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第710回 阪神食品株式会社 代表取締役 檜谷 進氏
update 19/05/28
阪神食品株式会社
檜谷 進氏
阪神食品株式会社 代表取締役 檜谷 進氏
生年月日 1949年3月1日
プロフィール 島根県出身。高校卒業と同時に、集団就職で大阪へ。サラリーマンからプロボクサーに転身するも、1戦で、リタイア。加ト吉に就職し、8年目に独立、阪神食品を立ち上げる。飲食事業に乗り出したのは2000年。
主な業態 「個室居酒屋6年4組」「元祖343鮨」「割烹焼肉 松永牧場」「堺筋本町給油所」「西梅田チーズ牧場」「山陰浜田港」
企業HP http://www.hanshin-shokuhin.co.jp/

島根県益田市匹見町。

「昔は、雪も1メートルは積もった」と、今回ご登場いただいた檜谷進氏は笑う。1949年生まれ。出身は島根県益田市匹見町。檜谷氏いわく、「中国山脈のど真ん中」。
地図で調べてみると益田市は島根県の西部で一部が山口県と接している。海にも面しているが、中国山脈のど真ん中というから、檜谷氏が育ったのは山間部のほうなのだろう。
「うちは、檜谷板金工作所っていう看板を掲げていました。もっとも堂々たる看板を掲げていても、社員は、社長の親父とお袋と、私です」。
檜谷氏は、7人きょうだい。「兄もいたんですが、兄は勉強ができたから、そっちは兄に任せて、私はうちの手伝いです/笑」
坂道を駆け上がったり駆け下りたり、海や川での素潜り山での収穫物体験自然のいとなみを十分堪能していました、記憶は曖昧と言いながらも、そのいくつかの思い出は、今も檜谷氏の財産だ。
「貧しかったですが、それを苦に思ったことはなかったですね。やがて、地元の工業高校に進むんですが、うちの手伝いは高校になってもつづけます。だいたい昼の3時くらいに学校が終わるでしょ。走って帰って、6時くらいまで仕事をしていました。手先は器用ではなくやらなければならないのでやっていました。
いま、益田市を写真でみると地方都市という風情だが、当時は檜谷氏がいう通り片田舎だったのだろう。高校を卒業した檜谷氏は、集団就職で都会にでる。「昔は、集団就職っていうのがあってね。文字通り、集団で都会に出て就職するんです。会社は予め決められています」
蒸気機関車。ボーと汽笛が鳴る。益田を離れる同級生と2人、何をしゃべって就職先がある大阪に向かったのだろう、覚えている事は「一旗上げんと帰れんのうと!!」。

プロボクサー。生涯ファイトマネー、4000円。

「ボンベに水素ガスなどを充填する仕事に就きました。2年くらいその仕事をつづけて、つぎはカフェでアルバイトです」。
「じつは、私、プロのボクサーだったんです」とこちらを驚かす。
「もっとも、リングに上がったのは25歳の時。ただ、それ一回きり。そう、一戦で、引退です。ファイトマネーは4000円でした/笑」。
奥様と出会ったのは、21歳の頃。リングを下りた檜谷氏、すでに子どもがいた。
「正直いうと、怖かったんです。後輩の顎が割れたのも、観ていましたし。でも、男の子どももいたでしょ。だから、一回は、プロのリングに上がらんと親としての格好がつかんと。で、上がったもんだから、もういいだろうって。それで、当時のバイト先だった株式会社加ト吉(現テーブルマーク株式会社)に就職します」。
「マネキン」といったそうだ。
「じつは、加ト吉でエビフライの試食販売の売り子(これがマネキン)のバイトをしていたんです。案外、これがうまくいって。アルバイトの時から一目置かれていました。その加ト吉を8年半で退職します。理由ですか?転勤できなかったんです。転勤したら、大好きなソフトボールを辞めなければならなかったから/笑」。
ジョークかとも思ったが、そうでもないらしい。ソフトボールは29歳から56歳までつづけ、「なみはや国体」にも出場されている。つまり、筋金が入っていたわけだ。
「そうですね。子どもの頃から勉強は苦手だったけれど、スポーツは万能でしたね。何しろ、中国山脈を根城にした野生児ですから/笑」。

「6年4組」。

会社は辞めたが、加ト吉との付き合いはつづいた。「取引先として、独立させていただくんです。独立1年目に1億円の売り上げを上げることができました。現在、39期目です」。
余談だが、1年目1億円をあげたときは、奥様と2人。売上額は異なったが、まるで昔の父親と同じだ。翌年、奥様の弟が参加。以降1年に1人は採用したが、じつは赤字つづきだったそう。
「交際費を年に300万円くらい使っていました。給料はちゃんと支給しました交際費が原因だってわかっていましたから。でも、10年間、そんな具合だった」。
数年経てば、社員は辞めた。つづかない。檜谷氏のかみなりが落ちるからだ。「私の問題です。ついつい、いらないことまでいってしまって創業者にある共通点です。今は、もうぜんぜん違うんですがね」。
まだまだ校長になれていなかった頃の話だ。
さて、今回、飲食の戦士たちにご登場いただいたのは、メディアなどにも度々取り上げられている「6年4組」のお話しもお伺いしたかったからである。
「これはね。親と子が教室で食事をするイメージで出店した居酒屋です。ノスタルジーというのか、小学生の頃にもどって楽しめるわけです」。
モデルは12歳のとき、父親の仕事を手伝いながら休憩時間に眺めていた益田市の岩倉分校だという。調べてみると、もう、廃校になっていたが、たしかに、昭和の温もりがあった。
ちなみに、「6年4組」は東京、大阪、名古屋、福岡にも分校がある。ホームページにある「皆さんの通学区域にあわせて、分校がたくさんあります」という一文も、なかなか気が利いている。
じつは、今、飲食事業も、阪神食品グループの一つの柱だ。
「6年4組」以外にも、「元祖343鮨」「割烹焼肉 松永牧場」「堺筋本町給油所(注意/ガソリンスタンドではない)」島根県浜田市と提携した「山陰浜田港」などユニークな店を展開されている。

2020年、40周年。

「最初に出店したのは『元祖343鮨』です。2000年に初出店です。旨い寿司をたくさん食べたい。私自身が、お寿司が好きでお客様になったつもりで開発したブランドです。もっとも、ただ飲食事業がしたかったわけではありません。
阪神食品は、食品卸業です。この事業だけでは、いつ吸収合併されてもおかしくありません。それで、消費者ともつながる飲食店をつくったんです」。
食品卸と飲食店がひとつになる。そうなれば、ひとつだけを切り離すことは難しい。「ともかく、それがいちばんの狙いです。でも、『343』っていう数字には、いろんな意味があるんです」。
そういって、檜谷氏は、343という数字に隠れた意味を説明してくれた。
「寿司屋だから、まずはサ・シ・ミだよね。でも、それだけじゃない。飲食って、料理が3、食材が4、サービスが3なんです。このすべてで、いちばんになるっていう思い。そしてね。いつか343店を出店して、がんばった社員みんなに、暖簾分けしてあげる。そういう目標も含めているんです」。
ブランドは、広がっている。
益田市とのつながりも生まれている。
檜谷氏は、益田市を「田舎」というが、逆にいえば食材の宝庫だ。益田市種村町の「松永牧場株式会社」より直送の松永黒牛A4ランク以上も、その一つだ。「割烹焼肉 松永牧場」では、松永牧場の牛肉を使用している。
つまり、「飲食事業」によって、消費地と生産地の橋渡し的な役割を担っている。実は、檜谷氏自身、島根県から委嘱された「遣島使」として、「ふるさと親善大使」を務めている。
2020年、40周年を機に、社長業のバトンを長男に譲り、「親善大使」のほうに注力する。40周年には、盛大なパーティが開かれる。さて、6年4組の校長は、そのときどんな顔をするだろう。

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