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第694回 株式会社更科堀井 代表取締役 堀井良教氏
update 19/03/26
株式会社更科堀井
堀井良教氏
株式会社更科堀井 代表取締役 堀井良教氏
生年月日 1961年5月8日
プロフィール 慶応義塾大学卒。本家の再興をめざし、かつてのれん分けをした更科一門の店主達から教えをうけ、23歳、寛政元年(1789年)に初代が店を開いた麻布の地に「更科堀井」をオープン。以来、総本家として、「更科そば」の伝統を守りつづける。2019年には、クリエイト・レストランツと組み、ついにニューヨークに出店する。
主な業態 「更科堀井」
企業HP http://www.sarashina-horii.com/

1961年、麻布にて、生まれる。

創業は1789年だから、2019年で230年目となる。今回、インタビューに答えてくれたのは、更科そばの名店、9代目の社長、堀井良教氏だ。
堀井氏が麻布十番に生まれたのは1961年。当時は、まだ地下鉄も通っておらず、孤島のようだったそう。麻布だけではなく、当時は、都内でも交通が不便な街があったに違いない。明治時代には、田んぼや畑がいたるところにあったという話を伺ったこともある。今しか知らない者からすれば、イメージするしかない空想の世界だ。
その世界に、やがてアスファルトの道が延び、次々とコンクリートのくさびが打たれ、巨大なビル群が競うように天空をめざす。地下では、地下鉄のネットワークがアリの巣のように地下深く、広がる。2019年現在、今や取り残された街は、東京中さがしても、もうどこにもない。

堀井家と、麻布十番。

「東京は、たしかにずいぶんかわりましたね。私は、3歳で幡ヶ谷に引っ越します。私どもの創業の地である麻布にもどったのは、私が30歳。出店した『更科堀井』が好調になった頃です」。
麻布は、創業の地であり、堀井家にとっては、縁の深い土地である。
「そうですね。戦前、麻布には『麻布銀行』があったんですが、うちも、かなり出資していたようです。副頭取も堀井家からでています。7代目の時には店の敷地にお稲荷さんを祀っていたようです。話に聞くところによれば、猿好きの7代目が、そこに100頭の猿を飼っていたらしいです/笑」。
その昔、将軍にも献上され、大名たちも舌鼓を打った名店だ。銀行だって、猿の話だって、わからない話ではない。ただし、次の話にはおどろいた。
「じつは、その7代目の時に、一度、店をたたんでいるです」。
「えっ」と、言いたくなる。
「7代目、つまり、私の祖父が、かなり遊び人で。これも聞いた話ですが、麻布からタクシーを飛ばして熱海まで行くような人だったらしいです」。
店の経営も、あったもんではなかったのだろう。不況も重なり、昭和16年。長く、長くつづいた暖簾を下すことになる。麻布の町の歴史から「更科そば」の名前が姿を消した瞬間だ。
ちなみに、ウィキペディアには<麻布永坂町は古くから更科そばで有名であり、町内には更科そば本舗の布屋太兵衛がある>とある。この「布屋太兵衛」が当時の店名。<正岡子規が、永坂を詠んだ俳句がある>とも紹介されていた。
「蕎麦屋出て永坂上る寒さかな」が、それである。

堀井氏。

「私が、子どもの頃には、もう『永坂更科』はありました。こちらは戦後、うちの店と更科そばを惜しんだ投資家たちが出資してできた店です。祖父の代ですね」。
投資家たちの手によって「更科」の文字が、ふたたび麻布永坂町に現れる。「堀井家は、出資比率は少なかったものの祖父も、父も、こちらの会社の経営にも携わりました。創業家ということで、配慮されていたんだと思います。私自身は、そういうことも知らず、中・高・大と何不自由なく育ちます。後継者と言われたこともないし、私自身も、考えたことがなかったですね」。
中・高は早稲田大学付属。大学は慶応義塾大学。いうまでもなくエリートコースである。しかし、帝王学のためではなかったようだ。後継者と言われたこともなかったし、9代目になるとも思っていなかったのは、事実だろう。それだけ、創業家という意識が薄れていた証ではないだろうか。

やるか、やらないか。託された未来。

「中・高は水泳部、大学は棒術部です。大学は、文学部哲学科。本が好きだったんで、最初は大学院に進むつもりだったんですが、もう少し現実的な勉強をしたほうがいいと思って、アメリカでMBAを取得する計画だったんです。でも、そのタイミングで、父親から『更科堀井をやらないか』と言われて。ええ、突然です」。
突然だったが、二つ返事で「やります」と言ったそうだ。もう大学生。父が言わなくても、自身のルーツも、堀井家のルーツも知っている。「永坂更科」との関係も、多少は理解できるようになっていたはずだ。
「そうですね。私が『やる』といわなければ、父は、店をつくってなかったでしょうね。父の代だけで終わなら、再興する意味もないですから」。
父の思い、息子の思い。8代目と9代目の思いが交錯する。ただし、本家本元、「更科堀井」を後世に残すという思いは同じだった。
堀井氏、23歳。
もう孤島でもなんでもない麻布十番に、歴史ある名店、総本家「更科堀井」が帰ってくる。

「旨いそばをつくれ」。号令がかかった。

「親父は、8代目と言っても、向こうの会社では専務で、経理や人事をみていました。だから、オープンの時は、職人さん数人と私です。私は、大学を卒業してからオープンまで、戦前に、うちから独立した人の下で修業させていただきました。そして、オープンです」。
「でも、ぜんぜんだめだった」と堀井氏。
そりゃそうだろう。その昔ならいざ知らず、もはや都会である。「更科堀井」と言っても、「8代目」「9代目」と言っても、今までを知る人がいない。しかし、負けなかった。
「親父が言っていたのは、とにかく『旨いそばをつくれ』です。そして、私たち作り手は、昔の味を再現していきます。でも、ぜんぜん売れないから、だんだん職人さんも辞めていくんです。ただ一つ、西武球場に出した立ち食いそばが好調で、それでなんとかしのぎます」。
いっちゃあ悪いが、由緒あるそば屋が、立ち食いそばで生き延びる。どういう思いだったんだろう。
「とにかくできることで言えば、旨いそばをつくることです。それでしか、うちの存在意義を証明することはできません。私は休みごとに先輩のところに伺い、勉強させてもらいました。そんな日々が、6年間ほど、つづきます」。

再興。

更科堀井が、マスコミにも再三取り上げられるようになったのは、「手打ちを打ち出してから」と、堀井氏はいう。もちろん、当時29歳だった堀井氏が、決断したことだ。以来、売上も右肩上がりをつづける。翌年、すでに書いたが、堀井氏は、住まいも麻布に移す。
「その当時ですか。そうですね。年々、売上も上がる。経営する側にとっては、いちばん、楽しい時ですね。ええ、お客様で言えば、高倉健や勝新太郎なども、ふつうにいらしてくださっていました。そういう意味では、名店復活が、ちゃんと認知されたということでしょうか」。
堀井氏が言う通りだろう。
230年の時を経て、積み重ねられた総本家の味は、それを心から引き継ごうとする者にしかつくれない。
「旨いそばをつくれ」。8代目の号令が空白の数十年を埋めるように、時空を超え、ひびく。
8代目から9代目への代替わりもスムーズに進み、現在、「更科堀井」は、そば好きの聖地となり、ふたたびその名をとどろかせる。もっとも、「もりそば」一杯830円(2019年1月現在)、庶民でも手がとどく価格帯。そこが、いい。
「現在は、麻布十番と立川の伊勢丹、日本橋の高島屋に出店しています。そして、今年2019年の5月に、クリエイト・レストランツさんと共同でニューヨークにも出店します。楽しみですね」。
230年の年を経て、老舗のそばが、海を渡る。ニューヨークの住民たちは、どんな表情で、そのそばをそそるのだろうか。日本人の1人として、楽しみでならない。

思い出のアルバム
 
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