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第670回 モンテステリース有限会社/株式会社花たぬき 代表取締役社長 星山真也氏
update 18/12/11
モンテステリース有限会社
株式会社花たぬき
モンテステリース有限会社/株式会社花たぬき 代表取締役社長 星山真也氏
生年月日 1975年9月5日
プロフィール 京都市出身。中学生の時、ドラムと出会い、中・高とバンドを組み、プロのミュージシャンをめざし、活動をつづける。20歳で活動を中止し、アルバイト先だったお好み焼き店に就職。22歳で独立し、京都、四条大宮に「花たぬき」1号店を出店する。
主な業態 「花たぬき」
企業HP https://hanatanuki.jp/

兄の背中を追いかけ、プロのドラマーをめざす。

「兄が始めた『ドラム』に興味を持ち、中学校3年生からバンドを組んでドラムを担当しました。高校生になると、学業よりも、バンドのほうがメインになります」。
今回、ご登場いただいた「花たぬき」の創業者、星山氏の回顧である。「高校2年生のときに、バンドはいったん解散しました。私は年上のバンドのメンバーとなり、活動をつづけます」。
ホームの京都はもちろん、大阪、兵庫、ときには千葉にまで遠征していたというから、ホンモノだ。ちなみに、兄は、そのままプロの道へと進み、有名アーティストのバッグでドラムを叩くまでになっている。
「一方、私のほうは悩みます。20歳のときです」。
二者択一。
「東京にいくか、バンドをやめるか」。
ずいぶん迷ったことだろう。ただ、答えは、ひょんなことから導き出される。
「当時、お好み焼き店でバイトをしていたんですが、絶妙なタイミングで正社員のオファーをいただいたんです」。
背中を押された格好だった。
「プロのミュージシャンをめざしていたんですが…」と星山氏。つよく思っていた。
逆説的な言い方だが、だから、きっぱりと、卒業できたのかも知れない。本人も「真剣にやればやるほど、厳しさを実感した」と語っている。
ともかく、ここまでが第一章。おそくなったが、生年月日は、1975年9月5日。京都市出身。

お好み焼き店で手にした、もう一つの目標。

「合計2年くらい」と星山氏。だから、独立はちょうど22歳のとき。たいていの大学生が、卒業する年齢だ。
「特別、何かをやりたくて、社員になったわけじゃありません」。
ほかに適当な道がなかったから、進んだにすぎない。しかし、それが星山氏のターニングポイントになる。
「いま思えば、20歳の選択がいまにつながっているのですから、たしかにターニングポイントです。アルバイトの時もそうでしたが、社員になってからは益々、信頼いただき、仕事も任されます。そうこうしているうちに、私でもできるんじゃないかと思ったのが独立のきっかけです。若かったから、できたことでしょうね。まったくの見切り発車です/笑」。
できるんじゃないか、という単純な思いつき。事業計画ひとつわからないし、みたこともない。ただ、走り出したら止まらない。資金を確保する前に、いさみあしで物件を押さえてしまった。「銀行からなんとか融資をいただき、周りの方にも助けていただいて、なんとか、なんとかオープンできました」。
むろん、オープンが起業の目的ではない。スタートラインに立ったばかりだ。そういう意識はあったんだろうか。
「そこからが、たいへんでした。創業店は『四条大宮』といって、繁華街から少し西に行ったところでオープンしました」。
チェーン店化をめざしていた。だから、創業店にもかかわらず、わざわざ「四条大宮店」と銘打った。
しかし…。

神かもしれない、おっさんズ。

「京都の幹線道路沿い。13坪・25席です。まぁ、だめでしたね」と星山氏は、苦笑する。むろん、当時は、笑うこともできない。
「中・高からのともだちが来てくれたおかげで、暮らしてはいけましたが、売上はぜんぜん立たないし…。現金商売なのに、現金がない/笑」。
カードローンにも頼った。
「今思えば、すべてが甘かったですね。お好み焼きをちょっとかじっただけ。鉄板料理いうたかって何も知らん素人ですよ。流行るわけもあらへん/笑」。
「だけど、ヘンな自信だけはあった。だから、たたむこともできへんかったんです」。
そんな日々が、5年間つづいた。
星山氏のねばりにも感心するし、通いつづけたともだちらの友情にも頭が下がる。ただ、その一方で、これが「粉もん」のちからだと思った。
もともと関西人は、「粉もん」との親和性が高い。いわゆる「粉もん」好きである。毎日はオーバーだが、つい食べたくなる。しかも、毎日、通ったとしても、財布はそれほどいたまない。
そのぶんライバル店は少なくないが、繁盛する素地はあるということだ。あとは、どう工夫するか。創業して5年、青息吐息でつづけた店に、春が来る。
ちなみに、春をよびこめたのは、神かもしれない、おっさんズのおかげである。
「どこの町でもそうやと思いますけど、京都にも『お好み焼きの通』みたいな人がいるんですわ。で、うちの店にも何人か、そういう方がいらっしゃるわけです。店主が20そこそこでしょ。だから、あれ、これと、アドバイスっていうかね/笑」。
「○○ちゅう店が旨いでぇ。行ってみぃ」。
週1回のやすみ。言われた通り、店を探す。
「そうやって、べた焼きを知るんです」。
「あの口数のへらへん、おっさんたちがいたから、いまがある。少なくても、『べた焼き』はしてへんのとちゃいますか。もっと恰好ええのんしてたと思うな/笑」。

昔ながらの味を斬新にアレンジ。

京都には、昔から「べた焼き」という小麦粉をクレープのような薄い生地のうえに具材を乗せて焼いたお好み焼き風の食べ物がある。京都の下町で親しまれた「べた焼き」は、京市民のソウルフードでもあったそう。
「しかし、だんだんとべた焼きのお店は減っていきます。お好み焼きに客を奪われたのと、後継者問題です。私は、この『京都のべた焼き文化を残したい』と思い、現代風にアレンジした『特製たぬき焼き』を開発しました」。
「特製たぬき焼き」とは、「べた焼き」にそば、またはうどんを入れ、モダン焼きにし、自家製の「油かす」を乗せて香ばしく焼きあげたモノ。仕上げに「卵」が割り落とされる。たっぷりのった九条ネギの青、たっぷり塗られたソースの赤茶、そして黄身の黄が、なんとも言えぬコントラストを奏でる。
「業績が浮上するきっかけとなったのは、この『べた焼き』です。『京都下町のべた焼を継承する』と打ち出したところ、TVでも紹介されます。『魔法のレストラン』や『せやねん』とかにも取り上げられ、スタジオで焼かしてもらいました。はい、それからぎょうさんお客さんがやってきてくれて。火がつくっていう奴ですね」。
「粉もん好き」だけではなく、関西人は「あたらしもん好き」でもある。古くから親しまれてきた「べた焼き」が、いまふうにアレンジされ、新登場となれば、ほうっておけないのが、関西人の人情である。
「たぬき焼き」はたちまち市民権を得た。「ちょうどそれが5年目の話で、それから、2号店出店の話もトントンと進み…」と星山氏。現在の7店舗まで広がっていく。
これまでが、第二章。

躓きと気づきと。これが、第三章。

「2号店は、1号店とは違う意味で、予想以外の結果になるんです。ええ、ありがたいことに、最初から波のようにして、お客様がいらしてくださいました」。
創業店より1.7倍の広さにしたが、それでもすぐに満杯になる。「読みが甘くて、てんてこ舞いでした/笑」。「それから、3、4、5、6号店と出店を重ね、はじめてロードサイドに打って出たのが、7号店です。いままで以上に渾身の出店でした」。
ところが…。
「そう、全力で出店したのに、ぜんぜんダメだったんです。え? なんで? そうこうしているうちに、客どころか、、店長が辞め、副店長も辞めて、アルバイトも次々、おらんなるんです」。
業績が悪い。ただ、それだけだったのだろうか。
みんなが去る。
星山氏は、1年でこの店をクローズしている。
「みごと、大ゴケですね/笑」。
「怖いものなし」で走ってきたつけかもしれない。
「厚みがない。薄っぺらい。私が、そんな経営者だったんです。だからでしょう。『業績が悪い時だから、頑張ろう』ってスタッフは1人もいません。それが辛かったですね」。
だが、辛いなかに、気づきがあった。
「私自身が、張本人なんです。だから、私がかわらなあかん。セミナーにも参加しましたし、いま副理事やっている京都『TSUBASU会』にもはじめて顔をだします」。
経営者としての、勉強。
いえば、これが最初。
なんでもできると思っていた自称、自信家が、はじめて己を知った。目を向けなかった己の非力さに、はじめて向き合った。すべての人が、先生になる。

新たな章に向かって、第四章が始まる。

「たしかに、それまでにも理念やビジョンはあったんです。あったけど、あるだけ/笑。魂がこもってなかったし、私も思いをアウトプットしてこなかった。ただ、7号店の失敗から、もう一度、すべてを再構築していかなければならなくなった時、私は、そこからスタートしました。つまり、理念とビジョンを、かべにかけた文字じゃなく、私のことばで、語ったんです」。
それだけで、すべてがかわったと星山氏はいう。実際、業績にも表れる。
「あれが、ちょうど33歳の時なので、10年前ですね。以来、私は『ひとづくり』をテーマにしてきました。3ヵ月に1度、行ってきた社長研修も、その一つ。今年からは、アルバイトさんにも対象を広げて研修を行っています。アルバイトさんは200人くらいいますからね、たいへんです。ただ、研修って言っても、そう難しいもんじゃない。みんなの自主性を引き出せればいいと思っています」。
最後に、将来の目標を伺うと、「50億円企業」を一つのゴールに設定しているという返答。むろん100年つづく企業づくりもテーマである。
しかし、と思う。
「50億円」や「100年」と、数字を挙げる星山氏だが、そのプロセスのなかには「ひとづくり」という要素が、濃厚にブレンドされていて、それが、実は、星山氏の狙いのようにも思う。
ともかく、京都の下町文化を未来へと導く、星山氏。
この、もとドラマー氏が叩く、心のドラム、
その響きは、その昔、ステージに立った時よりも、たぶん多くのひとを魅了している。
これが、もとドラマーが生み出す「食」の新世界でもある。

思い出のアルバム
 

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