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第683回 味の民芸フードサービス株式会社 代表取締役 大西尚真氏
update 19/02/19
味の民芸フードサービス株式会社
大西尚真氏
味の民芸フードサービス株式会社 代表取締役 大西尚真氏
生年月日 1962年12月19日
プロフィール 岐阜県に生まれる。名古屋にある専門学校に入学した際、サガミチェーンで住み込みのバイトをはじめる。バイトながら創業者にも声をかけられ、期待もされた。そのまま、サガミチェーンに就職し、店長、マネージャーをはじめ、運営部長、営業部長、子会社社長を経て、現職である、味の民芸フードサービス株式会社の社長に就任。低迷していた同社の業績をV字回復する。
主な業態 「味の民芸」
企業HP http://www.ajino-mingei.co.jp/

野球と新聞配達の二刀流。

八幡町というより、徹夜踊りと城下町で有名な「郡上八幡」といったほうが、通りがいいだろう。岐阜県にある昔ながらの町である。今回、ご登場いただいた味の民芸フードサービス株式会社、代表取締役の大西氏は1962年、この郡上八幡に生まれている。
「長男だから両親は当然、期待します。でも、ぜんぜん勉強しない、期待外れの少年でした/笑」と大西氏。
「少年時代、自慢できるものっていったら。そうですね、小学4年生から夕刊を配りはじめて、高校3年まで9年間もつづけたことかな。これは、数少ない自慢の一つです」。
小学生から野球もはじめている。こちらも高校3年までつづけているから、野球と新聞配達の二刀流だ。
「お金が欲しいからじゃないです。先輩を真似て、一度、興味本位で試してみたら、案外、しんどくなくって。そもそも、一度始めれば、なかなか辞められない性格なんです」。
高校3年まで、ほぼ休んだ記憶はない。
だから、家族旅行の思い出もないそうだ。
「中学から、朝刊に替わります。部活があって、夕方は無理になったからです」。
中学進学。「辞める絶好のチャンスじゃないか」と、こちらはつい、そう思ってしまったが、そうじゃなかった。
朝、新聞を配る。それから、朝練。高校になれば、夜まで練習はつづいた。さすがに勉強の時間も、気力もない。「そうですね。ま、時間があっても勉強はしなかったと思いますが…/笑」。
進学するつもりもなかったそう。ただ、「就職もヤだな」と思っていたらしい。
「それで調理の専門学校に進みました。ちょうどいい選択かな、と。1年の執行猶予ですね」。

先生から告げられた。「住み込み付きの、いいバイトがある」。

「こうして振り返ると、ぜんぜん努力してないですね。たしかに、新聞配達はしましたけど、特別、苦にならなかっただけの話。部活も、お世辞にも一生懸命だったとは言えない。結局、調理の専門学校に決めたのも就職するのがイヤだっただけだし…」。
ご両親は、しきりに「公務員になれ」と勧められたそうだ。なるつもりはない。「そもそも、勉強もできないのに、なれるわけがないでしょ」と大西氏は笑う。ともかく、そういう経緯で、大西氏は専門学校に進んだ。
校舎は、名古屋にあった。八幡から通うには遠すぎる。
「それで、専門学校の先生に相談したら、住み込みのバイトがあるっていうんですね。いいでしょ。私にピッタリだ。それで、先生にお願いして。ええ、それがサガミとの出合いでした」。
住み込みのアルバイト。当然、学校とバイトの掛け持ち。「当時、私みたいな学生が10人くらいいたでしょうか」。
大西氏は「人生がかわったのは、サガミのおかげ」という。ボンクラだった人間に、一本の筋が通る、というイメージなんだそう。「ただね。そう思うのは、もう少しあとの話で、最初は、住むところがあったからだし、女の子が多いからいいやくらいに思っていたんです」とのこと。
八幡の田舎者にとって、名古屋は大都会だった。18歳の少年にとっては、それだけで胸がふくらんだ。

「ぼくはお金で動く男ではないですよ」。アルバイター、創業者に啖呵を切る。

バイトでは、一つだけ得意なことがあった。「料理のセットが、いちばん早かったんです。それで、重宝してもらって。バイトなんですが、オープニングには決まって呼ばれました。オープンは忙しいでしょ。だからね。ありがたかったのは、オープニングには創業者もいらっしゃるから、何かと声をかけていただいたことですね」。
一度、創業者から「学費は、ぜんぶだしてやる。だから、正社員になれ」と誘われたそうだ。「でも、あの頃から、生意気な奴でね。ぼくはお金で動く男ではないですよって、偉そうにね」。
当時、サガミチェーンは、出店ラッシュを開始するタイミングだったそう。新卒採用も積極的に行い、大西氏も結局、専門学校卒と同時に入社するのだが、その時は70人くらいの同期がいたという。「最初は、店長に歩き方が悪いなんて言われたもんです。でも、新卒で入社する時には、バイトですが、もう1年やっているから慣れたもんです。創業者にも知ってもらっていましたしね」。
最初から、頭一つ抜けていたのではないだろうか。トントン拍子で出世する。

あこがれは、やっぱり店長。

「当時店長はあこがれ、花形でしたね。ただ、サガミの店って、だいたい年商2億円くらいの大型店なんです。そう、簡単に店長にはなれません。だいたい6年くらいが、平均じゃないでしょうか」。そのなかで、大西氏は3年目で1号店本店と言われる店の店長になっている。
「評価して頂いたと思います。もちろん、当時は出店に次ぐ、出店。私だけではなく、みんなの昇格も早かった時代ですから」。
店長からマネージャーになり、平成11年には運営部長になっている。
「業績のピークは、だいたい2005年くらいじゃないですか。無謀な出店があだとなって、だんだんクオリティが下がっていきました。私は、のちに営業部長にもなるので、関西のお店も観に行くんですが、賃料が高く、立地も良くなくても、無理やり出店していましたから」。
サガミチェーンの話を整理するとこうなる。
1980年代に入り、チェーン化を加速。1991年には、名古屋証券取引所市場第二部に株式を上場。破竹のいきおいだったが、2005年以降、無理な出店も影響し、業績が陰り始める。リーマン・ショックで店舗は激減。特に、出店してまだ歴史の浅い関西で、多数の店をクローズする羽目になった。
大西氏が、創業者に「お金で動かない」と啖呵を切ってから、25年ちかく経った頃の話である。

「あの店に行って、勉強してこい」。お客様が吠える。

「名古屋は、多少、味が濃いんです」と大西氏。こちらは、サガミが東京に進出した頃の話。「ぜんぜん流行んなくて。関東の人の口に合わなかったんですね。ある店長に聞いたんですが、お客様から『あの店に行って、勉強してこい』とまで言われたそうです。でも、縁ですね。そう、その時の、『あの店』が味の民芸だったんです」。
たしかに、奇遇な縁である。
「その会社の社長になるなんて思ってもいなかったです。サガミの、言えばライバルでしょ。中京のサガミ、東の味の民芸って言われていた時代もあるくらいですから」。
当時、大西は、子会社であるディー・ディー・エー(現サガミレストランツ株式会社)の社長に就いていた。「こちらも、立て直しですね。2年やってようやく利益もでるようになっていた頃です。そういう意味でも、私が味の民芸に行く選択肢はないと思っていたんです。実は、買収前に役員たちで覆面調査したんですが、私のレポートは、いちばん容赦ない内容でした」。「はっきり言えば、ボロクソに書いた」と苦笑いする。
「『勉強に行ってこい』って言われた当時は、やっぱり違ったんですよ。味も洗練されていたし、器のセンスもいい。でも、もう、この頃にはね。旨くも、なんともなかった。残念なことにね」。
業績も落ち込んでいた。赤字。むろん、サガミチェーンも苦戦を強いられた時期があった。なんとか再生することができたが、一つ方向を間違えば、味の民芸と同じようになっていたかもしれない。賞賛されていた「あの店」は、どこに行ってしまったのか。「最後の質問」と言って、「あの店」の現社長に、マイクを向けた。

それだけは、納得できない。

「2000年後半は、飲食にとって厳しい時代でした。サガミチェーンも、同様です。メニューも模索する。ブランドも立ち上げる。手探りです。そのうち、だんだん芯がなくなる。ただ、サガミチェーンが復活できたのは『味』という『芯』を失わなかったからだと思うんです」。
大西氏は、言下に、味の民芸の、迷走の原因を語っている。
「サガミは毎年数%ずつ落ちていきましたが、味の民芸は、ある3年間で、ぐっと業績を落とします。私たちが覆面調査した時は、もう、その原因がハッキリとしていました」。
「おいしくなかったのですね?」。しっかり、頷いたあと「サービスもよくなかった」という。「ハッキリといってしまえば、原価を落とし食事の価値を落としたのが、すべての原因です。あの、ブランドの味の民芸ですからね。価値を落としたものをお客様にお出しするのは反則だし、そりゃ、従業員のモチベーションも下がります」。
「社長就任後、立て直しのためには、その反対をされたんですね?」
「そういうことです」
役員会議があった。大西氏らが覆面調査をして、4ヵ月後の2月。
サガミチェーンによる味の民芸フードサービスの買収はすでに決まり、社長はそのままで、共同代表で大西氏の起用が決定していた。
「味の民芸さんは、あるメーカーさんから小麦を仕入れられていました。その原価を聞いて、びっくりしました。さすがだなと思う反面、同価格にすると、質が下がります。しかし、原価ありきでしょ。会議は『同じ価格で』と、そういう流れになっていきました」。
意思決定が行われようとしたその時、温厚な大西氏が、はじめてつよい口調で異を唱えた。
「それだけは、納得できない」。

お客様との約束。

「そう、納得できないってね。食い下がりましたよ。だって、私の頭にはいつも覆面調査の結果があった。味の民芸から、あのおいしい『手延べうどん』がなくっちゃ復活も、再生もできるわけがない。何より、従業員が自信を取り戻せない。そう、思っていましたから。でもね。『うどんだけで、2000万円のコストアップになるんだぞ』って。でも、そんなので引き下がれない。だったら買わなきゃいいわけでしょ。買ったからには、責任を持たなきゃいけない。お客様にも、そして従業員にもね」。
創業から45年、恒例だった10月中旬のメニュー変更を一週間、延期する。「どうしても、自信がなかったんです。一週間だけ時間をもらって、すべてのメニューを一新しました。むろん、小麦粉は最高の品質です」。1つのメニュー変更が歴史を変えるんです。
実は、このメニュー変更で単価が100円上がっている。当初は2%程度、来客数が落ちると予想していたそうである。しかし、蓋を開ければ、お客様は好意的に受け入れてくれた。
「客単価だけではなく、来客数もアップしたんです」。
この数字が、味の民芸の、復活の狼煙だったかもしれない。
大西氏が社長に就任してからというもの、業績は右肩上がり。今ではサガミチェーンのグループをひっぱる存在になっている。
復活の特効薬を一つ挙げるとすれば、原価を落とさず、むしろ上げると言い切った、社長の一言だろう。飲食店、とくに、味の民芸にとって「おいしい」は、お客様との約束だからである。
約束を破ってはいけない。
大西氏は、少年時代から、そのことを知っていた。だから、新聞を抱えて走りつづけた。雨の日も、雪の日も。
今もまた、おなじかもしれない。

思い出のアルバム
思い出のアルバム1 思い出のアルバム2 思い出のアルバム3
郡上高等学校野球部時代
(後列右手から3番目)
家族と。長男が生まれて
病院から戻った時
「うどん天下一」に参戦。
(右手 赤いねじり鉢巻き)
思い出のアルバム4 思い出のアルバム5

タイバンコクの
「サガミセントラルワールド店舗」
味の民芸社長就任時に
民芸本社で本社の仲間達と
 

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