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第697回 株式会社日と々と 代表取締役 山本拓三氏
update 19/04/09
株式会社日と々と
山本拓三氏
株式会社日と々と 代表取締役 山本拓三氏
生年月日 1977年9月28日
プロフィール 大阪府堺市出身。大学卒業後、商社に就職し、経理部に配属される。経理マンからスタートし、3年後の転職先では、経理部門のトップに。社長をサポートしながら、様々なM&Aなども主導する。会社は株式上場も果たしたが、リーマン・ショックを受け、業績悪化。不動産事業を行う子会社をバイアウトし、のちに社長就任。いったん会社を手放すも、再度、買い取り、新会社としてスタート。それが、株式会社日と々と。
主な業態 「パンとエスプレッソと」「onka」「BiRd & rUbY」他
企業HP http://bread-espresso.jp/

1977年。堺市に生まれる。

山本氏は1977年9月、大阪府堺市に生まれる。両親がアパレルで働いていたため、服と靴は良いものを着ていたそうだ。
「私が住んでいた頃の堺は下町で、ちょっといい服を着ているだけで目立っちゃうわけです。そういうのがイヤだった。目立ちたがり屋の父親に抵抗があったのも、そういうことがあったからかもしれませんね。父親が独立したのは、私が小学生になる頃です。日本経済が、いい頃ですね。」。
山本氏は小学生からカラテをはじめ、中学までつづけ、中学ではバスケもするが、こちらは、すぐに幽霊部員。仲間と連れ立って遊ぶのが大好きだった。
両親が離婚していたのは、この頃。ただ、正式に「そうだと知った」のは高校に入ってからだ。
「父親は、私が中学の頃から、もううちにいなかった。音信不通でした。だから、その頃は、経済的にも、たいへんだったと思います。私も学費のために、高校1年からアルバイトです」。
肉体労働がメインだった。もっぱら、土方や引っ越し、魚市場でもはたらいた。
「その時が、たぶん、私の一つのターニングポイントです。肉体労働しながら、『もう、たくさんだ』と。でも、勉強もしてないですからね。このままじゃ、まっしぐらにそっちだって/笑」。
「じゃぁ、どうすればいいか?」。「少なくとも、大学は出ておかないといけないだろう」が、結論だった。「それで、高校3年になってからは、真面目に勉強をはじめます」。
もともとやればできるタイプ。
現役で、大学に進学。
「大学ですも、バイト三昧ですが、今回は、ちょっと小ぎれいなホテルで仕事をはじめました/笑」。

転職して、1年後に株式上場。

大学を卒業した山本氏は、商社に就職。「けっこうブラックな会社でした。ま、当時は、どこもそういうものだったのでしょうけど/笑」。
山本氏は、この商社に経理担当で入社している。これも、一つのターニングポイントだろう。経理という立場で、数字と経営を観ていくことになるからだ。
「社会人3年目になって、株式会社アイディユーというベンチャー企業に転職しました。まだ小さかったんですが、すでに、注目されていました。私は、この会社に経理の責任者として入社します」。
入社して1年で、東証マザーズに上場したそう。
「私が入社したのが、ちょうど上場準備の時です。タイミングがよかったんでしょうね。経理のトップでしたし、そう、何より、この時に、創業者である社長のちかくで仕事ができた、これが財産です」。
経理といっても、電卓を叩きつづけていたわけではない。買収やM&Aにもかかわった。社長が描く、成長戦略をサポートする。
「ホテルはゼロからですね/笑。当時、私たちがやっていたのは、インターネットと不動産です。不動産事業の下に、ホテルや、ゴルフ場、飲食店がぶら下がっています。この会社は、もう残念ながらないです。私の次の幕は、じつは、不動産事業を行っていた飲食事業部をバイアウトしてスタートするんです」。

バイアウト。社長、就任。ただし、解散が予定されている会社の。

サブプライムローンの問題が表面化するのは、2007年夏くらいだろうか。そして、翌年、リーマン・ショックが起こる。「そうですね。うちの業績も悪化します。縮小しなければいけないんですが、ただ、この時、不動産事業を行う事業部ではビッグなプロジェクトが進行していて投げ出せない状態だったんです」。
「ええ、それで、ファンドから出資を受け、その事業部を、私たちがバイアウトしてプロジェクトを遂行します。私は、バイアウトした会社で取締役管理役本部長に就任し、しばらくして社長に就任しました」。
ファンドとの間では、プロジェクトが終了すれば、解散することで話がついていたそう。だが、解散する前に、今度は山本氏が会社を買い取る。
「さっきもいいましたが、会社のなかには、飲食とか、そういうのもあるわけです。飲食だと東京に2店舗、大阪に2店舗だったかな。もちろん、飲食を含め残る事業は、不採算な事業ばかりです。でも、ね。解散って無責任だし…。それで、私が買い取らざるを得なかったわけです。1億円の借金を背負いました」。
山本氏は「やらざるを得なかった」と表現している。当時、山本氏は31歳。最初から、途方もない額でもある。
「リースとかも残っていましたし、最初は、残務処理だと思っていたんです。店舗を売却すれば、それなりに借金も減るだろうと。その先まで、計画していたわけではないんですが」。
ある意味、無謀で、リスキーな戦いだ。それを承知しながらも尚、逃げ出すわけにはいかなかった。それが真実だろう。「ま、どうにか、なるか」。

日と々と。

プロジェクト以外の事業はどうだったのだろう。
山本氏自身、「店舗は売却するつもりだった」というのだから、当然整理対象だった。しかし、どっこい生き残った。
「いまでは私のパートナーなんですが、1人のパン職人がいたんです。最初は、私が、『資本を出資して』みたいなことも話していたんですが、最終的にいっしょにやろうということになって」。
「ええ、それが、いまの取締役の櫻井です。ただ、一度、私たちも資本を受けて、私もいったんオーナーじゃなくなるんです。ただ、案外、巧く行かなくて。それで、私がもう一度、買い取って、新たにいまの会社を設立します。だから、ホームページにも表記していますが、うちの設立は、平成29年3月1日なんです」。
なるほど。それで12店舗も展開している理由がわかった。
しかし、いずれの店も、おしゃれだし、パンも旨そうだ。
各店を、グルメサイトで調べみたが、全店高得点。「旨そう」ではなく、「旨い」。これが、正解だった。
ちなみに、12店舗のなかで、直営は8店舗。積極的な出店はしないが、近々にも、京都、大阪で出店予定があるらしい。
「スタッフは、正社員が40名ちょい。アルバイトもそれくらい。アルバイトも合わせると70%が女性です。私からすれば、彼や彼女らの成長という観点から、舞台づくりのための出店はしていきます。海外とか、今回、お話をいただいた京都とか、そういうお話は面白いので、それは、それで受けていこうと思っていますが…」。
これから、どうなっていくんだろう。
ホームページには、<いいお店って、理屈じゃない>と書いてある。たしかに、お店を「好き」になる。その「好き」を科学的に分析することは、できないし、できたとしてもつまらない。
<「好き」をだいじに。日と々と>。
そういえば、社名がかわっている。日と々と。いろんな読みかたができるのだが、みなさんは、どう読むだろう。「ヒとヒと」「ヒトビト」。
いずれにしても、このゆるやかな響きが、いい。いばらない。気取らない。山本氏の性格まで映し出されているようだ。

思い出のアルバム
 

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