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第647回 株式会社誠フードサービス 代表取締役 白根 誠氏
update 18/07/10
株式会社誠フードサービス
白根 誠氏
株式会社誠フードサービス 代表取締役 白根 誠氏
生年月日 1960年3月31日
プロフィール 埼玉県熊谷市出身。1968年にオープンした「中国料理中本」の常連。1998年に閉店したが、中本の味に病みつきだった白根は中本のもとで修業し、2000年に蒙古タンメン中本として店をオープン。店舗数は2018年時点で20店舗を超える。
主な業態 「蒙古タンメン中本」
企業HP http://www.moukotanmen-nakamoto.com/

「中国料理 中本」、閉店は、終わりの始まり。

「中本」のなかでも、「冷し味噌ラーメン」は群を抜いている。極度の辛さのためだろう。メニューには「初めての方はご注意ください」と警告文が添えられている。それだけ辛い。
「オレね、辛党じゃないんだけど、こいつにはハマっちゃった。ヤミツキです。あの頃の、オレの食生活は、『中本』と、それ以外が1対1。つまり、『中本のラーメン』で暮らしているようなもんだった。朝、昼、晩って日もあった」。
今回、ご登場いただいた、「中本」二代目店主、白根氏が「あの頃」というのは、長い期間を指す。「そうだね。20歳から39歳までだから20年くらい」と笑う。それだけ、通いつづけた。
もっとも、最初から2代目に手を上げようと思っていたわけではない。そりゃ、つくるより、たべるほうが楽だ。
「でもね、あれはオレが39歳の1998年だね。『中本』が12月に閉店するっていう噂が流れてさ。『え、どうすんだよ』って。何しろ、オレの半分は『中本のラーメン』でできているようなもんでしょ」。
真相を確かめるため、当時の店主の中本正氏に「おじさん、店、閉めるってほんとですか?」と声をかけた。かけたが、曖昧な返事しか返ってこない。
「立場はちがうけど、20年来の付き合いだ。『そりゃねぇだろう』って思った。中本さんは、店閉めたら、それで済むんだろうけど、オレたちはどうなんだ。結局、噂はほんとうで、1998年の12月に『中国料理 中本』はいったん幕を閉じます。オレたち中本フリークは、もうジプシーになるしかない/笑」。

激辛、激旨ラーメン。最初の印象は、「なんだこれ」。

白根氏は1960年、埼玉の熊谷に生まれている。日本でいちばんの猛暑を記録した町だ。小さい頃から野球が大好きで、長嶋選手に憧れる。いまでも「3」は、白根氏のキーナンバーだ。小・中・高と進み、中学から空手をはじめ、高校ではバイクにハマった。高校を卒業してからは、いろんな仕事に就いた。「中本」に出会ったのは、前述通り、20歳の頃で、最初は友人に連れられてのれんを潜ったそう。
「最初はなんじゃこりゃ、って感じ、旨いなんてぜんぜん思わなかった。でも、それがすべての始まりだから、人生って不思議なもんだ」。
「中国料理 中本」についても少し触れておく。「中国料理 中本」は、1968年9月、板橋区にオープンする。創業者は故中本正氏。オープン当初は、当時、どこにでもある中華料理店だったそう。ところが、中本氏自身が辛いモノが好きで、「辛い」メニューが「中国料理 中本」の代名詞となる。代表作は、一味唐辛子を大量に加えた激辛スープと太い麺のラーメン。白根氏が、好物だった「冷し味噌ラーメン」は、なかでもランキング1位の辛さだった。
「毎日、行列で、中本さんもたいへんだったろうけど、食べるこっちもたいへんだった。おくさんと中本さんだけで運営されていたんだけど、昼の2時でクローズ。でも、行列がつづいているから、最後尾の客がラーメンを食べて店をでるのは4時くらいだったかな。それだけ、長い行列でした」。そうまでして食べたい「ラーメン」。白根氏以外にも大量のファンがいたことがわかる。どれだけ惜しまれて閉店したかも、想像できるというものだ。

「そりゃだめだな」。冷徹な一言。

「で、閉店してしまったわけでしょ。でも、『中本』のラーメンはやっぱり『中本』でしか食べられない。それで3ヵ月くらい経った頃、もうがまんできなくなってさ。電話をかけたんです」。
幸い、電話番号は以前のままだった。
「20年も通いつづけていたでしょ。中本さんも、声でオレってわかったみたい。それで、『少しお話があるんですが』って切り出したわけ。頑固な親父さんなのに、その時は、向こうから出向いてくださいました。そして、うちの近くの喫茶店で再会したんです。目的ですか? 『中本』をオレにやらせて欲しかったんです」。
何と大胆な発想だろう。それまでの白根氏に飲食の経験はない。まして、料理の経験もない。
話は2時間に及んだそうだ。白根氏は「中本」に対する熱い思いを語る。中本氏が「うんうん」「そうだね」と頷くたびにテンションが上がった。「これは、いけるんじゃないかなって。でも、最後の最後に、『そりゃだめだな』って」。
茫然とした。脈があると思いかけていただけに、落胆もした。「だめだな」の一言は、有無を言わさないほど、冷徹な響きを含んでいた。
「あとで聞いた話だけど、当時、オレみたいな奴がたくさんいたそうなんだ。みんなに『ノー』と答えている。たぶん、大手の企業さんからも声がかかったはず。でも、頑固もんだから、お金を積まれても『ノーは、ノーだ』っていったんでしょうね。昔の職人さんだから、大企業だって敵わないわな/笑」。
「それから少したって、今度は無性に『冷し味噌ラーメン』を食べたくなるわけです。このメニューは、春分から秋分までの限定メニューで、ちょうど春分の頃だったから、思い出しちゃったんだろうね。それで、もう一度、電話番号をプッシュしたんです」。
丁寧に、丁寧に、話した。ただ、今度は断られないだろうと思っていた。「だって、1杯、よぶんにつくるだけだから」。
話の流れはこうだ。中本氏も「冷し味噌ラーメン」が好き→今もつくって食べているはず→その時、よぶんに1杯つくってもらって、それをいただけないか→むろん、これならOKがでるだろう→もちろん、お金はいくらでもだす。しかし、返答は「そりゃだめだねぇ」、前回とおなじ結末。
「あの時は、正直カチンときたね。ケチって/笑。でも、あとで聞くと、これもオレみたいな奴がたくさんいたそうで、1人だけ特別扱いはできないってことだったらしい。でも、こっちは、電話を叩き切りたくなるくらい腹が立っている。それでも、あの時は、ぐっと受話器を握りしめて、『おじさん、お酒は好きですか?』って切り出したんだ」。

心の交流。中本氏が動き出し、「蒙古タンメン 中本」がスタート。

「親父さんが好きだというラーメン店にいっしょに行って、いっしょに酒も酌み交わす。そういう仲になって、そうだね。どれくらい経った頃だろう。もう1回、『あの話なんですが』、と『中本』を再開させて欲しいというオレの思いをぶつけると、今度は『お前ならいいか』って」。
天にも昇る気持ちだったそうだ。
しかし、中本氏も、白根氏が、料理ができないことは知っていただろう。情熱は買ったかもしれないが、それだけで旨いラーメンができるわけではない。おなじラーメンができなければ、『中本』の名にキズをつけることになる。
リスクを承知で、何が、その時、中本氏を突き動かしたんだろう。
暑い夏が来た。それが過ぎようとする頃、およそ8ヵ月ぶりに「中本」が復活する。「中国料理 中本」から、「蒙古タンメン 中本」に改名して。
「最初、『中本』って名は、だめだって言われてたんです。それ以外で、考えろって。そりゃ、オレにしたらズバリ『中国料理 中本』でいきたい。だって、それがブランドだから。でも、『だめだ』っていう気持ちもわからなくもないから、違った屋号で勝負するしかないなって思っていた時、親父さんが、オレが名前を考えた。『蒙古タンメン 中本だ』って、突然言い出すんです。『中本』が入るから、それはそれでうれしかったんだけど、商品名が先に来るっていうのに、抵抗がありました。だって、寿司屋だったら『中トロ 中本』って感じでしょ/笑」。
しかし、師匠のいうことは、間違いない。抵抗もできない。へそを曲げられでもしたら、「中本」の二文字も消えてしまう。天秤にかけるまでもなかった。
そして、「蒙古タンメン 中本」がスタートした。あの「中本」の復活でもある。

親父さんと呼ぶ、中本氏と、心と心で交わした約束。

オープン当日、軽く100人は列をつくった。長さにしておよそ50メートル。「とんでもねぇことになっちまった。はやまったって思った。だって、100人だよ。それが何時間経っても、へらねぇんだ。親父さんがサポートしてくれなかったら、初日からパンクしてた。それから、1年半くらいかな。親父さんと奥さんが、入れ替わり、立ち替わりサポートしてくれました。あれが、オレの修業だった」。
奥様にもかわいがられたそう。いつの間にか、ラーメンより、親父さんと呼ぶ、中本氏に惹かれるようになる。
「もう感謝しかないよな。あんなに旨いラーメンをつくってくれて、それを何の縁もなかったオレに教えてくれるんだから。当時のオレっていえば、もうイエスマン。だいたい人に指図されるのが大きらいな性格なんだけど、親父さんにだけは、『ノー』って言えない」。
「再オープンの時、親父さんは『6時で店を閉める』って言うんだ。なんでだよ。9時ころまでやってもバチがあたんないだろって思ってたんだけど、そんなことしたら、とんでもないことになっていた。やっぱりオレなんかより、『中本』のラーメンのちからを親父さんは、ハッキリわかってたんだ」。
そのちからは、日を追うごとに実証される。
「普通だったら、再オープンした頃だけ話題になって人が来る。で、それがピーク。でも、初日からはじまった100メートルの列は、いつまで経っても100メートルのまま。3ヵ月経っても、6ヵ月経っても。なかにはさ、オレといっしょだったんだろうな。あるお客さんが『あなたが白根さんか。中本のラーメンを復活させてくれてありがとう』って、涙を流すんだよ。オレもそれ聞いてさ、泣けてきて/笑」。
2018年現在、「蒙古タンメン 中本」は現在首都圏を中心に直営店が15店舗、暖簾分け店が6店舗ある。フランチャイズの話もあった。でも、何を言われても、今度は白根氏が、首を横に振る。「そりゃだめだねぇ」、と。いたずらな出店も一切しない。すべて「中本」を傷つけないためだ。直接、交わしたかどうかは知らないが、これが「親父さんと交わした約束」だったのだろう。
ラーメン「中本」の復活劇。それは、親父さんこと、中本氏の心を継承したことによって、幕を開けたにちがいない。

思い出のアルバム
 

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