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第667回 株式会社ASU 代表取締役 平野二三夫氏
update 18/11/27
株式会社ASU
平野二三夫氏
株式会社ASU 代表取締役 平野二三夫氏
生年月日 1956年1月17日
プロフィール 高校卒業後、市の職員になる。2年後、マルチ商法にハマり、市役所を退職するまでのめり込んだが、結局800万円の借金だけが残る。22歳、鮨屋で修業を開始。遥かに若い兄弟子からの罵声を受け、心折れそうになりながらもつづけ、28歳で独立。1984年、「さるとび」をオープン。現在、メインブランドの「蟹工船」は1991年にオープン。バブルの最後に生まれた、高級な料理店である。
主な業態 「蟹工船」「さるとび」「三源豚」「東尋坊」他
企業HP http://kanikousen.jp/

キャプテン。「とにかくオレにボールをまわせ」と叫ぶ。

「キ・ミ・シ・ョ・ウって聞いたことはないけど、けっこうやるよな」。
相手選手から、そんな声が漏れてきた。相手は、その年の全国優勝チーム、習志野高校。
「私がサッカーをはじめるのは中学校から。すぐに好きになって。監督もいないチームだったんですが、案外、タレントがそろっていて、そこそこの成績。中3になって、私がキャプテンになると更につよくなる/笑」。
どんなキャプテンだったんですか? と伺うと、「とにかく、オレにボールを回せってタイプだった」と笑う。「そのなかのメンバーたち数人といっしょに、君津商業に進学します。こういっちゃいけないんでが、先輩たちの代はそうでもなかった。でも、私らが入って、1年からレギュラーとなり試合に出場するようになるとドンドン成績があがっていきました」。
最高順位は県ベスト8。「習志野とたたかったのも、その頃です。ほかのチームは8対0とか、ともかく、当時の習志野は手がつけられなかったんですが、なんとか2対0に。もちろん、負けちゃったんですが、向こうの選手にもけっこうやるじゃん、みたいなね/笑」。
校長先生にもホメてもらった、そう。
サッカーの何がいいのかと聞くと、「ほかのスポーツには、やれ背丈とか、運動神経うんぬんとかがあると思うんですが、サッカーだけはそうじゃない。努力するほど巧くなる。だから、大好きなんです」。
「サッカーから教わったことは少なくない」と平野氏はいう。努力はうそをつかないも、その一つに違いない。ちなみに、平野氏は1956年生まれ。まだまだ野球が、全盛期の頃。突然、ヒーローが現れたのは、1968年のメキシコオリンピック。この大会で7得点を挙げた天才ストライカー、釜本 邦茂氏だ。
当然、釜本氏は、当時の子どもたちの憧れになる。平野氏も、ちょうど13歳。平野氏にとって、釜本選手はどんな存在だったのだろう。

マルチ商法。のめり込んだ先の残ったものは。

高校を卒業した平野氏は、市役所に勤めを開始する。「受験したら不思議なことに合格してしまって」と平野氏。本人は、大学に進んでサッカーをしたかったそう。市の職員になってからも、実は、社会人のサッカークラブでサッカーをつづけた。
「市の職員っといっても、年中、お酒は飲んでいたし、マージャンもしていた。車が好きだから、暴走もした。え、配属ですか? 市民税課です。そうそう、あの時、税金だけで、オレの1年ぶんの給料より高い人がいるのを知って。いつかオレもと思いました。いま思えば、独立心は、あの時に芽生えたんです。きっと/笑」。
ちょうどいい具合に、役所の上司が、とあるビジネスに誘ってくれた。
石鹸の販売だった。しかも、マルチ商法。
「最初は、いい感じだったから、それで、ハマっちゃうんですよね。このぶんならポルシェだって買えんじゃなぇかって」。
あいにく、そう巧くはいかない。市役所まで辞めて、のめり込んだ結果、800万円の借金だけが残った。
「言い訳にはなりませんが、まだ20歳でしたからね。何がいいかわるいかも知らなかった。そのマルチから抜けたのが21歳です。800万円の借金でしょ。もう、どうすればいいわからない私を救ってくれたのが、日本マクドナルドの創業者、藤田田さんの『ユダヤの商法』でした」。
目から鱗だったそう。起業するなら「おんな」と「口」をねらえ。その指示に従って、23歳の時、鮪も食べられないのに鮨屋の門を叩いた。起死回生のすべてを「食」に託した。

酒も飲めない、年下の兄弟子たち。

「いま、何がいちばん辛かったかっていうと、やっぱりあの時かな。鮨屋といっても、割と大きな店だったから、私とおなじように修業に来ている子らもいます。しかも、みんな私より先に入っているから先輩です。こっちは車も運転できるし、酒だって大っぴらに飲めるもう、22ですからね。でも、」
「でも、16や17の子から、叱られる。罵声ですよね。あの時ほど、みじめだったことはない。でも、一度、マルチで失敗しているでしょ。だから、頑張るしかなかったんです」。
知り合いを通し、休日もほかの店で仕事をした。尊敬する先輩のあとを追うように、和食の店でも修業した。「修業って、そりゃ辛い/笑」。そうでなきゃ、修業じゃないとでもいいたげ。「和食に店に移ってからも、辛かったですね。でも、独立するつもりでしたから、ちょっとやそっとで、こっちだって音をあげません」。
洗いものをしながら、「6年後には店やるべ」と舌を噛んだ。そう思うと、心も落ち着いた。「和食の最初は伊東だったんですが、そのあとも伊豆に行ったり、東京でも、はたらきました。そして、そう、28歳ですね。『さるとび』をオープンするんです」。
「オレのあしたをみていろよ」と言いつづけた青年が、ようやく、その「あした」に到達する。
「君津の駅から離れていました。24坪です。立地とかもわからないし、相場っていうのも知らなかった。ただ、1984年という時代は悪くなかったですね。なんでも儲かった。スナックでも、バーでも、どこもいっぱいです。うちも、3ヵ月目からは、連日、満員になりました」。
いまでいう寿司居酒屋、「その走りだ」と平野氏はいう。「それから、1991年にオープンした2号店が、『蟹工船』です。何年経ってもかわらない。素材で勝負できる、そんなお店をつくりたくて。もう、あれから27年経ちますが、いまもうちのメインブランドです/笑」。
「蟹工船」といえば小林多喜二著の日本を代表する文学作品の一つだが、平野氏がオープンした「蟹工船」にも文学的な響きがある。美しい川床を配した店内からは、「和」が織りなす唄が、響く。

食材、勝負。

食材で勝負する。言い方をかえれば、職人の手は借りない。平野氏が一つのテーマにしていることだ。
「鮨ってやっぱり職人の技を食べるんですね。にぎるだけじゃなく、仕入れからの、すべての技です。たしかに、それもいいんですが、職人技がすべてになっちゃう。だから、私は、職人技じゃなく、『食材』でお客様が唸ってくださるような店をつくりたかったんです。それが『蟹工船』なんです」。
たしかに、ホームページを観ているだけで、心が動かされる。
蟹はもちろんだが、肉もまた、「これは、旨すぎてヤバイやつ」と素人目にも一目でわかるレベルである。
「蟹工船を開業して27年と一言でいいましたが、色々ありました。業態づくりの『天才』なんて言われていますが、失敗がないわけじゃない。人の教育だってたいへん。いまになって、改めて、そう思いますね」。
飲食である限り、人づくりは何年経っても課題なのだろう。ある意味、脱職人に舵を切った平野氏でも、やはりおなじ悩みを抱えているという点が、問題の根深さを物語っている。
「そうですね。難しいですね」と平野氏。
しかし、今回、平野氏の話を聞いて、たいへんだが、やはり飲食は素敵だと思った。
努力がうそをつかないのは、平野氏がいう「サッカー」にも似ている。
起死回生の策は、「食」にあり。
そう教えてくれた「ユダヤの商法」を、平野氏はいまもバイブルをとして、大事にとっているそうだ。

思い出のアルバム
 

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