株式会社ブーランジェリーエリックカイザージャポン 代表取締役社長 木村周一郎氏 | |
生年月日 | 1969年4月1日 |
プロフィール | 東京都中央区生まれ。慶應義塾大学卒。大手生命保険会社で5年勤務したあと、家業でもあるパンの業界に入る。アメリカやフランスでの修業を経て、2000年に株式会社ブーランジェリーエリックカイザージャポンを設立。2001年に「メゾンカイザー」1号店をオープンする。 |
主な業態 | 「メゾンカイザー」「&COFFEE MAISON KAYSER」「メゾンカイザーTable」他 |
企業HP | http://maisonkayser.co.jp/ |
木村屋總本店。大看板に描かれた「木村家」の三文字は、幕末の偉人、山岡鉄舟の筆によるものだそう。創業は明治2年。明治7年に創業者の木村安兵衛が「酒種あんぱん」を考案、発売。この時に、日本のパンの歴史がはじまったと言っていい。今回、ご登場いただいた木村氏は、この木村屋總本店の6代目当主のご子息である。
幼稚舎から大学まで、慶應義塾。俗にいうエリートコースだ。小さな頃から活発な少年で、小学校からラグビーをはじめ、学外ではリトルリーグに所属。野球、ラグビーだけではなく、水泳もやっていたそう。そればかりか、実は5歳からスキーもやっている。このスキーは、高校でもやり、新潟にあるスキーのレーシングチームに入っている。
「中学生は、野球部です。思い出という意味では、中学の時に担任から『夏期講習に参加しろ』と言われて、実際に、参加したことですかね。『早慶開成コース』って奴です。最初は、断トツのビリ/笑。でも、10日間の講習が終わる頃には上位3分の1には入っていました。だからどうなんだ、って言われると困るんですが、もともと担任に言われていたのは、講習に参加して『自分を知る』ことだったんです。そういう意味では、少しは己を知ることができたと思いますね」。
高校では、前述した通り、スキーのレーシングチームに入り、雪山を滑りつづける。「大学も、スキーですね。いや、もうスキー一色でした」。1年〜4年まで、監督の教え通り、スキー三昧。
実は、就職も、スキー部の先輩に誘われて、大手の生命保険会社に進んでいる。
生命保険会社では、法人営業を担当した。300名以上の従業員がいる大手企業が対象だ。「1年間、研修があって、残り4年が営業ですから、計5年勤務したことになりますね。仕事ですか? そうですね。なかいい成績は残せませんでしたが、楽しかったですよ。特に退職する前には、転勤も決まっていましたから、ひそかに楽しみにしていたんです」。
退職理由は一つだけ。実家から突然「パンの世界に入れ」という指示が下ったから。
「突然のことですし、楽しみにしていた転勤ももうすぐでしょ。それで、当時の部長と、親父を誘って3人でゴルフに行ったんです。それが、いけなかったというか。あるラウンドでラフに打ち込み、グリーンにもどってきたら、部長がいきなり、『そういうことで、お前、会社を辞めることになったから…』って。こっちにすれば、『そういうこと、って…。おい! 何か意見を言ってくれるはずじゃなかったのか!』ってなるわけですよ。もちろん、口にはできませんが/笑」。
それで、パンの世界へ?
「そうです。ただ、パンの世界へ、ってことではなくて大きなプロジェクトが動いていたんです」。
「当時、私は27歳でした。いうまでもなく、パンづくりは素人です。『素人に英才教育をしたら、どうなるだろう?』っていう、ある意味、無茶苦茶な試みを業界の重鎮たちが企画して、それで、私に白羽の矢が立ったんです。遺伝子という意味では、日本でも最高のパン職人のDNAを持っていますからね/笑」。
歴史も長い!
「そう、うちは、いうなら、日本のパンの歴史ですから」。
ともかく、「素人に英才教育をしたら、どうなるか」の、プロジェクトがスタートする。舞台は世界にも広がっていた。
「素人ですからね。まず、横浜のベーカリーでパン生地に慣れ、それからアメリカに渡り、カンザス州にある『米国立製パン研究所(AIB)』でパンづくりを基礎から勉強しました。学生時代、勉強なんかしたことがなかったんですが、ハイ、こちらでは猛勉強です。こちらで2年半滞在します。『米国立製パン研究所(AIB)』は、米食品医薬品局(FDA)唯一の研究機関で、パンづくりを理論的解析します。いっしょに学んでいるのは、理系の博士号を持っているような人たちでした」。
まったく、意味がわからない。ふつうなら、有名なベーカリーショップへ、入るはずだ。わざわざ小難しい、国立の製パン研究所とは? パン職人の修業、そのイメージからかけ離れている。
「もちろん、このあと、ニューヨークのベーカリーで仕事もするんですよ。ただ、治安も悪い時で、ホールはアメリカ人でも、裏方はスパニッシュばっかり。英語が少しわかりかけていた時に、今度は、スペイン語です/笑」。
言葉の違い、文化の違いには、ポジティブな木村氏といえども悩まされたようである。
重ねてと、なるが、ここまで木村氏が、経験したのは一般的にいう修業のアプローチとは異なる気がする。パンをみつめ、ロジカルな答えをだす。日本にない、発想だったに違いない。重鎮たちの狙いも、案外、そんなところにあったのかもしれない。ロジカルに語れるパン職人。ただ、その職人は、すでにフランスにいた。
「パンづくりには、センスも大事ですが、まず、気配りがなくてはなりません。もちろん、体力もいる。『ちょっと、小麦粉もってこい!』で、1袋25キロですから/笑。私は、ニューヨークのあと、フランスに渡ります。いまパートナーであるエリック・カイザーに出会うのは、この時です。エリック・カイザーは、当時、『INBPフランス国立製パン学校』の指導員でした。50年に1人の天才と言われていた人です。私は彼に師事します。早朝から日が暮れるまで仕事をしました」。
海外で「木村屋」の名は通用しない。「木村屋の御曹司」と言っても、だれも意味がわからなかっただろう。のちに、木村氏は、このエリック・カイザーに認められ、「いっしょに日本でショップをやろう」と誘われるのだが、これは純粋に木村氏を評価してのこと。まざりっけは、何一つない。
「海外は合計3年半くらいですね。フランスから、イスラエルにも渡りました。やはり、印象的だったのは、エリック・カイザーですね。彼は、経験則でモノを言わないんです。『なんで?』というと、理論的な言葉が返ってきます。それだけパンのことを研究しているんですね。じつは、彼がつくる、つまり、うちも当然そうですが、パンの製造方法はほかとはまったく異なるんです。そもそも発酵から違いますから」。
むろん、その違いが、「旨いパン」のもとになる。
話はとぶが、いま、木村氏の店では小麦粉も、バターも特注品だ。すべて、究極のパンをつくるため、メーカーにオリジナルなものをつくってもらっている。このこだわりも、また、エリック・カイザー譲りかもしれない。
「彼は、私より5つ上です。質問に対して、理論的に解説できる職人はそういないんです。彼は、いうまでもなくその1人。ハイ、リスペクトしています」。
エリック・カイザー氏は、現在、株式会社 ブーランジェリーエリックカイザージャポンの取締役である。修業を通して、尊敬できる人との絆が生まれたということだろう。
素敵な出会いでもある。ただし、この出会い。偶然ではなく、必然と思うのは、私だけだろうか?
「2000年、エリック・カイザーという巨匠をパートナーに会社を設立し、翌年、1号店をオープンします。以来、今年で18年です。現在の店舗数は約30店舗。来年度にも、複数出店する予定です」。事業は、順調そのものだ。ただ、木村氏は、慎重な言い回しをする。
「パン屋って、出店にもお金がかかるんです。設備を入れたら、1店につき1億5000万円は最低でもかかります。にもかかわらず利益率も低い。教育にも時間とお金がかかります。そうですね。3年でそこそこ。独り立ちという意味では5〜7年かかります。だから、採用後も長い目で育成をしていかないといけないんです」。
もちろん、独立する人も少なくはないそうだ。だから、採用と育成は、やはり、必須となる。そのなかで、今度はどう、木村氏のDNAを残し、渡していくかがカギになるだろう。
<パンのある幸せな食卓>。
たまには、お米ではなく、パンを真ん中にしてメニューをつくり、食卓を囲むのも悪くない。旨いパンがあれば、日本人の食卓は、もっと楽しく、豊かになる。
ハッピーなパン。おなじ会社ではないが、創業より1世紀以上をかけ、つむいできたパンへの思いが、「ハッピー」という文字に凝縮されている気がする。
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