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第655回 株式会社エムピーキッチン 代表取締役 村上竹彦氏
update 18/09/04
株式会社エムピーキッチン
村上竹彦氏
株式会社エムピーキッチン 代表取締役 村上竹彦氏
生年月日 1961年5月5日
プロフィール 日本大学卒。立花証券を経て、ゼンショーに入社。入社以来、15年、店舗開発一筋。全国を駆け回る。20年経った2017年に退職し、エムピーキッチンに転職し、現職の社長となる。
主な業態 「三田製麺所」「渋谷餃子」「グリル ドミ コスギ」他
企業HP http://www.mpkitchen.co.jp/

三宅島一周。

東京都といっても、本州から175キロメートル離れている。伊豆大島からでも57キロメートル南下しなければならない。今回、ご登場いただくエムピーキッチンの社長、村上 竹彦氏は1961年の5月5日に、この海の向こうに浮かんだ孤島、三宅島に生まれている。
両親は、ともに三宅島生まれ。父親は役場に勤務する役人だった。夏の間だけ、民宿も営んでいた。
村上氏は、3人兄弟の次男。兄とも弟とも一つ違い。
「私がはじめて東京に行くのは、小学4年生の時」と村上氏。10歳くらいの時だから1971年で、日本の中心である東京が、高度経済成長期の象徴として猛烈なスピードで発展していた頃である。少年の目に東京はどのように映ったのだろうか。ちなみに、村上氏がこの東京で暮らすようになるのは高校生から。
「中学校は三宅中学です」。三宅中学のホームページを観ると最初に、自然豊かな風景が飛び込んでくる。正式には「三宅村立三宅中学校」。当時、クラスは2クラスだけだったそう。
「競歩大会っていうのがあって、島を一周するんですが、そこで4位になりました。生徒会もやっていました。中学を卒業して、私は東京の高校に進むのですが、同様に東京の高校に進学したのは、わずかで3人しかいませんでした」。
島を離れる。東京に対する憧れか、それとも島を逃げ出すことが目的だったのだろうか。

東京暮らしは、ディスコとともに過ぎていく。

島を離れ進んだのは、都立千歳高校(現在は、東京都立芦花高等学校)といって、世田谷区にある高校だった。「私は下北沢に住んでいました。正直いって、カルチャーショックです。ファッションセンスって、そういう言葉自体、島じゃリアルじゃなかったですから」。
そりゃそうだろう。同じ東京都といっても、風景はまるで異なる。「割と硬派でね。長ランとか、短ランなどで決めていました。だから、そもそもファッションとは無縁だったんですが、高校生になって、カルチャーショックを受けて。基準がわからなくなって、1年の夏に、見事にディスコにハマってしまいました/笑」。
「学校にもあまり行かなかった」と村上氏は笑う。
「ディスコにハマったりして、実は、2学期からは学校にも行ってなかったんです。先生に諭され、なんとか踏みとどまることができました。それに、2年になると兄が上京してきたものですから、下北沢を離れ、登戸で兄といっしょに暮らすことになります。兄といっしょですから、そうそうディスコばかりも行けません」。
大学は、日本大学の法学部政治経済学科に進んでいる。ディスコは、早々と卒業し、勉強に明け暮れた証だろう。
「最初は、中央大学を狙っていたんですが、こちらはダメで、それで一浪して、日本大学に進みます。就職活動は、証券会社一本に絞っていました」。

1000万円プレーヤーの証券マン、36歳で牛丼屋の店長をめざす。

希望通り、立花証券に入社する。入社3年目で1000万プレーヤーになった。バブル経済で日本中が浮かれまくった時代も、破綻後、日本中が暗く沈んだ証券不況時代も経験した。
この証券会社を退職したのは1997年。証券不況の真っただ中。
「今でも、相談せずに転職したって、妻に責められるんです」と笑いながら、当時の話をしてくれた。「証券不況でしょ。潰れる会社もあって。証券会社の社員のリストが転職マーケットに出回っていたんでしょうね。私の手元にも一通のダイレクトメールがくるんです。その内容が、熱いっていうか、くさいっていうか。それで印象に残って、面接に行ったら、あの人のパワーに圧倒されるんです」。
「あの人」と村上氏がいうのは、現ゼンショーホールディングスの会長兼社長の小川 賢太郎氏のことである。以来、20年の付き合いになるとは、互いに想像もできなかっただろう。
「当時、私は36歳です。子どもも3人いました。証券不況だったこともたしかですが、もう少し地味な仕事もしてみたいな、という思いがあったんです。そう思っていた時に、小川さんからのDMです。縁でしょうね。36歳の牛丼屋の店長もいいかって/笑」。

ゼンショーで、およそ2000店舗を開発する。

「当時はまだ『すき家』が150店舗くらいの時です。私は、最初から『村上君はちょっと年がいっているから』って店舗開発に配属されます。それから15年は店舗開発一筋です」。
村上氏は、150店舗から2000店舗へと拡大する、そのすべてをみてきた。先頭で指揮を執ってきたと言ってもオーバーな話ではない。
「47都道府県には、およそ700の市あるんですが、私が行ったことがないのは、30くらい。北海道から沖縄まで、国道という国道はすべて走りました」。
村上氏が走り抜けたあとに、ゼンショーの店が現れる。「いちばん多い時には、1年で450店の契約をしました。それからいったん現場に出て、最後は管理の本部長です」。
20年経っていた。
「管理の本部長っていうのは、悪くないんですが、私はやっぱり現場が第一っていう人間なんでしょうね。プレーヤーとして、もう一度、フィールドに立って走りたい。そう思ったのが転職のきっかけです」。
そして、実際に店に足を運び、「これは旨い」と思った「三田製麺所」を経営するエムピーキッチンに転職し、社長となる。
2000店舗をマネジメントしてきた村上氏である。規模は物足りなくなかったのだろうか。
「いえ、それは逆ですね。2000店舗にもなると、動かしている感じはたしかにするんですが、とてもじゃないけど、1人1人の顔がみえない。トップが、1人1人にまで気を注げるのは、200店舗くらいまででしょう。だから、私には今の規模がちょうどよかったんです。ゼンショーは、2017年の10月に退職しました」。

現場とコミットする。それが村上流の生き方。

「当然、上場も視野に入れている」と村上氏はいう。ただ、焦らない。1人1人とふれあい、現場とコミットする。「いちばんは、それですね。出店計画などなかなかまだ申し上げられないですが、つけ麺だけをみても、まだまだ広げていくことはできると確信しています。その理由は、やっぱり『旨い』から。都内だけでなく、地方へも」。
目をつぶれば、出店候補地が目に浮かぶのではないだろうか。
三宅島から始まった村上氏の旅は。まだまだ終わらない。

思い出のアルバム
 

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