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第677回 フクモチック有限会社 代表取締役社長 茂木貴彦氏
update 19/01/22
株式会社キングファクトリーグループ
渡部 崇氏
フクモチック有限会社 代表取締役社長 茂木貴彦氏
生年月日 1974年7月18日
プロフィール 群馬県藤岡市出身。帝京大学卒後、創作料理店で修業。イギリス、オックスフォードで、日本料理のシェフとして勤務するなど、海外にも身を置く。帰国後、すかいらーくに就職。マネージメントを学び、28歳で独立。共同経営でスタートするが、3ヵ月後、すべてを買い取りオーナーに。米生麺でつくる「フォー」が旨いとマスコミで紹介される。現在では、ベトナム料理のオピニオンリーダーの一人である。
主な業態 「チョップスティックス」「ビンミン」「ビアホイチョップ」「バインミーベーカリー」
企業HP http://namamen.com/group/

幼少期に培われた、商売への熱意。

1974年、群馬県藤岡市に生まれる。団塊ジュニアと呼ばれる、競争が激しい世代。茂木家は商売人一族で、曾祖父と祖父が団子屋、父は建築関係の商売をしていた。その為、茂木氏は物心つく頃から、商売をやることを考え、家業を継ぐつもりだった。
「自分が幼い頃、家はとても貧しかったです。生まれた家は、商店街の中の借り家でした。隣の呉服屋が大家でしたが、雨が降ると雨漏りがひどく、家じゅうに鍋や桶、ごみ箱などを置いて、雨を受けていたのを覚えています。曾祖父が遊び人で、お金を使い切ったと聞いています。祖父は病弱で50代で亡くなり、父は若い頃は苦労していたのだと思います」。
それなのに、母親が教育熱心だったこともあり、3歳の頃から、様々な習い事は始まった。音楽教室やお絵かき教室、習字に英語、学習塾など、様々な塾へ通った。
「母親からは『将来は大学へ行って、公務員になってね』と、いつも言われていました。しかし、どこかいい加減でいながらも成功していく父親を見ていて、『自分ならもっと上手に商売ができるのではないか』と思うようになり、商売への熱はさらに大きくなっていきました」。
小学校1年から始めた剣道では、県大会だけではなく、全国大会にも出場している。当時の剣道の世界は、上下関係がとても厳しく、過酷なイジメやシゴキを経験。「こんなにつらいことは、この先の人生では2度とないだろうな」という思いを、合宿などでは経験していたという。
剣道を続けながら、高校生活を経て、その後、帝京大学へ入学と同時に上京する。

アメリカの空の下で、世界を意識する。

東京で一人暮らしを始めると、今までの「受験勉強・学習塾・剣道・教育熱心な親」の束縛からの解放で、極端に遊ぶようになったという。
「母親はあいかわらず公務員や一般企業への就職を望んでいましたが、私の気持ちは家業を継ぐため、4年間だけ東京にいるつもりでした。サーフィン、スノーボード、パーティー、サークル活動、車など、アルバイトと遊びに精を出し、学校へは単位を取る為だけに必要最低限通っていました。今思えば、あの時にもっと経営を勉強していれば・・・と思いますね(笑)。経営学部だったのに、まったく勉強してなくて、卒業して経営者になってから経営本買って勉強してましたので。私立の大学なので、学費も高かったし、親が全額負担してくれたのに、親不孝だったなと思います」。
家業を継ぐための研修先として、埼玉県のサッシ問屋への就職を大学3年の時に決めた。その為、まともな就職活動もせず、のんきに大学生活を送っていたという。
しかし、大学4年の夏休みに行った初めての海外旅行が、彼の将来を全く別のものにするターニングポイントとなる。
カリフォルニアの州都、サクラメントの大学へ通っている友人宅に、3週間ホームステイをした。この時にカルチャーショックを受け、「世界」を感じることになる。
「このまま家業を継ぐために、群馬県に帰ることでいいのか、疑問に思いました。人生がそこで終わってしまうような気がして。世の中には、もっと大きな世界があると気づきました」。
子供の頃から、家業を継ぐことしか考えてなかったので、この時からタイムリミットとなる卒業まで、悩み続け、「あいつはおかしくなってしまった」と友人に心配されるくらいだったという。
その後、内定が決まっていたサッシ問屋へ断りを入れ、親に「自分のやりたいことができた。東京に残る」と伝えた。
そうして、アルバイトすらしたことがなかった「飲食業」の世界へ入ることとなる。
様々な店の中から調布にある創作和食の店を選び、門を叩く。海外で勝負するなら、「和食」だと考えたからだ。

下積みから、オックスフォードへ。

「母親からは、飲食業に入ることは、とても反対されました。飲食業をやらせる為に、大学に行かせたわけではないと。様々な塾へ通わせてくれたものが、すべて無駄になると思ったのでしょうね」。
そんな反対の中、飲食業へ足を踏み入れたが、その厳しさに最初はとても苦労することになる。
「大学時代、たくさんのバイトをしていたのに、飲食業はやったことがなかったのです。やっておけばよかった。笑。まったくのド素人でしたし、センスもなかったのですかね。試用期間3か月で、社員にしてもらえませんでした。そのまま試用期間を3か月継続って感じです。でも、やる気だけは誰にも負けなかったので、毎日料理本を読み、勉強していました。それを実践で試したいから、賄い係をやらせてくれと訴え、毎日賄いを作っていました。しかし、その賄い作りが遅くて、何時間もかけるので、ますます怒られていましたね」。
調布のビジネスホテルに併設する創作和食居酒屋だったが、70席ほどの店で、魚の捌き方から、焼き物まで、すべての調理をやらせてもらうことができたという。およそ2年間、下積みの修業はつづく。
就職と同時に、英会話教室にも通いはじめ、英語の勉強も続ける。
給料が安かったので、料理本を買うお金も満足になく、出勤前に毎日、図書館で料理本を読んで勉強をしていたという。
「2年が経過したころ頃ですね。友人から、イギリスで飲食店経営をしている香港人オーナーが「日本人のシェフを探している」という話がきました。それで、チャンスだと決断し、すぐに履歴書を英文で書いて送り、採用が決まりました」。
ロンドンから車で2時間ほどの距離にある学生の街、オックスフォードの中心にある、200席ほどの「モンゴリアンバーベキュー」の店がその香港人オーナーの店で、その地下に日本食レストランを作ったという。
「30席くらいの小さな店を作りました。やったことないのに寿司を握ったり、ラーメンも作りました。ラーメンのスープの作り方は、そのオーナーから教わりました。マグロが欲しいと伝えたら、まるまる1匹来たりして、15pくらいのアジ用の出刃包丁で、150pくらいあるマグロをさばきましたね」。

英国での経験と、日本での再起。

「イギリスでの経験は、様々な勉強になりました。子供の頃から商売をやりたいと考え、海外にまで来ましたが、実際に海外で商売をやろうとしても、言葉の壁が難しい。日本でやるのでさえ、法律や税務等、法的なことは、とても難しいですけど、それが英語だと、ますます難しいです。海外では日本人であることが武器になると思いましたが、商売ってものは、それだけではないと思い知りました」。
そのあと、茂木氏は、いったん群馬の実家にもどり、1年間ほど、浪人生活を送る。ゴルフ場のレストランや結婚式のホールで働きながら、「これからどうやって生きるか」について、悩んでいた。「飲食を辞めようかな」とも考えたという。
しかし、「どうせなら、飲食業で一番大きな会社に就職してみよう」と考え、26歳ですかいらーくに入社する。和食部門である藍屋に所属し、マネージメントを学ぶことになる。
28歳の時、インターネットで「海南チキンライスの店をやりたい」という人と出会い、共同でアジア食堂を開業。
この時に、イギリスでの経験が大きく役立ったという。
「イギリスにいる頃にレストランで使っていた米は、カリフォルニア産の、日本品種です。日本産の日本米は、世界の中では最高級米です。ベトナムでさえ、一番高い米は日本米です。そんな美味しい米がある国なのに、日本には米麺がない。これだけ麺好きな日本なのに、日本米の麺文化はないのです」。
「日本米で米麺を作れば、世界で一番おいしい米麺ができるに違いない」
そういう思いで、日本初の生麺フォーの開発に取り組み、その商品化を行った。

厳しい現実から、発展へ。

開業したはいいが、場所は目立たない路地裏で、人通りはない。客はまったく来なく、来るのは友人のみ。
耐えられなくなり、共同経営者は、3ヵ月で辞めるといいだした。そこで茂木氏はすべて買い取って、一人で営業を続けることになる。アジア食堂からベトナム食堂へと専門店化をした。
「収入はぎりぎりでしたが、なんとか一人が生活することはできました」。
1年ほど、鳴かず飛ばずの状態で、のらりくらりと一人で営業していたが、ある時にたまたまテレビのディレクターが入ってきて、「生麺フォー?この店面白いね」ということで、メディアの注目を受けることになる。
店は徐々に有名になり、客数は増え、支店を増やしていき、今ではベトナム料理店を5店と、ラーメン店を2店経営するようになる。

拡大志向ではない、商売のあり方。

現在、茂木氏は、日本初 生米麺フォーが楽しめる「チョップスティックス」をはじめ、ベトナム ハノイの焼き鳥の名店「BINH MINH」の東京支店「ビンミン」、ベトナム式の製パン方法による焼きたてパンのサンドイッチ専門店「EBISU BANHMI BAKERY」や、鶏塩専門のラーメン店「鶏そば そると」などを経営している。
グルメサイトを観ればわかるが、茂木氏が経営する店は、いずれも高得点を叩き出している。
「私は、ベトナム料理の中でも人と違うことをやることで、新しい市場を作ってきました。それはこれからも変わらないとは思います。新しくてわくわくするような店を作っていきたいです。しかし、これからの日本において、飲食業にかぎらず、あらゆる業界が人材不足に陥っています。今までのように拡大志向っていうのは、もう時代遅れな考えかもしれません。拡大すればするほど、人材不足によって現場環境は悪くなるし、人件費高騰や、採用コストも大きくなるからです。
外国人に頼る時代に突入すると言えますが、そこまでして飲食業が拡大することに、社会的な意義を感じません。もう、飲食店の店数は、満ち足りていると思います。地方や海外にはまだ市場はあるのかもしれませんが、社員の幸せのために、どれくらいの規模感が一番いいのか、それをいつも考えています。
10店舗くらいがいいのではと思っています。会社が大きくなることで、社員がエリアマネージャーや本部職をしたり、地方へ単身赴任したりなど、出世し報酬が大きくなるのが今までのやり方でしたが、それによって社員が大きな責任と数字的なプレッシャーを負って、ストレスを抱え、休みがない生活をすることも時代遅れに感じます。これからは、利益の拡大より、社員への還元に重きを置き、労働環境の改善などに取り組むことが、永続的な会社の発展になるように感じています」。

思い出のアルバム
 
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