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第684回 株式会社志 代表取締役 保志智洋氏
update 19/02/19
株式会社志
保志智洋氏
株式会社志 代表取締役 保志智洋氏
生年月日 1979年5月26日
プロフィール 神奈川県横浜生まれの相模原育ち。大学卒業後、ベンチャースピリッツ溢れる人材サービス企業でビジネス経験を積み、23歳の時に実兄とともに飲食店を開業し起業。2009年には別法人で独立し株式会社志を設立。2号店目では経験のないカフェ業態にチャレンジし、2018年現在はカフェ、ダイニング、スイーツショップ7店舗を展開している。
主な業態 「Charcoal Grill KATSUO」「OSTERIA 3903」「CAFE KATSUO」「ZERO ONE CAFE」他
企業HP https://www.kokorozashicompany.com/

父の経営問答。

今回ご登場いただいた株式会社志の代表取締役、保志智洋氏が生まれたのは1979年。
父親は薬局を数十店舗も経営されていたそうだ。兄弟は2人で保志氏は次男。
「帝王学ではないのですが、父は小さい頃から何かあると経営問答みたいな話をしてくれました。『いまのうちの会社は…』、なんて問題をだし、『お兄ちゃんならどうする? 智洋ならどうする?』って」。
問題をだすだけではなく、珍解答にも名解答にも「いいね」と言ってくれたそう。
なかには実際に採用された解決策もあるそうだ。
父親とのこのやりとりは兄弟2人にとってひそかな楽しみだった。
たしかに父親にすれば、戯れだったかもしれないが、子どもたちにとっては一つ一つの問答が財産になったのではないだろうか。経営者という立場から“ものごと”を観る思考が育ったように思うからだ。
「父の背中に憧れ、幼少期にはすでに「経営者になりたい」という夢を持ちました。だから父は、私に「夢を与えてくれた人」なんです」と保志氏。
幼少期は?
「とにかく、小学生の頃から仕切るのが好きな性格でしたね」。子どもの頃の様子を伺うとそんな答え。「生徒会長もしましたし、サッカー、野球、習字…と一通りのことは経験し、中学校では応援団長です。いろんなことで目立ってもいたんですが、だんだんと反抗期に入り、そこからはやや荒れた学生時代を過ごしました/笑」。
ただ、両親にとても愛があり、本当の意味で悪くはなり切れず、間違った方向に行かずに済んだそうだ。
その後、親元を離れて大学に進学。
「何をしたいかは分からかったのですが、とにかく起業しよう、しかも20代のうちに。そんな漠然ながら固い決意を持ち大学に進みました」。

恩師との出会い。

「ゼミの専攻はマーケティングでしたが、勉強の内容はなんでもありで多岐にわたりました」と保志氏。ときには、「哲学」や「経済」にも及んだそうである。
講義は週に2回。5時限目からスタートして、深夜までつづくことも少なくなかったそうである。「いろんな意味で、私に学ぶ楽しさを教えてくれたのは、このゼミでした」と保志氏。
勉強だけに限らず、食もそうですが、知らない事をもっともっと知りたいと思うようになったのも先生のおかげ。「当時は先生の付き人みたいに運転手もしていました」。
余談だが、実は今も保志氏の会社の顧問をお願いしているそうだ。
だから、大学卒業後の20年近く経った今でも青木教授は保志氏の先生である。

飲食業界への一歩。

「BtoB(法人向けサービス)の会社」であること。「ベンチャースピリッツ」があること。
これが大学卒業後の会社選びでのコンセプトだった。
「それで、ある人材系のベンチャーに就職します。ある程度きついだろうと想像はしていたのですが、社内に寝袋まで用意されていて想像をはるかに超える激務でした。まさに仕事、仕事の毎日です。この会社で多くのビジネス経験を積ませて頂き、夢に向かって卒業しました。起業の準備にはいる前にバックパッカーとして世界を旅しようかと思っていた時、兄から『いっしょに会社をやろう』という誘いを受けました」。
兄とは5歳離れている。長男・次男。保志家を継ぐ者たちである。保志家といえば、経営されていた薬局はどうなったんだろう。
「私が大学を卒業して、まもなく会社は倒産します。一族で経営していたものですから、助けもない。とても大変な状況でした。そういうのを見ていたので、兄から『いっしょにしよう』と言われた時もかなり悩みました。実は、現在は兄の会社をでて別の会社を経営していますが、これは父から頂いた教訓ですね。共倒れにならない策でもあります」。
ともかく、兄の誘いにうなずき保志氏の飲食時代がスタートする。これが23歳の時のこと。

師であり、盟友の兄。

社長である兄は、仕事モードになると強烈なリーダーシップとイニシアチブを発揮する人だった。兄弟だが、仕事上ではまったく関係なく完全なる「部下」だったそう。
1号店は、12坪×2フロアの小さなお店。
「お金がなかったものですから、2階の内装は素人ながら私が施工しました。兄から15万円だけ渡されて/笑…。だから、うちの2Fはホームセンターの材料をつかい、手作りで出来ていたんです」。
焼き鳥店。お金はかけれなかったが、店の人気は爆発した。その後、矢継ぎ早に2号店、3号店と出店を重ねる。
「私が独立したのは、7店舗目の時ですね。兄ももちろん応援してくれました。兄と共にした創業期の経験が、私の夢に大きな力を与えてくれました」。
2009年.30歳の誕生日を迎える数日前に念願の会社設立。
「夢に入れた目標の日付通りに滑り込んだって感じでした。」と保志氏は笑う。
20代で起業するという不退転の決意で夢を形にした。
もし20代の起業を固く思っていなかったら、保志氏はいまだに独立する日を模索していたかもしれない。人とはそういうものである。
「いま兄とは、同じ経営者として、グループ会社として共に支えあう関係です。私にとって兄は、私を育ててくれた師であり、支えあう盟友です」。

志はつねに高く。

「私の独立1号店は非常に悪立地でとても苦戦しましたが、試行錯誤の取り組みによって1年後には繁盛店に育ちます。ここで多くの事を学ぶとともに、改めてこの仕事の本質に触れ、飲食業がさらに好きになりました。2号店の大勝負は普通なら成功経験のある同業態で勝負すると思うのですが、私は無謀にも全く経験のないカフェにチャレンジします。いま思えば、何を思っていたのやら/笑。 つねに高い壁に挑戦したくなる気質は昔から今も変わりません」。
志はつねに高く。
慣れてはいなかったが、運があった。実力もあったのだろう。初挑戦のカフェは、大成功をおさめる。
「兄たちと長年やってきたアルコール業態以外で成功したのは、私自身の自信になりましたし、異なる業態を持つことは互いのリスクヘッジになるとも思いました」。
その後も、息をつく暇なく3号店、4号店と出店を続ける。ようやくひと息ついたのは、「4号店を出店し成功したあたり」だという。
「やっと基盤ができたっていうか」。
しかしながら父の例がある。「これで兄と私、どちらがコケたとしても、互いはもちろん、互いのスタッフを守る体制が整いました」。
無論これで終わりではない。むしろ、夢や挑戦する想いは加速度を増す。
保志氏は現在、カフェ業態のほか、洋食業態、スイーツ業態などの展開もしている。時には、オーストラリアに飛んで、そこから文化的なものまで日本にもってこようとしている。
その志は、いまも尚高い。

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