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第672回 有限会社幸永 代表取締役社長 平山敬裕氏
update 18/12/18
有限会社幸永
平山敬裕氏
有限会社幸永 代表取締役社長 平山敬裕氏
生年月日 1973年6月21日
プロフィール 東京都新宿生まれ。早稲田大学卒。在学中、漫才師になるべく、吉本の門を叩く。26歳、頭を下げ、母が経営する焼肉店に就職。朝・晩問わず、懸命に勤務し、知識を広げ、いまも主力メニューである「極ホルモン」を開発。300万円だった月商を2年で1300万円まで押し上げる。現在、5店舗を出店。
主な業態 「幸永」
企業HP http://shinjyuku-horumon.com/

漫才師志望。

「大学3年と4年の時ですね。2年間、休学して吉本興業の『東京NSC』に入学。相方をみつけて。そう、漫才です」。
漫才師。
「その時の校長がシャレにならないくらい、めちゃめちゃな人で。ええ、怖いんです。でも、不思議ですね、その時の教えは、今も忘れてませんもんね/笑」。
今回、ご登場いただいた有限会社幸永の平山敬裕氏は、1973年、東京の新宿に生まれている。4人きょうだいの長男。他は全員、女性。
「生まれてから、そうですね、7歳まではぼっちゃんです。でも、逆に7歳から14歳までは極貧。小学1年の時に、夜逃げも経験しています」。
当時の新宿は、どんな街だったのだろう。
「母は、夜の仕事をしていました。父親は3年くらい行方不明です/笑」。
「結構、頭はいいほうでした。中学受験して、早稲田実業の中等部へ進学します。はい、高校、大学と早稲田です。我が家は、私が12歳の時から母親がキムチの店をはじめて、極貧を脱出します。おかげ様で、中学時代の3年間は、野球漬け毎日を送ることができました。高校でもつづけたかったんですが、何しろ、早稲田実業ですからね。明らかにレベルが違いすぎて、断念しました」。
野球を断念し、アメフトに転向する。
高校時代3年間は、楕円形のボールを追いかけて過ぎていった。

なんでもできる。天才の憂鬱。

「大学時代は部活なしです。私が20歳の時に母はキムチ店をリニューアルし、焼肉店をオープンします。15坪で、30席です。私も手伝います」。
最初に言っておくと、こちらがいまの本店にあたる。
「母は根っからの商売人でだったので、常々『サラリーマンにはなるな』とヘンなハッパをかけられました。それで、というわけではないんですが…」。
冒頭で書いたように、漫才師をめざす。
むろん、成功するのはひとにぎり。平山氏も、漫才師になるべくスタートしてから2年後に大学にもどっている。
「ただ、大学だけではなく簿記の学校にも通っていました。起業するにしても、とにかく数字が読めないといけないと思ったからです」。
もともと頭はいい。漫才師は断念する羽目になったが、それとて挫折のなかには入らない。「やれば、たいていのことはできる」。自信だけは何故かある。
ただ、何をしたいのかがわからない。天才の憂鬱である。
むろん、過剰な自信だとは薄々気づいていた。たしかに、いままでなんでもできたのも事実だが、そんなにうまくいく時ばかりではないことも知っている。ただ、頭をうったことがなかった。
「なんでもできると思っていて、4年間くらいいろんなことをやったんですが、ぜんぜんうまくいきませんでした。それで、26歳の時ですね。母親に頭を下げ、母が経営する店に入れてもらったんです」。
模索時代を第一とすれば、第二の人生がスタートする。
垂れた頭が、2つの時代を明確にわけている。

極ホルモンで、月商が1000万円アップする。

「当時、月商は300万円ないくらいでした。社長が親だからって甘えられない。母は、そういうのを許す人でもない。私の給料を払わないといけないから、営業時間も延長しました。私は、朝から晩まではたらき、メニューもすべて頭と腕に叩き込みます。仕入れにも行き、お肉屋さんとも親しくなります。『極ホルモン』を開発したのは、この頃です」。
「極ホルモン」は、脂身の甘味が旨く、「いままでのホルモンの常識を覆す」絶品だった。絶品のちからは、数字にもすぐに表れた。
「2年はかかったと思いますが、月商は300万円から1300万円まで跳ね上がります。ハイ、そうです。1000万円アップです」。
売り上げアップは嬉しいが、目が回る忙しさだった。オープンからクローズまで客が途絶えない。むろん、平日も、休日もおかまいなしに、客は来る。だから、平山氏のお休みは年10日だった。シャレにならない。
「そうですね。経営者だから許されるわけですが。ありえないですね。でも、大学の同期は、40代で年収1000万円を超えると思うんですね。だから負けたくない、と。ま、必死です/笑」。
勝ち負けが、原動力になるケースは少なくない。
ただ、経営者は突っ走るだけでは、務まらない。

牛肉を食べる人がいなくなる。

「絶好調です。本店の隣に別館を出店します。ハイ、拡張オープンです。正直にいうと『商売なんて、ちょろい、ちょろい』って。でも、そう思っても不思議じゃないほど、好調だったんです。ところが、新店をオープンして1週間くらいして、『BSE』が発生するんです」。
「BSE」について語る必要はないと思うが、あの頃は、街、いや日本中から牛肉が消滅した。牛肉を食べる人がいなくなったからだ。牛丼のチェーン店からステーキレストランまで。ハンを押したように、どこもかしこも同様にガラガラ。なかでも焼肉店は最大の被害者だった。
「客が来ない」。
平山氏も唖然としたそうだ。
「どこまで下がるんだ、っていうのが、いちばん怖いところでしたね。だって、下げ止まらずゼロになることだってあるわけでしょ」。
救いは、1/2程度で下げ止まったことだったらしい。
「リーマンショックの時も、たいへんでしたが、やっぱり、あの時がいちばんですね。ただ、天狗になっていた私自身にとっては、いい薬でした。飲食は、ぜんぜん、ちょろくなかったです/笑」。
幸い、3〜4ヵ月した頃から業績は回復に向かう。1年も経つと、BSEが発生する以前と同じ水準になっていた。
「まだ経営者は母ですから、正確な利益まではわかっていなかったですが、3店舗の時は、だいたい月商2500万円くらいまでになっていましたから。ハイ、私の給料も1000万円は超えていたんじゃないですか」。

母からのバトンを次に託す。

平山氏は、2018年現在、45歳だからまだまだ現役なのだが、現場からは少しずつ距離を取っているようにも映る。
「これからは、部下たちが自由にやればいいんです。お金持ちの連鎖っていうか。まず私がそうなって、次の人が、同じようにお金持ちになって。そういう連鎖を期待しています」。
きれいごとじゃない。理論理想でもない。
「おかげ様で、BSEやリーマンショックもありましたが、創業以来、倒産の危機はなかったですね。母からバトンを引き継ぎ、今は私が経営しているわけですから、更に、長くつづくように、次の人へとバトンを渡すのが私の仕事だと思っています」。
「私自身が、こんな風に謙虚になれたのは、どうしようもない4年間を過ごしたからです。漫才も、実は当時の校長が怖くて、さっさと辞め、できもしないのに何でもできる、と。そのくせ何をやっても、何も成し遂げられない。それでも思っていたんです。『ホンキをだせば、できるんだ』って。『まだ、ホンキじゃないだけ』なんだって」。
「母に頭を下げたでしょ。すべてが、ゼロになった日から、すべての人が私の先生になったんです」。
なんでもできるとうそぶいていた青年が、救いをもとめ、母に頭を下げる。それは、人生の「敗北」を意味していたわけではなかった。むしろ、すべての始まりだった。
ちなみに、この記事が掲載される頃にはすでにオープンしているはずだが、2018年9月25日には、羽田空港第一旅客ターミナル5Fレストランフロアに「羽田空港店」がグランドオープンする。
その時、歴史ある焼肉店「幸永」が、新たな顔を披露する。

思い出のアルバム
 

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