株式会社SFPホ−ルディングス 代表取締役社長 佐藤 誠氏 | |
生年月日 | 1963年6月21日 |
プロフィール | 国士館卒。大学卒業後、調理師免許取得のために、調理師専門学校に進む。銀座のレストラン『たかまつ』の和食部門からスタート。2年後、関内にオープンするフランス料理店のオープニングに参加する。これが、寒川隆氏・良作氏、2人との出合い。以来、両氏の懐刀となり、八面六臂にはたらき事業を推進する。 |
主な業態 | 「鳥良」「鳥良商店」「磯丸水産」「きづなすし」「いち五郎」他 |
企業HP | https://sfpdining.jp/ |
「かつらむき」は、大根等を筒切りにして、帯状に薄く、むくように切る料理の技である。刺身のつまやあしらいなどが、この技法で用意される。
「これがどうにも、こうにも」と笑うのは、今回、ご登場いただいた株式会社SFPホ−ルディングスの代表取締役社長、佐藤誠氏である。
「かつらむき」と格闘していた頃は、現在の地位を手にするとは思ってもいなかった。これが、飲食の不思議という奴なのだろう。
では、いつも通り、佐藤氏の生い立ちから追いかけてみることにしよう。
佐藤氏は、1963年、横浜に生まれる。2人きょうだいの、兄で、長男。父親は、叔父といっしょに包装用パックなどの製造会社を経営されていたそうだ。
「今じゃ、うそみたいな話なんですが、子どもの頃はガリガリで。両親をまじめに心配させたそうです。『環境が悪い』と茅ヶ崎に引っ越したくらいですから。私が幼稚園に入学する前の話です/笑」。
まさか、ご両親も食が細い佐藤氏が、のちに180センチを超す、健康優良児に育つとは想像もされていなかったことだろう。
ともかく茅ケ崎への引っ越しは、効果テキメンだった。とたんに、料理を残さず平らげるようになった。
「昔の茅ケ崎ですから、そりゃ広々です」。佐藤氏は目を細める。道をまっすぐ行けば、海が姿をみせる。潮の風が吹く。空は青々として、澄んでいる。
「肉ばっかり食っていました。そのおかげで、今度は、からだが大きくなりすぎて/笑」。
からだは、日に日に大きくなり、小学生になるとジャイアンになる。体形もそうだが、ふるまいも似てきた。「けっこう威張っていたような/笑」と佐藤氏。
からだは、いつのまにか、全校でも上から3番以内に入るくらいになったそうだ。拡大率では、おそらくナンバー1だったろう。
中学校ではバスケットボールをはじめた。当時は、175センチ。70キロくらいだった。「背が高かったからか、1年生の時からレギュラーにまじって練習をさせてもらいました。2年生からは、晴れてレギュラーです」。
地区大会でも優勝したそうだ。たのしかった。高校でも、バスケットボールをつづけ、今度は1年生からレギュラー。進んだのは、小田原にある私立高校。
「マンモス校です。勉強ですか、ぜんぜんしてない/笑。共学です。敷地もだだっ広い。高校では1年からレギュラーでした。もう、182センチ。ええ、当時では、バスケの選手のなかでも小さくはなかったですね」。
「ただね。当時、クラスから1人、海外に行けるなんて制度があって、手を挙げちゃうんです。1人なんですが、私以外にはだれも手を挙げなかったもんだから、選ばれちゃって。それで、レギュラーだったのに、夏休み一杯、お休みしちゃうんです/笑」。
大ひんしゅくだったそうだ。
「でも、海外に行くなんて。当時は、一生に一度ってイメージです。だから、部長さんにも『行かせてください』っていって」。
海外は、そうまでしていく価値があった。暮らしたのは、アメリカ、サンディエゴ。ホームステイだ。文化の違いも目の当たりした。
「英語ができないから、ボディランゲージなんです。そりゃ、少しずつ単語も分かってくるんですが、深い話できないんですね。語学が大事だと、さすがにあの時は思いましたね」。
帰国後は、やはりバスケットの日々。
これが、佐藤氏の青い記録。
大学は、国士館に進んでいる。けっして優等生ではなかったが、小学校から高校生までは学校を休んだとこはなかった。その反動だろう。大学では遊び倒してやろうと決意していたらしい。
実際、アルバイトに、旅行に、時間はいくらあってもたりなかった。
「バイトは、大手高級焼肉店でしていました。当時の国士館の選択肢としては、体育の先生でしょ。警察官や消防、役所というのが、オーソドックスなんですが、私が選択したのは、バイトの影響が大きく、飲食でした。それで、卒業後、実は、調理師専門学校に入学します」。
飲食。
当時、大学をでて、その道を進む人は少なかった。年齢も同期と比べると上。職場に入っても、中卒や高卒の、年下の先輩が少なくなかった。
修業もまた厳しかった。いわゆる職人世界の修行が当たり前だった。
「しかし、そこは国士館出身です。多少の威圧は、へでもない。からだも、180以上でしょ。さすがに、だれもかかってこなかった/笑」。
「ともかく、そうやって飲食に進み、最初にお世話になったのが、銀座のレストラン『たかまつ』で、配属されたのは和食部門です」。
「かつらむきが難しかった」というのは、この頃の話である。
「私が、うちの会社に転職したのは、私が25歳の時です。関内にある小皿料理のフレンチレストランに応募しました。当時、すでに『鳥良』は人気店でしたが、『鳥良』を運営していることは教えてもらえませんでした。『言うとうちに来ない』と2人で相談して、隠していたそうです/笑」。
「2人」とは、カリスマ経営者でもある創業者の2人、寒川兄弟である。
「当時ですか、まだ3店舗くらいです。でも、私にとってそれがよかった。弟の良作さんが調理をして、兄の隆さんがホールです。私は隆さんの下でホールをするんですが、そりゃ、すごいですよね/笑」。
一方、面接を担当した寒川隆氏も、佐藤氏を観て、ひとめぼれしたそうだ。「だって、あいつは、うちの面接にスーツですよ。スーツで来たんです。そんな奴、いまだかつていない。だから、絶対、採用しないといけないと思ってね」。
ちなみに、この時、佐藤氏はアルバイト情報誌を観ている。
「キャッチフレーズが『経営のノウハウを教えます』ですよ。すごいな、と。しかも、『オープニング』で『海外研修有』。もうここだって」。
和食から、フレンチ?
「ええ、前職は和食ですが、フレンチでも、イタリアンでも問題なかったんです。むしろ経営を勉強して、もちろん、めざすは独立ですよ。やっぱりね」。
スーツで現れた青年も、またスーツの下にしっかり独立心をしまい込んでいた。
「関内の店は、フレンチからイタリアンと、そうですね、わずか1年の間でも、コロコロと業態をチェンジして。ハイ、一時、雑誌の『Hanako』に載った時はどかーんってきたんですけどね/笑」。
料理人は辞めていったが、佐藤氏は残った。
それから何年過ぎた頃だろうか。
「寒川さんらとは、もう朝から晩までいっしょです。だから、何年もすると、私も兄弟みたいなもんですよ。でも、私は、かれらと袂をわかたなければならない」。
店長になり、スーパーバイザーになり、いよいよ独立のその日が、カウントダウンされる。
「そんな時ですね。お2人から『腹をくくって、うちでやらないか』って言われるんです」。
常々、「独立する」と言っていたから、まさか、そう言われるとは思っていなかった。だから、「1週間、考えさせてくれ」と回答するのが精一杯だった。
1週間が過ぎる。過ぎた時に佐藤氏が、出した答えがふるっている。
「たしか、こういうんです。『この会社が大きくならなくても、だれも責めない。だってそれはオレ自身がこの会社を大きくするんだから』って。生意気ですよね/笑」。
「生意気」だったが、「本心」だった。
腹をくくりまくった。
もう、そうすることでしか、寒川両氏に恩返しできないとわかったから。「さきに、私といっしょにやると兄弟たちが、腹をくくっていた」ことに気づいたからである。
佐藤氏が、社長に就任したのは、2013年である。社長だった寒川良作氏は会長となる。
これまでの間、会社は、「鳥良」だけではなく、「磯丸水産」という人気ブランドも生みだし、株式を上場する。その躍進の陰に佐藤氏がいたことはいうまでもない。
「人事部も、営業部も、ぜんぶイチからつくってきました。商品開発も、衛生管理もね。そういう意味では、オールマイティに仕事をしてきたことがいまにつながっています」。
たしかに、そうだろう。しかし、事業の主要なパートをすべて1人に任せるのは、珍しいケースだろう。佐藤氏が、ある意味すべてを掌握するからだ。信頼がなければ、到底できない。
佐藤氏に自身の性格を問うと、「私は【石橋を叩いても渡らない】タイプなんです。それを知っているから、【あいつなら会社を潰さない】と思ったんじゃないですか」。
そういった慎重さも含め、数多くの社員のなかから、佐藤氏が社長に選ばれたのも信頼という一言で頷ける。
ところで、少々、SFPホールディングスについても少しふれておくと、昭和59年に創業した同社は、手羽先唐揚専門店「鳥良」で店舗網を拡大し、2009年からは海鮮居酒屋「磯丸水産」の出店を加速。
2014年に30周年を迎え、同年、株式上場を果たしている。
現在は「クリエイト・レストランツ・ホールディングス」の傘下に入っているが、傘下と言っても、ハンドリングはすべて、佐藤氏に委ねられている。
中学生、バスケ部時代 | SFPスーパーバイザー時代 | 東証二部上場 |
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