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第664回 イートアンド株式会社 代表取締役社長 仲田浩康氏
update 18/11/06
イートアンド株式会社
仲田浩康氏
イートアンド株式会社 代表取締役社長 仲田浩康氏
生年月日 1964年4月26日
プロフィール 高校卒業後、ダイエーに就職。23歳、最年少で主任に昇格するなど順調にキャリアを積み、流通のノウハウを余すことなく修得。副支配人時代に指揮をとった兵庫県下のとある店舗は、1店舗で年間売上100億円オーバーという記録を打ち立てている。イートアンドには、36歳で転職。当時、社長である文野直樹氏から「外食以外を大きくしてくれ」という指令を受け、奔走する。専務を経て、2017年、現職の社長に就任。最終学歴は、関西学院大学大学院卒。
主な業態 「大阪王将」「太陽のトマト麺」「よってこや」「R Baker」「Coccinelle」他
企業HP https://www.eat-and.jp/

インベーダーと大阪王将。

その昔、大阪では、国鉄の環状線はもちろん、私鉄のどの駅を降りても、駅前には「大阪王将」があった。メニューは、たしか餃子とビール。当時、高校生だった私は、友人といっしょに頻繁に餃子を食べに行った。「10人前食べれば、無料」。一度は、挑戦してみたかったが、いまだ出来ずじまいである。
ところで、以前、2代目社長である文野直樹氏を取材した際、昭和50年前半ばになって、業績が下降した要因としてインベーダーゲームの登場を挙げられていた。興味深い指摘だったので、いまも記憶している。
文野氏の言う通り、インベーダーゲームをはじめ、アーケードゲームの登場によって、「食」は、身近なレジャーの座を奪われたと言っていい。
ちなみに、当時、餃子1人前が100円。インベーダーゲームも100円。いままで100円玉をにぎって大阪王将に向かっていた学生たちが、同じように100円玉をにぎりゲームセンターへ向かった。いまになって思えば、インベーダーたちは、大阪王将のファンを狙い撃ちしたかのようである。
さて、その「大阪王将」。
いまではご存じのように、餃子とビール以外にも、バラエティ豊かな料理の数々がある。郊外に出店するなど、駅前というイメージも薄れてきているのではないか。その「大阪王将」を運営してきたイートアンドは、「大阪王将」以外にもラーメン店の「よってこや」など多数のブランドを展開している。
ただ、それだけではない。
文野氏を取材した際、今後は食品メーカーに舵を切るようなお話しをされていた。具体的には「中食」と「内食(冷凍食品)」を挙げられていたはずだ。
その一つ、「冷凍食品」がいまや外食と匹敵する規模に育っていると伺った。立役者は、ダイエーで勤務されてきた仲田浩康氏。今回、ご登場いただいた飲食の戦士である。

高卒、巨大な流通企業で暴れる。

仲田氏は、1964年4月26日、大阪の豊中市に生まれる。3人きょうだいの長男。父親は印刷会社を経営していた。少年時代は、だれもが慕うリーダー的存在。
運動はできるほうだったが、勉強は「まぁまぁだった」と笑う。
「旅行に行った記憶は少ないですが、外食は多かったですね。昔ですからね。外食はそれほど、日常的ではなかった。そういう意味では、珍しいほうだったと思います」。もっとも、レストランと言えるようなシャレた店ではない。「ごはんやさんです/笑」と仲田氏。
「躾は、きびしくなかったんじゃないかな。ノビノビ、放任主義です」。少年野球ではキャプテン。人気者だった。
高校卒業後は大学に進学せず、はたらきはじめた。就職先は、当時、流通業界のトップランナーだったダイエーである(大学院を終了したのは就職してからの話である)。
「配属されたのは、魚売り場でした。いちおうサラリーマンなんですが、商売人ぽい仕事です」。実は、仲田氏。「父親をみていたから、経営者ではなくサラリーマンになりたかった」そう。経営の難しさを、理解していたからだろう。
「ただ、その一方で、商売に興味があったのは事実です」。
もともと、やんちゃな性格である。型にハマるのがいやだった。だから、お世辞にも態度がいいとは言えない。しかし、結果で周りを黙らせた。
23歳で主任に昇格。異例中の異例だったそう。学歴など関係なかった。商売人の素地が群を抜いていた証でもある。それからも目をひくように出世し、27歳でシニアマネージャー、31歳で課長、32歳で副支配人になっている。
「人生のターニングポイントを挙げると、3つです。一つは、ダイエーという巨大な流通会社に就職できたこと。そして、そのダイエーで経営のノウハウを吸収できたこと。もう一つはイートアンドの面接をうけたことです」。
副支配人といっても、巨大なダイエーからすれば、末端である。できることは、少ない。ならば、と転職を決意しても不思議ではない。
仲田氏のダイエー時代が幕を閉じる。

「大阪王将」に転職。

「まさか、私が社長になるとは思っていなかったし、打診された時も、実はお断りしたんです。文野会長とは5歳くらいしか離れていないし、禅譲なんてイメージでもなかったですからね/笑」。
本人がどう思ったとしても、文野氏は、もう決めておられたのだろう。食品事業の立役者である仲田氏以外、いまからの「大阪王将」の舵を取れる人間はいない、と。
すでに書いた通り、今では、外食事業と食品事業の事業比率は50対50となっている。仲田氏が仕掛けた「冷凍食品」、なかでも、<水も油もいらない羽根つき餃子>が急速に市場に浸透したからだ。(現在では<油・水・フタもいらない羽根つき餃子>へと進化している)
「ダイエーを退職して、イートアンドに転職したのは36歳。2000年の8月です。ええ、紹介やヘッドハンティングとかではなく、ふつうに転職雑誌をみて」。
給料も大幅に下がったそうだ。大阪王将では、一兵卒。経験でひいきもされなかったから、当然といえば当然だ。とはいえ、具体的な数字を聞いてわかったが、相当な落差があったのは事実。何が、それほどまでに仲田氏を惹きつけたのだろう。
「一口で言えば、『大阪王将』という会社の可能性かもしれません。私自身、一兵卒で入社するんですが、入社1年ぐらいで部門長に就任します。会社に、可能性があるからですね。当時の社長、文野からは『外食以外を大きくしてくれ』と言われます。当時は、外食が60億円、食品が5億円。外食以外を大きくするのが私のミッションですから、まずは、この5億円をどう大きくするか、です」。
実は、仲田氏は、イートアンドの株式上場にも貢献している。当時、常務だった仲田氏は、プロジェクトリーダーとなり、上場まで導いている。この上場においても、「食品事業」に対する評価はカギになったはずである。
「我々にとって大きな転機だったのは、生産事業に舵を切ったことだと思っています。外食事業も、食品事業も出口という発想です。つまり、収益の源泉がどこにあるかというと、外食でも、食品でもなく、生産機能なんです」。
むろん、「大阪王将」という絶対的なブランドがある。そのブランドによって、食品事業が成り立っているのは間違いない。つまり、「大阪王将」というブランドが、収益の根源でもあるのだ。このちからを、外食だけではなく、食品にも展開し、押し広げたことが仲田氏の功績だろう。
もっとも、いかに「大阪王将」のブランドをもってしても、「最初は、まるで相手にされなかった」と仲田氏はいう。いくぶんか怒りのニュアンスを含んだ、その口ぶりから、当時、第一線で奮闘した仲田氏の姿が思い浮かぶ。
ともかく、仲田氏の話を聞いていると、何度も「生産事業」というキーワードが登場する。この言葉が、ユニークだ。そもそも、外食企業が「食品事業」の比率を、これほどまでに高めた例はほかにないし、この言葉自体が「大阪王将」の原点回帰を表しているような気がするからだ。

生産事業は、「大阪王将」の遺伝子か。

「大阪王将」は現会長の文野氏の父親が、大阪京橋にオープンした5坪の餃子専門店に端を発する。その後、のれん分けによって店舗数を拡大し、大阪の駅という駅に「大阪王将」の看板が立つ。
その時、文野氏の父親が志向したのが、「生産事業」だ。早々と餃子の生産工場をつくり、出口を担う各店のオーナーに販売を委託した。そういう意味では、この遺伝子が、2代目の社長である文野氏に引き継がれ、3代目の社長である仲田氏によって花開いたともいえるのではないだろうか。
仲田氏は「フルライン型フードメーカー」だともいう。心臓はいうまでもなく、生産事業だ。日本においては、唯一無二のビジネスモデルだとも言っている。
だからこそ、注目度も高い。
生産事業を拡大させながら食品事業、外食事業を成長させていく。そのスパイラルのスピードは更に加速していく気がする。かつてのやんちゃ坊主は、まだまだこんなものでは満足しないだろうと思うからだ。
ちなみに、2018年5月22日付けで、「新関東工場」が2019年10月に竣工すると伝えられている。

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