すところなく発揮されている。つまり、利益は、あらかじめ保証されたもののようだった。
「そうですね。すぐに利益がでました。飲食店の経営は初めてですが、いいスタートが切れました。もっとも最初は『汁べゑ』さんのような価値あるお店を、と思っていたわけですが、スタートすると日々の業務に追われて、そういう指針をだんだん見失います」。
更に「少し、天狗になっていた」と和田氏は言う。「最初は、5年くらいかけて『AkiTaka』をじっくり育てようと思っていたんですが、ある経営者に刺激されて、『俺だってやってやる』と、出店に舵を切ります。これがいけなかった。1号店が成功したもんだから、正直、天狗にもなってしまっていた。だから、1号店ではちゃんと青写真を描いたのに、2号店は『あぁ、どこでもいいよ』、『業態は焼き鳥がいいな』みたいノリで始めちゃうんですね。はい、それで見事に大ゴケです/笑」。
「初月から100万円くらいの赤字が出だ」そうだ。
「1日の売上を計算して、『ほんとかよ』って。ま、計算するまでもなかったんです。だって5000円しかないんですから」。
「うそだろ」っと思った。「私自身がイライラしていたんでしょうね。スタッフとの間にも溝ができちゃって。そうでです。社員が全員、辞めてしまって、残ったのは、私とアルバイトだけです」。
もう、どうしていいかわからなかった。それはそうだろう。「簡単」と思っていたビジネスが、実は、底なしの沼のようなビジネスであることをはじめて知ったからだ。

失敗を糧に。最高に楽しい世界観をつくりだす。

たまらず、2号店は3ヵ月でクローズする。この判断は、至って正しい。しかし、和田氏は2号店を閉めたその日に、高円寺にある7坪の物件の契約を交わしている。これが、2013年6月にオープンする高円寺の「パテ屋」。
「7坪ということもあって、家賃が9万5000円。これなら利益が出ると踏んで出店します」。「AkiTaka」が順調だからできた芸当だ。アルバイトスタッフが充実していたことも、次の戦いに打って出られた要因である。
しかし、よく決断できたものだ。とても、小心者にできる決断とは思えない。
もちろん、ここで大事なことは、「天狗になっていた」という自覚と反省だろう。失敗したことで、見失っていたビジネスの原理原則にも、改めて考えが及んだ。
「いつの間にかビジネスの原則原則からかけ離れたことをしていたんでしょう。安く仕入れ、付加価値をつけて高く売るはずだったのに。頭を使わず、心もこめず、ただ高いだけのぼったくりで、客がつくわけがありません」。
高円寺に出店した「パテ屋」の1年目の月商は、150万円程度。ただし、家賃が10万円以内なので充分に利益が出た。そこから和田氏は、年1店舗のペースで出店をつづけている。
現在、和田氏は飲食事業だけではなく、食肉卸事業、イベント事業、農園事業を行い、それ以外にも「地域活性化プロジェクト」も行っている。
2018年4月現在、飲食店は7店舗。「年内にあと2店舗、出店したい」とのこと。むろん、価値重視で、安く仕入れ、高く売る。商売の原理原則は外さない。
社員教育にも注力している。これも、反省を生かした例である。失敗を糧に、更なるステップアップを。もちろん、1982年生まれの和田氏にとって、人生のゴールはまだまだ先である。この先にどんな答えを導きだすのか、それが楽しみな経営者の1人である。

思い出のアルバム
 

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