年代別社長インデックス
掲載時期別社長インデックス
オススメ求人サイト
リンク
第705回 株式会社ISE広島育ち 代表取締役 小林直哉氏
update 19/05/14
株式会社ISE広島育ち
小林直哉氏
株式会社ISE広島育ち 代表取締役 小林直哉氏
生年月日 1968年10月22日
プロフィール 広島市内出身、日本体育大学卒。広島本社の大手広告代理店に就職。19年勤務し、41歳の時、友人の父(現会長の井畝満夫氏)が経営する「元祖、広島流お好み焼き」の会社に転職。当時、専務だった友人とともに、事業拡大に取り組むが、友人は2年後に病死。1人残されたが、やがて、友人の父からも要請を受け、社長に就任する。
主な業態 「みっちゃん総本店」
企業HP http://okonomi.co.jp/

母が放ったもう一つのボール。

山なりのボールが返ってくる。キャッチボールの相手は、いつも母だった。
「小さい頃に両親が離婚して、私は、母に引き取られます。母は仕事をしていましたから、母方の祖母に育てられたようなものです。ええ、昔の人ですから、そりゃ、おっかなかった/笑」。
看護師だった母は、当時、企業に勤め、「衛生管理」という仕事をされていたそうだ。「仕事は忙しかったと思うんですが、時には、いっしょに遊んでくれました」。それが、冒頭の話。
「祖母もそうだし、母親も躾はきびしかったですね。とにかく、ひとに迷惑をかけるな、と」。一度、川に落ちたことがある。川に落ちたことより、「助けてくれたひとに、迷惑をかけた」と怒られた。
祖母も、母も、時に父親に代わって、愛する孫、息子を、叱り飛ばした。
「母からは、一芸ではだめと教えられました。だから、スポーツもいろいろやって。小学校では水泳です。ただ、やりたいと言って始めたものの、ともだちと遊ぶ時間がなくなって、辞めたくて仕方なくなってしまうんです。でも、母に言っても、途中では辞めさせてはくれません。結局、競技会で優勝して、ようやく辞めてもいい、と/笑」。
ひとに迷惑をかけない。ものごとは極める。この2つが、小林少年の指針になる。
これもまた、母が放った1つのボールである。

県、推薦で、日本体育大学へ。

「大学は日本体育大学です。広島県の県から推薦していただいて、進学させてもらいました。ハイ、水泳ではなく、ハンドボールの選手としてです」。
小林氏は中学から、バスケットボールを始める。バスケットボールでも頭角を現し、キャプテンも務めたが、高校ではハンドボールに転向。「いろいろなことを極める」という母の教育方針もあったが、じつは、高校のバスケットボール部がつよくなかったからだそうだ。
「それでつよいハンドボールに転向し、そのままハンドボールの選手として、大学に進みます」。
県が推薦するくらいだから、相当、巧かったはずである。実際、ハンドボールをする生徒たちの間で、小林の名は知れ渡っていた。「当時は、オリンピックも狙ったいた」と小林氏も言っている。それでも、進んだ日本体育大学のハンドボール部は当時、日本一。先輩は、小林氏からみても「バケモノばかりだった」らしい。
ただ、バケモンという意味では、きびしい規律が、もうひとつのバケモンを生みだしていた。「先輩」というバケモンである。寮生活。あまりのきびしさに、夜中に脱走する者も後を絶たなかったそうだ。
「先輩が『カラスは白』と言ったら、『白』っていう時代ですからね。推薦だったんで、ふつうお金はかからないんですが、授業料以外にもいろんな出費があって、母にもいろいろ苦労させました。おまけに3年の時に怪我をしてしまって」。
あと1年経てば、頂点だった。すべて、我が物顔で楽しめる。
「そうですね。でも、私は、あまり好きじゃなかった。だから、ここでも母に無理を言って、部を辞め、寮もでるんです」。
推薦で進学した場合、部を辞めるには、いろんな問題がある。幸い、県にも怪我が認められ、大学生活はつづけられたそう。その結果、オリンピックは断念することになったが、日本体育大学出身という「箔」はついた。実際、大手企業に就職できたのは、日本体育大学の肩書きがモノを言ったからだと小林氏は言っている。

「うちに来ないか」。友は、そういった。

小林氏が就職したのは、地元、広島の大手広告代理店。そこで、41歳まで19年勤務する。事業部長になり、年収は1000万円をオーバーするまでになった。
「転機が訪れるのは、39歳の時です。幼なじみから『うちの店のブランディングをして欲しい』と頼まれたのが、きっかけです」。
39歳。広告マンとして、脂がのっている頃だ。ただ、当時、いろんなことに直面していたのも事実。仕事でも、プライベートでも。そんな時、昔の友人がたずねてくる。
「彼がいう『うちの店』が『みっちゃん』なんです。ハイ、子どもの頃、遊びに行くと、決まってご馳走していただきました。だから、彼の父で、現会長のことも昔からよく知っていたんです。もっとも会長は、いまの広島流お好み焼きの生みの親ですから、広島県人ならだいたい知っています」。
ブランディングがきっかけで、仕事でも交流が生まれる。お互い心はハナから通じ合っている。やがて。友人は、小林氏に「うちに来ないか」と持ちかけた。
「1年くらいですか、断りつづけ、最後には、会長からも、『あいつを助けてやってくれ』、と。ええ、それが41歳の時です。私も、ちょうどゼロからもう一度スタートしたいと思っていた時でしたから、それで、了承します。でも、その時は、社長になるなんてもちろん思ってもいませんでした」。

友情のバトン。

小林氏が、友人の父とも、現会長ともいう井畝満夫氏が運営する「みっちゃん」は、広島流お好み焼きの元祖と言われている。すでに述べたが、独創的なアイデアで、いまのスタイルを生みだした井畝満夫氏の名も有名だ。広島県人なら、たいてい知っている名でもあるという。
「ともかく、そうやって41歳で、まったく畑違いの飲食業に入ります。入社して最初にしたのは、現場に出ることでした。もちろん、トイレ掃除もしています。彼は私をおもんばかって『いいよ』って言うんですが、私は、大学時代に慣れていたからでしょうね、若いアルバイトに怒られても気にならない。逆に、案外、楽しんでいました」。
「もっとも、私の主な仕事は、冷凍食品の販売のほうです。少しずつそちらに注力し、年間3万食だった出荷数を、1年で9万食までのばします。百貨店にも営業しましたし、ネットショッピングにも注力しました。広告代理店出身ですからね、得意分野です/笑」。
この冷凍食品事業は、すでに10万食をゆうに超える事業に育っているが、一方で、店舗も3店舗から8店舗に広がり、東京への進出も果たしている。
そごう広島店本館では、お好み焼きだけではなく、コース料理も楽しめるスタイリッシュな店を運営。
「いまの私のミッションは、広島のお好み焼きをスタンダードにすることですね。ハイ、いろんな展開も考えています。そごう広島店本館に出店した『雅』もその一つです。みなさんが想像するお好み焼き店をはるかに超えていると思いますよ」。
「この『雅』は、会長にとっても、私にとっても、特別な店なんです。だって『雅』は、私の友人、そう、私を誘ってくれた、もともと社長を継ぐべきだった、あいつの名前の一字なんですから」。
「ええ、私が、入社して2年経った時に、あいつを病気で亡くします。それで、私が、いま、あいつが座るはずだった席に収まっているわけです。あいつの代わりをしようと思って」。
小さな頃からだから、付き合いはもう40年以上になる。「なぜ、あいつは、オレを誘ったんだろう。そうですね。そこを、考えます」。
友がやりたかったこと。
広島流お好み焼きは、友情のバトンで、未来へ、つむがれていく。

思い出のアルバム
 
ご登録はこちら

この企業にご興味のある方は、下記フォームよりご登録下さい。
求人情報が出次第、お知らせします。

ご登録はこちら