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第645回 有限会社プロスパー 代表取締役 伴 克亘(ばん かつのぶ)氏
update 18/06/26
有限会社プロスパー
伴 克亘(ばん かつのぶ)氏
有限会社プロスパー 代表取締役 伴 克亘(ばん かつのぶ)氏
生年月日 1965年6月16日
プロフィール 大学卒業後、カラオケパブに就職し、ナンバー2まで登り詰めるが、オーナーと意見が食い違い、離職。1年間、カナダに留学。帰国後、起業し、カラオケパブを出店。その後も出店を重ねたが、4店舗目を出店したのちに方向を転換し、京都先斗町に飲食中心の「たまゆら」を出店。現在の基盤を固める。ちなみに、現在、「有限会社プロスパー」のほかに、「株式会社ニューサポート」、「株式会社京都・一乗寺ブリュワリー」などの代表も務めている。
主な業態 「一鱗」「わさび」「くらがりまさ」「豆八」他
企業HP http://www.kyoto-pontocho.jp/

部屋に残された、6本の哺乳瓶。

首から下げた紙のボードには、母の字で行き先が書いてあった。幼稚園から小学校の低学年まで、長期の休みとなれば、初日から親戚宅に行くのがルールのようになっていた。「休みの初日に新幹線に乗せられて、登校日の前日に帰宅。それが定番」と、今回ご登場いただいた有限会社プロスパーの代表取締役 伴 克亘氏。
長期休暇になれば、京都駅のホームで1人、伴少年はボードを下げて新幹線を待っていた。それを「ヘンだ」と思ったことはない。「こどものことですからね。親戚の家に行くのも楽しみだし。なかには『ぼっちゃん1人でどこ行くの?』って言いながら、お菓子とかをくれたりする人もいたし…」。
親戚宅に向かう理由は、ご両親が仕事で忙しかったから。だが伴氏は「貧乏だったからだ」と表現する。「こどもの頃はぜんぜんそんな風には思っていなかったんです。でも、私の姉は、養女にだされていますし、住まいだって6畳一間。トイレ、風呂なし、です」。
伴氏は、生まれた時から「かぎっ子」だったらしい。両親は、6畳一間に伴氏と哺乳瓶6本を残して仕事にでたそうだ。おむつは、朝から母親が帰宅するまで、おなじもの。むずかって泣いても、だれも手を差しのべてはくれない。
「たまたま、哺乳瓶に気づいて飲んでいたんでしょうね。ごっつい生命力ですよね。我ながら/笑」。
むろん、哺乳瓶を一人で抱えて飲んだ記憶はない。しかし、「自立」という意味では、象徴的な話である。
「うちの両親は、親戚がやっている着物の染工場ではたらいていました。小学校の高学年になる頃には、私も手伝っていました。私の仕事は、親戚や工場のスタッフみんなで食べる晩御飯の用意です」。学校が終わると買い物籠を抱えて、商店街に向かう。肉に、魚に、野菜に。つまりは、買い出し部隊。
たいへんですね、というと、「ぜんぜん」と伴氏。馴染みになった肉屋のおばさんが、コロッケをくれたりしたそう。だから、せっせと買い物に向かった。もっとも近所の悪ガキにみつかり、せっかく貰ったコロッケを取り上げられたりもしたそうだが。
ところで、伴氏が購入した食材がテーブルにならぶと、とたんに争奪戦がはじまったそうだ。「はよ食べな、なくなるでしょ。16人くらいおるからね。そら、戦争ですわ」と伴氏は笑いながら、当時を思い起こした。

昭和の真ん中、その時代。

「貧乏だ」と言いながら、中学から私学に通っている。「そうですね。相当、無理したんとちゃいますか? 学校も大阪でしたし、私学に行くために、塾にも行かせてくれはりましたから」。
私学に進学はしたが、お金ができたわけではない。
「学校には食堂ってあるでしょ。うちの学校の食堂の食券は10円の綴りやったんです。で、端数がでるでしょ。それを貰いまくっとったんです。食堂のおばさんには『今日はきれいやなぁ』なんておべんちゃらを言うたりしてね。そういうたら、カレーを多目によそってくれはるんです/笑」。
食事にかかわる話は多い。
「ともだちの家に行くでしょ。そしたら晩御飯とか出してくれはるんです。その晩御飯が、もうぼくにしたら、レストランのディナーなんですよ。で、『むちゃむちゃうまいやんけ!』なんて言うてたら、お母さんが『毎日、食べにおいで』って。そりゃ、ありがたい話です」。
「そうですね。子どもの頃から誰彼なしに、可愛がって貰ったように思います。そういう才能はあったんだろうと思います。こいつちょっとかわいがったろか、みたいなね/笑」。
ともだちの弁当を分けてもらっていたら、翌日から2人分の弁当が用意されていたこともあったそうだ。昭和の真ん中は、そういう時代でもあったのだろう。

お客様は神さんです。

中学では卓球、高校ではアイスホッケー。「アイスホッケーなんて、大阪、ぜんぶ入れても3校しかありません。だから大阪大会では、絶対3位以内に入れるんです。うちは、弱かったから3位ばっかりでしたけど/笑」。伴氏はマネージャーだったらしい。
この頃は、「法律にも関心があった」と伴氏はいう。実際、大学も法学部に進んでいる。「そうなんです。法学部に進むのはええんですが、大学に進学して、初めてぼくは、うちが貧乏やと気づくんです。それで、迷惑はかけられへんから、学費も、生活費も、ぜんぶバイトで捻出し、仕送りまでしていました。だから、学生時代はバイト漬けなんです」。
当時の話を聞くと、バイトというイメージでは収まりきらない仕事ぶりである。「小さい頃から、勝手に料理をしていたんです。お袋が遅いとお腹が減るから。その料理を両親が食べて『旨い』ってホメてくれたこともあって。そういう原体験があったからでしょう。バイトは迷わず、飲食。当時、流行りだした『カラオケパブ』でバイトをはじめます。ぼくは、接客担当なんですが、そうですね、いちばんええ時には、月に40万円くらいもろてました」。
40万円。休みなくはたらいたのだろうと思っていたら、「自由出勤で、その額」という。なんでも、学生にもかかわらず、4店舗のマネージャーを務めていたそうだ。
「ぼく自身が楽しかったんやと思うんですわ。お客様ともいっしょに話もしますから、いろいろ教えてもらえる。啓発本っていう本があるのも初めて知りました。それに、話が盛り上がってきたらビールをぽんと開けて『のみぃや』でしょ。お金払ってもろて、いろいろ教えてもろて。なかには、休みの日に飲みに連れてくりゃはるお客さんもいたはりました。お客さんは、ほんま神さんです」。
「そうそう、思い出した」と言って、次のような話もしてくれた。「あいつにまけたくないとか、思うでしょ。でも、それって、勝ったら終わりやないですか。だから、『そんな仕事の仕方はあかん』って、お客さんに教えてもろたことがあって、ずいぶん長い間、ぼくの信念みたいになっていました」。
「なんのためにするか、ですよね。『お客様のためなら、一生やろ』って。そうですよね。たしかに、一生、終わることがない。貧乏もね。イヤヤ、イヤヤ言うてても、切りがあれへん。頑張って、貧乏やなくなっても、それで終わりでしょ。これ、真理ちゃいますか」。

独立。天才的な経営者、現る。

「目の前の人をどんだけ大切にできるか。その積み重ねちゃいますか」。伴氏は、いままでを振り返り、しみじみと、呟く。いうならば、それが、伴氏の生き様。
「大学を卒業したあとも、カラオケパブで仕事をつづけます。社長とも馬がおうたしね。いつの間にか、ナンバー2みたいになって。でも、ちょっとした意見の食い違いがあって、それで、『1回辞めて、頭冷やしてきます』いうて、カナダに1年間留学するんです」。
留学と言っても、遊び三昧。当時、好きだったダイビングなどをやって、暮らした。「学生時代から貯金もしていて、数百万円あったし、実は1年間、辞めたカラオケパブの社長が、基本給を振り込んでくれはったんです。13万円やったと思います」。
「帰国したのは、お袋の策略です。親父が倒れた言うんですね。ほんで、あわてて帰ったら、親父はぴんぴんしとって、『なんやねん』っていうたら、『あんた長男として、うちの借金どうすんの?』です/笑」。
「そりゃいままで仕送りしてたでしょ。でも、留学してたら、さすがにでけへん。で、お袋がいうのも、もっともやし、どうしよかとカラオケパブの社長のもとに行くんですが、その頃は、あんまりうまくいってなかったんですね。で、『うちに来ても、そんな給料払われへんから独立してやったら、どうやって』。そう、それで1号店を出店するんです。27歳の時です。最初は、同業のカラオケパブ。それしか知りませんからね」。
独立したのは、バブル崩壊1年後だったらしいが、伴氏は、単価をあげて勝負にでる。それが功を奏した。「昔のお客様もきてくれはって、酒屋さんもびっくりするくらい『酒』もでました。儲けたお金で、もう一つパブをだして、3軒目がバー、4件目がバニーガールの店です。どれも、びっくりするくらい流行りました」。
経営するのは、むろん初めてである。しかも、バブル崩壊後である。流星のように現れた経営者をみて、周りの経営者たちはどう思ったのだろうか? 
「当時から、水商売やなく、食べもんやをしたいなと思っていたんです。それができたのが、35歳の時。そう、先斗町にオープンした『たまゆら』が最初。創作料理の店です。これが、バカあたりです。お客さんは、東京からもいらしてくださいました。このつぎにビストロをだし、そのあと、祇園に『わさび』をオープンするんです」。
最初は、「祇園ではだめだ」と反対もされたそう。しかし、「まぁ、みときぃ」とオープンし、オープン当初から、みんなを黙らせた。
「たまゆら」もしのぐ、人気ぶり。「今ももちろんですが、この10年間、暇な日は一度もありません」と伴氏は笑う。その笑顔に、自信以上のなにかを観た気がした。

ビールと、お茶と珈琲と。

1965年生まれだから、2018年現在で伴氏は53歳になる。経営者として、もっとも脂がのっている年代でもあるだろう。「いま、いろんなことをはじめています」と伴氏。
2018年、つまり今年の5月には社員と、社員の家族といっしょに念願の「田植え」をするそうだ。「田植え」が終われば、お楽しみのバーベキュー。秋には収穫できた「米」を参加者にも配るという。むろん、趣味でも、遊びでもない。事業の領域とする予定だ。
こういう話をすると、もううれしくて仕方がないようにみえる。そのうえで、更なるビジョンを語ってくれた。それが<京都の原料を使用したビール(農福連携)【京都・一乗寺ブリュワリー】>と<京都のお茶とコーヒーをコラボしたカフェ【京茶珈琲】>である。
「高木俊介という医師が、精神障がい者の雇用という目標をかがげて醸造所を開業されたんです。醸造所の隣にはレストランもあって。ただ、志は高いものの、ぜんぜん儲からず、損益は真っ赤かやったんです。それで、ある人を介して相談を受けたのがはじまりです」。
「最初は、話を聞いて猛烈に腹が立ちました。だって、そうでしょ。黒字ならいい。でも、真っ赤か。それも5年間です。それで、就業支援って、そんなの詭弁ですよね。ぜんぜん、障がい者のためにならへん。金持ちの道楽やって。腹も立ったので、その先生に会うことにしたんです。すると、びっくりするくらいええ人で/笑」。
「お金に無頓着なだけで、純粋で純朴な人でした」と伴氏は最初に出会った印象を語る。話をして、伴氏も急速に高木医師に惹かれていく。それでも、いやだからこそ、伴氏自身はビジネスと割り切り、利益を上げないといけないと思った。それが、ミッションである。
「だから最初は、健常者だけでと思っていたんですが、やっぱり、そうはいかない。農業と福祉が連携する『農福連携』。それが『京都・一乗寺ブリュワリー』です。高木先生には『4年で利益をだす』と言いました。つまり、3年間は、赤のままです。先生はむろん、『それでいい』と。実は、今年で3年目になるんですが、トントンか、少し利益がでそうです」。
ちなみに、「京都・一乗寺ブリュワリー」には、酵素が恋人という東京農業大学院卒のブリュワーと、関西大学出身で、京北町で15年ビールづくりにかかわってきたというビール職人がいる。伴氏といっしょにビールづくりに参加したこの2人はいきなり結果をだす。世界のビールメーカーが参加するビアカップで、参加初年度に銀賞と銅賞、2年目に金賞を獲得したのだ。
もう一つの「京茶珈琲」も将来性抜群だ。TVでも紹介されているので、ご存知の方も多いだろう。知人と2人で会社を立ち上げ、ニューヨークやパリのコーヒーフェスティバルで旋風を巻き起こした。こちらは、コーヒー職人とお茶の職人が2年間つくり上げた「京茶珈琲」だそうだ。

尽きない話のおわりに。

話は尽きない。「50歳からモトクロスを開始した」というからチャレンジ精神も旺盛だ。まだまだ語り足りないが、尽きない話のおわりに一つ。「経営の天才」のように映る伴氏だが、天才でもなんでもないという話をしておこう。「たまゆら」を始めた頃のことだ。
「そうですね。あの頃は、毎日、京都から南伊勢まで水槽の付いた軽トラで走っていました。いいものを少しでも安く仕入れたいと思ったからです。1年間つづけ、こちらは業者の方にお願いするようになって。そのあとは中央卸売市場に7年間通いつづけました。毎朝5時です」。
今、目の前にあるものと向き合う。ただそれだけ。だが、心を込めた仕事とはこういうことをいうのだろう。そこに、天才という文字は、あてはまらない。

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