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第673回 株式会社SFO 代表取締役 平良翔太氏
update 18/12/25
株式会社SFO
平良翔太氏
株式会社SFO 代表取締役 平良翔太氏
生年月日 1983年6月30日
プロフィール 大阪府出身。高校野球の名門、愛工大名電から中央大学野球部へ。プロ野球選手を目標に進んだが、その道は挫折。代わりに起業をめざし、大学卒業後、ある会社に営業職で就職し、70万円の手取りをつかむ。5年で1000万円を貯蓄し、それを資金に、2011年、飲食店を開業。
主な業態 「庵樹」「楽庵」「うたげ」「御膳」
企業HP http://sfo-inc.jp/

どの球団に行こうか。

プロ野球選手。その未来をまったく疑っていなかった。中学生にあがる頃には、すでに「平良翔太」の名は、知れ渡っていた。高校は「愛工大名電」。野球を知らない人でも、聞いたことがある校名だろう。あのイチローの出身校でもある。 もちろん、少年時代から野球漬け。野球しかしなかったと笑う。
「プロには、正直、行けるもんやと思っていました。問題は、どの球団に入るか。親も、そんな私を信じてくれていました。だから、『勉強しろ』なんて一度も言われたことがないです」。
子どもの頃から、競争、競争だったと平良氏はいう。もちろん、追いつかれたこともないし、野球では負けたこともない。ただ、「愛工大名電」に入学すると、いっそう競争は激化する。
「愛工大名電は、きびしいことで知られていました。練習量一つにしても、ハンパない。でも、イチロー世代の私らにしたら、イチローだって、ここで頑張ったんやからと、それを励みにして頑張りました。ただ、グラウンドだけやないんです。上限関係もある。いろんなストレスがあって、16の時から胃薬が常備薬でした/笑」。
名門校は、名門校なりの苦労がある。チーム内でも戦わなくてはならないから。しかも、熾烈である。「たのしいと思ったことなんてない」と、高校時代を語るプロ野球選手も少なくない。平良氏も、おなじ。それでも、多少の自信があったから、冒頭の言葉となる。

人生、初の挫折と、追いつづけたご褒美。

「ただ、プロ野球選手の話は、高校までなんです。愛工大名電を卒業した私は、中央大学の野球部に進みます。こちらも、名門です。ドラフト4位の指名をけってきた選手もいました。私だって、負けないつもりだったのですが、正直、すぐにちからの違いを悟りました」。
「レベルが違いすぎた」と平良氏は、笑う。人生、初の挫折。
「小学校から、バカになって送ってきた野球漬けの日々。結局、それは何だったんだ? て話ですが、残ったものは、大きかったと、私はいまも、そう思っているんです。何事にも全力を尽くす。これが、からだに刷り込まれたからです。胃薬飲んでもやりつづけた、これが、唯一のご褒美かもしれませんね/笑」。

めざすは、独立。

平良氏は、1983年、大阪で生まれる。父親は、内装業を営み、母親は、郵便局にお勤だったそう。一人っ子ということもあって、愛情をたっぷりに育てられた。お金にも不自由したことがないと笑う。
ところで、おなじ1983年生まれには、どんな選手がいるんだろう。交錯したことはないが、同じようにプロ野球選手になると誓った少年たちだ。調べてみると、ソフトバンクの松田選手、西武の中村選手、楽天の今江選手と、錚々たる選手がいた。
「ともかく、レベルの違いを知って、プロへの思いは断つんですが、じゃぁ、何をするかですよね」と思い出したように笑う。
「勉強も何一つしていないでしょ。それでいて、頭のなかでは、プロ野球選手の年収を勘定してきたわけです。もっとも、もう競争に疲れたから公務員でもいいや、なんて思ったこともあったんですが、最終的には、億単位のお金をめざし、起業を決意します」。
大金の勘定は、プロ野球選手だけの話じゃない。
ちなみに、大学時代、平良氏は飲食店でアルバイトをしている。その時から、人件費などを計算していたそうだ。「そんなの、ほかのアルバイトはしていなかったんですが、バイトだって全力を尽くのが、高校野球児です。だから、私らにすれば、それで、ふつうなんです」。
なるほど、一流の思考は、人とは違う。ともかく、そういうふうにして、大学生活を卒業した平良氏は、起業するために、給料のいい光回線の会社に就職する。手取りが70万円だったというから、成績優秀だったのだろう。もっとも、生活は質素。仲間6人でルームシェアするなど、節約生活を送っている。
「夜な夜な、シェアしているともだちたちと語り合うんです。なんだって、できると思う年頃でしょ。私自身は野球で挫折をあじわっているんで、現実は知っているわけですが、ああでもない、こうでもない、という日々は楽しかったです」。
70万円の手取りでも、「おにぎり」をつくって、会社に向かう。浮かれたことは一度もない。5年間で1000万円を貯蓄する。「独立」が観えてくる。

1人じゃない。チームプレー。

「2011年ですね。私が27歳の時です。大阪のなんばで居酒屋をオープンします。もう、お話したように起業は頭にあり、野心もあったわけです。ただ、飲食店をはじめたのは、かなり単純で、学生時代、飲食店でアルバイトをしていたから飲食店でいいやみたいな/笑」。
軍資金は、1000万円。
勝負にでたのはいいが、じつは、2年くらいは「しんどい日々がつづいた」そう。資金繰りもたいへんだった。売り上げはもちろんだが、とくに辛かったのは人に裏切られたことだ。
「レジのお金を盗まれたり、です。あれには、参りましたね。信じられる人もおらず、『孤独』を初めて体験します。いままではなんだかんだって、人がいましたから」。
とはいえ、いったんはじめたお店。そうそう、やめるわけにもいかない。相談する人はいなかったが、人に裏切られたことで、人をみる目はできた。ただ、できることは、もがくしかなかった。
「結局、社長の私が頑張らないといけないわけですね。人に裏切られもしますが、私が、そういう人間だったからです。当時は、何事も金勘定です。客単価がこれくらいで、これだけ回転すれば、利益は…、なんて電卓ばかり叩いていたんです」。
スタッフに対してもおなじように接していたのかもしれない。いろんな本を読んだ。経営者の話にも積極的に耳を傾けた。答えは、「期待以上の価値の提供すること」だった。
「当初、うまく行けへんかった頃は、損得勘定ばっかりで、お客さんのことも、スタッフのことも、数字でしかみてへんかったんです」。
とにかく、「ケチだ」と平良氏は笑う。いまでも、そうらしい。当初は、まかないも残り物だったそうだ。だが、当然、会社の待遇などを含め、いまは違う。ケチの意味も異なっている。労働環境も、ここ数年で驚くほど改善している。
「2011年に創業して、7年。現在、7店舗です。おかげさまで、いずれのお店も好調です。スタッフも育ってきました。私の宝物ですね」。
もちろん、もう金勘定には縛られない。これといった目標値はないが、「行けるところまで行く」と平良氏はいう。店づくりの原点は、いまからもかわらない。
「また来たいと思ってもらえる店づくり」。それを、みんなで追いかける。これが、プロ野球選手になることを追いかけた、元野球少年が描く、もう一つのチームプレーだ。
このチームのなかから、億単位の選手を生みだす。そんな目標もどこかにあるかもしれない。

思い出のアルバム
 

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