株式会社パズルフードサービス 代表取締役 奥村 啓氏 | |
生年月日 | 1967年2月7日 |
プロフィール | 愛知県出身。明治大学卒後、都市銀行に就職するも、2年で退職。フリーター生活を経て、税理士事務所に。その事務所で、担当したのを縁に、親会社であるパズルリンクに入社。2013年、子会社のパズルフードサービスの社長に就任する。 |
主な業態 | 「東京餃子楼」 |
企業HP | http://www.puzzle-fs.co.jp/ |
今回はご登場いただいた奥村氏は、1967年2月7日、愛知県の東部に位置する新城市(当時は南設楽郡鳳来町/2005年に編入合併)に生まれる。
ご両親と兄と妹の5人家族。少々、複雑な家庭で、実母は、奥村氏が生まれた頃に他界されている。当然、今の母は義母で、その親子の関係が、多少なりとも奥村氏の人生に影を落としている。
「兄が頭のいい人で、その兄とことあるごとに比較されて育ちました。でも、べつに兄弟の仲が悪いわけでも、義母との関係が悪いわけでもなかったんですが/笑」。
奥村氏が生まれた頃の、新城市はどんな街だったのだろう。
「今は、新城インターができたんで、もっと近いですが、昔は豊川インターが最寄りで、40分くらいかかりました」。
「小学校は、全校で生徒80人」とも言っているから、都会から離れた街だったのだろう。
この街で、義母は、実母の仕事も引き継ぐようにして、祖母といっしょに衣料店を経営した。父は、上場企業である「トピー工業」の豊川支店で勤務されていた。
奥村氏と言えば、とにかく、引っ込み思案で、素直だったそうだ。
ただ、引っ込み思案と言いながらも、小学生時代から副児童会長を務めている。
「中学からテニスをはじめました。私とテニスがマッチしたんでしょうね。副キャプテンを務め、なかりいい成績を残しました。でも、いい成績を残したのに、高校に進学してもテニス部から声がかからない。『アレ?』って感じで。ハイ、高校からは卓球です/笑」。
テニスや卓球をやりながら、実は、中・高でも生徒会の役員を務めている。みんなから推薦されるタイプなのだろう。ちなみに、高校での成績は入学当初13位。卒業する頃は30位。卓球や生徒会に奔走しながら、成績をちゃんとキープしているからすごい。
「すごいですか? なんだかんだいって、この頃がいちばんしんどかったですね。兄と比べられる。そのプレッシャーもハンパなかったですし、勉強の意味もわからなかった。親からも、みすてられていましたし…」。
「みすてられていた」と、奥村氏は辛辣な言葉を遣う。「高校時代には、もうもどりたくないですね」。その一言は、あながち、うそではないようだ。体より、心が疲れた3年間だったのかもしれない。
「高校を卒業したら、東京へ」と思っていた。
もっとも、父親からは「愛知大学へ行け」と言われていたそうだが。とにかく、早稲田、中央、明治を受け、なんとか明治の経営学部に滑り込む。
住まいは、三鷹に設けた。ちなみに、仕送り100,000円。当時なら、充分な額だ。
「そうですね。バイトはあんまりしてないですね。しないっていうか、できなかったというのが正直なところで」。
大学に進学すると、誘われるまま、すぐに合気道部の門を叩いた。女子もたくさんいたが、上下関係は、一般の部活動以上にきびしかった。返事に「NO」はない。
「私は、2年から明治大学の全部活43部をまとめる本部会に役員として参加します。たまたま輪番制でうちの部から1人ださないといけなかったんですね。それで、『奥村、行け』と/笑」。もちろん、「NO」はない。
有無もなく、参加した本部会だったが、ある意味、これが奥村氏の人生のターニングポイントとなる。
「学園祭などのイベントの企画・立案・実行。学園祭ともなれば大学全体ですから、予算もかなりの額です。また、各部のキャプテンとマネージャーで行う合宿を企画・実行したのも、いい思い出ですね」。
思い出だけではない。社会にでてからも、そうそう経験できない大規模なイベントの企画や立案、実行を通して、ちからと自信を育てた。それは、独りで生きていくという自信を生み出したのではないだろうか。
やがて明治大学を卒業した奥村氏は、都市銀行に就職。融資課に配属され、高い成績を残したが、お役所的な上司をみて興味をなくし、2年で、その銀行を退職している。
「銀行を退職してからは、フリーター生活です/笑」。
「仕事は雑踏警備です。アルバイトですが、月に30〜40万円になったもんですから、悪くはなかったですね。かっこよく言えば、ジブン探しですが、結局、5年もつづけてしまいました」。
無遅刻・無欠勤というから、びっくりする。
「昔からそうなんです。あの、暗黒の高校時代でも10日くらいですからね、学校を休んだのは。このあと、宮寺克和税理士事務所という税理士事務所に就職するんですが、ここでは、勝手に『月28日勤務だ』と決めて。ええ、ほぼ休むことなく仕事をしていました。経営学部卒ですが、未経験ですからね」。
なんであれ、どういう理由であれ、向き合えば、真剣。奥村氏は、そういう純粋な人である。本人に言わせれば、「世間知らずの田舎者」となるのかもしれないが。
「その事務所で担当していたのが、実は、こちらの会社だったんです。もっとも、お付き合いがスタートしたのは、パズルリンクという親会社のほうですが」。
整理するとこうなる。
税理士事務所時代に、「パズルリンク」という広告代理店(当時の年商は10億円程度)を担当する。監査だけではなく、経理としても派遣されていたから、社長との距離もちかい。そのうち、信任が厚くなり、ほぼすべてを任されるようになる。
その「パズルリンク」が新事業として、立ち上げたのが、「パズルフードサービス」だ。実は、「東京餃子楼」は、当時、M&Aで事業譲渡されたブランドで、奥村氏も、営業譲渡の書類などの作成などにかかわっている。
「だんだん、こちらの仕事のウエイトが高くなって、ほかに担当している会社をまわることができなくなってきたもんですから、『これは、だめだ』と、2003年にパズルリンクに転職します」。
パズルリンクは、のちに社員たちが去り、10億円あった売上も微々たるものになる。その一方で、業績を上げたのが、そう外食事業の「パズルフードサービス」だった。
「オーナーが亡くなって、私が受け継いだのが、今から5年前の2013年です」。
望んだわけではないが、いよいよ、奥村氏は、表舞台に堂々と登場することになる。
現在も「パズルフードサービス」のメインブランドは「東京餃子楼」である。奥村氏がひきついだ時は、2店舗だけだったが、2018年現在、店舗数はテイクアウト専門を合わせ6店舗まで広がっている。口コミサイトみれば、一目瞭然だが、いずれの店も評価は高い。
それだけに、奥村氏もいそがしい。
「売上も当時から倍増です。しかし、なかなか利益がね。デリバリーも開始したんですが、思ったより立ち上がるのが遅い。いまちょっとそのへんが、課題ですね」。
突っ走るだけではなく、ちゃんと課題にも目を向けている。「昔は餃子店だったんですが、餃子だけではなく、メニューも広げ餃子居酒屋にアレンジした店もあります。もともとうちは、コックレスです。だから、新商品開発のDNAがない。そういうのも改善していきたい点です」。
デリバリーをはじめるにあたっては、デリバリーチェーン店のFCとなり、ノウハウを修得している。「とんかつ」「からあげ」と餃子以外のメイン商品も開発。
一つひとつをパズルのようにつなぎ、体制を確立し、次代に向け、滑走する。いまはその準備段階だ。「私は、作業能力は高いが、仕事能力がない」と、奥村氏は苦笑する。そりゃそうだろう。奥村氏がいう仕事。つまり飲食の仕事の経験はほぼないのだから。
「今後の戦略は、いま検討し、進めていこうとしているFC事業ですね。まず、モデルとなる収益店舗をつくってからですが。そうですね、3〜5店舗出店いただければ、いまのセントラルキッチンを拡張移転できますから。そういう意味でも次代をつくる体制が整うと思うんです」。
けっして威張らない。欲がない、というか、社長になってもフラットな人である。もっとも、社長になる、その1年前からというから、会社を休んだのは、この6年でたった1日。
ふつう、できないことである。
「いまいちばん困っているのは、人ですね。現在、社員は10名です。でも、まだ、体制づくりもこれからですし、いっしょに会社をつくってくれるような人に会いたいです」。
それは、その人は、まだここにはない、キーとなるピースだ。
いつの日か、そのピースを手にした時、奥村氏は自身の経営センスをもっとストレートに発揮することになるだろう。その時が、第二の奥村氏のデビューとなるかもしれない。
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