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第687回 株式会社新和 代表取締役 宇野辰雄氏
update 19/03/05
株式会社新和
宇野辰雄氏
株式会社新和 代表取締役 宇野辰雄氏
生年月日 1964年10月5日
プロフィール 東京都北区出身。帝京大学中退。20歳で父が経営するパッケージ会社「新和」に就職。キーとなる技術を習得し、製造から営業までのすべてを経験。34歳、父から事業を受け継ぎ、現職の社長に。飲食業はフランチャイズ店からスタートしたが、2010年、エイジング・ビーフに出会い、そちらに舵を切る。2018年、現在、10店舗出店。
主な業態 「エイジング・ビーフ」「グリルド エイジング・ビーフ」
企業HP http://www.shinwa3.co.jp/

父はギャンブラー、それとも起業家?

北海道富良野。母は、その富良野出身。おなじ北海道の北見出身の父と出会い結婚。やがて、娘と息子を生む。その息子が、今回ご登場いただいた株式会社新和の代表取締役、宇野 辰雄氏である。
「親父は絵に描いたようなギャンブラーで、もともとは北海道でパチンコ店を経営していたんですが、私が生まれる頃にはそちらをたたんで東京に。たぶん、逃げるようにして出てきたんだと思います。はっきりと聞いたことはないですが、たぶん、ギャンブルの問題が根っ子にあったんでしょう」。
好きこそものの上手なれというが、ギャンブルばかりはそうはいかない。「博才」があるといっても勝ちつづけるのは、難しい。もっとも「博才」があったかどうかはべつとして、会社を興す才覚はお持ちだったのだろう。東京に移ってからもまた、宇野氏の父は会社を興されている。それが、いまの「新和」のベースとなるパッケージ会社である。
「姉はいたんですが、10歳も離れていましたし、彼女はうちにあまりいなかったもんですから、小さな頃から一人っ子で、かぎっ子のような暮らしです」。
パッケージの工場は、自宅の下にあったから正確にはかぎっ子ではないが、料理も掃除もアイロンかけまでできる少年だったそうである。
父は、儲かるとそのお金をもって、ギャンブルに走った。なんでもやられたそうだが、競馬は特にお気に入りだったそうである。何かの本で読んだが、競馬に没頭しているギャンブラーは百万円を1本というそうだ。宇野氏の父もまた、1レースに1本、2本と賭けられたに違いない。
「そうですね。それでも私が小さい頃は、うちも少し裕福になったんでしょうね。夏休みとか、いろんなところに連れて行ってくれました。私は私で、べつに父が大好きだったわけではないんですが、小学生の頃から家業を継ぐと思っていました」。
まだ小さな会社だったが、宇野氏にとっては価値ある会社と映っていたのだろう。

「大学を辞めてくれ」。

中学ではバレーをやり、高校では居合道をやっている。居合道は、刀の居合である。担任からほぼ強制的にやらされた。空手か、居合かどちらかを選択しろと言われ、空手はどうみても、怖そうな先輩がいたので、消去法でもう一方を選択した。進学したのは、帝京高校。
「大学までストレートだったし、何よりうちに近かったから」というのが、こちらの選択理由である。
「大学を卒業したら2〜3年同業ではたらいて、そのあとうちに戻るというのが当時のプランです。ええ、会社を継ぐというのが、前提でした」。だから、大学に進学するといってもさしたる理由がなく、大学に入ってからも、特にこれといった勉強はしない。もっぱら、遊びに軸を置いた。進んだのはいうまでもなく、帝京大学である。
「ただ、私が20歳の時に、転機が訪れます。実は、うちの工場長が会社を辞めると言い出したんです」。なんでも、スキーから帰ったら、深刻な顔をしたご両親から「大学を辞めてくれ」と言われたそう。理由はその工場長の代わりとなるような人が誰一人いなかったから。つまり、ご両親は、息子の宇野氏に白羽の矢を立てられたわけだ。
「突然ですから、びっくりはしましたが、卒業できるかどうかも怪しかったもんですから、『ま、いいか』と。元々、継ぐつもりでいましたしね。ただ、工場長はいわば職人で彼しかできないことがあったんです。小さな頃から工場の手伝いはしていましたが、当然のこと、いきなり彼の代わりはできません」。
当時、パッケージの製造には、職人のわざが欠かせなかったようだ。
「最初の1ヵ月で、5キロは痩せました。だって、できないでしょ。でもやらなければ上達しない。でも、やればやったで材料が無駄になるばかりで/笑」。
ものになるまで半年から1年かかったそう。それでも、「それくらいでできるようになった人は、ほかにいないんじゃないですか」と胸をはる。
もっとも家業の命綱だったから、必死だったのだろう。当時、社員は3〜4人くらいだったそうである。彼らの生活も含め、2代目候補の宇野氏は、20代の若さで会社の命運をにぎったわけである。

「社長」と「従業員」はどちらも欠けてはいけないピースだった。

さて、結論を急ぐと「何か父と違うことを」と、やがて宇野氏が飲食業を興す。それを前提としたうえで、父と宇野氏の関係を読むと、話がわかりやすい。
宇野氏が工場長となり、職人のわざも手にしたことで、元の工場長がいた時のように、工場内はにぎわい、事業は順調に進むようになる。
やがて周りのみんなを大事にする二代目候補は、社員やパートさんたちにとっても大事な存在となる。やがて、今の専務や取締役も入社し、宇野氏を核とした体制が徐々に出来上がっていった。
しかし、父はトップに君臨したままだった。
「ぼくは、親父を経営者として尊敬していません」と宇野氏はきっぱりという。
「何かあればやくざのところにも乗り込んでいくような人ですが、親父はギャンブル、それだけが大事な人だったんです。息子のぼくが、会社で存在感を示せば示すほど、父は苦虫を潰します。ぼくに負けたくなかったというより、『会社という財布』を失いたくなかったんです。父は」。
「財布?」「そう財布です。当時の小企業ですから、会社のお金はオレのものっていう人は少なくなかったと思うんです。ただ、うちの親父はひどかった。勝手に会社の金を持ち出して、競馬です。工場長が辞めたのも実は、父のせいです。ぼく自身、何度辞めてやろうか、と思ったことか」。
そんななか、30にもなっていなかった頃、ある事件が起こる。
「親父がいきなり、『今回は賞与がないから』って言いだしたんです。賞与がない?耳を疑いました。業績はけっして悪くなかったもんですから。でも、理由はすぐにわかります。案の定、『なぜだ?』って問うと、『原資がない』と。つまり、社員に渡すための賞与の原資は、府中かどこかで馬券になり、紙屑になったんです。あの時は、『もうだめだ、この人の下では』って心底、そう思いました。でも、社員たちのことがありますから、ぼくが何とかしようと奔走するんですが、若造にそう簡単にお金はできません」。
母親にも頭を下げたそうだ。だが、耳を貸してもらえなかった。しかし、到底、納得できないことだった。
「だから、みんなを集めて『賞与がないらしい。でも、俺がなんとかするから』っていったんです。そうしたら、古参の、ぼくを小さい時から知っている社員が、『無理せんで、いいです。私たち今回は我慢します。我慢しますから、早く社長になってください』と」。
もし、今の宇野氏を知る人がいたら、この事件というか、古参の社員の一言が今の宇野氏をつくっていることがわかるだろう。
「この時、ぼくは初めて、社員たちとの関係を、ぼくなりに理解し、定義することができました。社員はけっして経営者の使用人ではないんだ、と」。
どちらもかけてはいけないピース。そのことを宇野氏は気づいた。今も、この思いはいささかもかわってはいない。
父が会社を財布としたこととの違いは、明白である。むろん、どちらがいいかの判断を第三者がすべきではないのだろうが。

めざすは、日本一給料が高い会社。

宇野氏は、こののち飲食業に進出し、フランチャイズで3業態8店舗を出店する。前述した通り、父親と異なる事業を興したかったし、それぞれの経営者にも惹かれたからだ。
なかには、交流が深まり、心を通わせた経営者もいる。しかし、「社員は使用人ではない」という宇野氏の観点からみれば、彼らもまた反面教師にすぎなかった。
「すべてではないですが、飲食業の経営者には『?』を感じます」。上場している会社でも、例外ではないそうだ。
「結局、業績が悪かったわけではないですが、8年前、成熟肉に出会い、自社のオリジナル業態に舵を切ります」。飲食業に乗り出した時、「ヤベぇ業界に足を突っ込んじまった」と思ったそう。「抜けられなくなった」ともいっている。実は、上海にも、イタリアンレストランを出店したことがある。オープンして、すぐに後悔。「向こうからSOSがきて、現金をもっていく予定だったんですが、1円ももたず今日で終わり」って。
社員の気持ちもおもんばかったが、経営者としてのこれもまた判断である。
こちらは、賢明な判断だ。そして、業態も変化する。今のエイジング・ビーフへの転換である。
「飲食くずれ」と宇野氏は表現する。飲食は多くの人を魅了するが、土壌に問題があるため、人としても成長しないというのだ。では、どうすればいいか。
たぶん、宇野氏の答えは信頼関係となる。宇野氏がいちばん大事にしていることだからである。
「一般企業と比較して、飲食業は参入壁も低い。一部の職人は別として、ある一定のサービスならアルバイトでもできる。オペレーションを簡素化して、だれでもすぐにできるような仕組みを導入する企業もある。そういう意味ではプロ化がむずかしい世界です。しかし、同時に、やるか、やらないか。受け身でなく、主体者となることで、舞台はまったく違ったものになるのではないでしょうか。そのためにも、経営者と社員との信頼関係が、大事になっているんです」。
宇野氏はある時、社員を前に、「経常利益の半分を賞与の原資にして、みんなに還元する」と宣言した。誰もがそんなことできるはずがない、と半信半疑だった。しかし、宇野氏はごく当然のことように、その約束を守った。
「100万、200万円を手にした社員もいました。それからです。彼らは今まで以上に自主的になってくれて、時間の使い方も工夫してくれているんです」と宇野氏は、嬉しげだ。
ちなみに「エイジング・ビーフ」という屋号は商標登録しており、「新和」にしか使えないそうだ。そういう先見の明もある。
そんな宇野氏がめざすのは、日本一給料が高い会社。社員を信頼するがゆえに、宇野氏は、そんな会社づくりの賭けに出た。父とはまったく異なった、大胆な賭けでもある。

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