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第716回 株式会社にっぱん 代表取締役社長 近藤洋一氏
update 19/06/18
株式会社にっぱん
近藤洋一氏
株式会社にっぱん 代表取締役社長 近藤洋一氏
生年月日 1973年9月25日
プロフィール 宮崎県生まれ。東京水産大学(現:東京海洋大学)卒。新卒2期生として、株式会社にっぱんに入社。2年後、24歳の若さで異例の本社勤務に。経営企画や財務などを担当。財務担当者時には経営不振に陥った同社を再生。2017年、現職の社長に就任する。
主な業態 「寿司魚がし日本一」「青柚子」「グリル魚がし バル」「油や」「美寿思」他
企業HP https://www.susinippan.co.jp/

1周たった4キロの小さな島。

父親はかっこいい漁師だった。イセエビ、アオリイカ、鯛、カサゴ…海の恵みは豊かだったが、生活は裕福ではなかったようだ。
「私は、宮崎県の小さな島生まれです。1周、4キロ。島の分校の生徒数は9人で、私の同級生はたった1人です。とにかく、台風が多かったですね。遊びっていったって、海と山しかないでしょ。だから、男子はだいたい野生児に育ちます」。近藤氏は3歳で泳ぎ、5歳の時にはモリで魚をついていたそうだ。
父親は島育ちだったが、母親は東京生まれ。東京で父親と知り合い、父親を追いかけるようにして、この島に嫁いだという。
「東京の祖父は、石油会社の役員です。母は、2人姉妹の長女。たいそうなお嬢様で、料理もしたことがなかったそうです/笑。もちろん、こちらでお嬢様なんて通用しません。母も父を手伝い、まっくろに日焼けします。そうですね。お金がないもんですから、東京の祖父母のところに行くのは、3〜4年に1回くらいですね。小学生の4年の頃に一度妹と2人だけで行ったことがあります。母のぶんまで、切符が買えなかったんでしょうね。ええ、東京は、島とはぜんぜんちがう風景でした/笑」。
妹の手をにぎり、東京の街をみる。小学4年、10歳、1983年の東京。バブルの芽が育ちはじめた頃である。

島から来た野生児は、運動神経抜群だった。

もともとガタイがでかい。しかも、野生児である。わんぱくなイメージに思えるが、案外そうでもなかったらしい。母親に勧められたこともあって本好きで、じつはかなり勉強もできた。中学校には、船と自転車で通った。1クラス25人。同級生の数は25倍になったが、笑うほど少ない。
それでも、バスケットボールは県の大会で準優勝。卓球でも市の大会で準優勝している。「ハッキリ言って、運動神経だけは抜群でしたね。水泳でも、じつは大会新記録を更新しています。まあ3歳から海で泳いでいますからね。泳ぎは得意中の得意です」。
何をやらしても、誰よりも巧くできた。バスケに、卓球に、水泳に…、ただ本人はプロ野球選手になりたかったそう。「野球部がなかったんです。だから、カベあてが日課でした」。
もし都会でもおなじようなガタイになっていれば、才能ある選手として高く評価されていたにちがいない。
実際、名門の日南高校に進み、チームで野球をするのは初めてだったが、すぐに頭角を現している。背丈は183センチ。大学へ進学すると、堂々たる体躯から143キロのスピードボールを放った。

オーストラリアへ、ニュージーランドへ、波を切り進む。

「祖父母が東京だったこともあって、はじめから東京に行こうと思っていました。進んだのは、東京水産大学(現:東京海洋大学)です。大学では1年からエースで4番。3部リーグですが、奪三振王でした」。
東京に来て活躍する孫に、祖父も、祖母も目を細めておられたことだろう。
「ただ、2年の秋に肩を壊してしまいます。それが原因で3年の途中で野球から離れました。バイトは、1年の時から色々やりました。当時から鮨屋でもバイトをしていました」。
水産大学だから、1年間船にも乗った。オーストラリアやニュージーランドへ。マグロを追いかけたこともある。星で位置を確かめる訓練もした。
「大学を卒業する時には飲食を狙っていました。『にっぱん』に入社したのは、1997年です」。
2期生だったそう。同期は7名。「当時は、10店舗で売上は10億円くらいだったでしょうか。私は2年で本社勤務になります。経営企画室です」。
システムの導入、データの分析や数値管理…、経営陣からも高く評価された。上場の準備も中心となって進めた。何事も、順風満帆。しかし、落とし穴があった。

都会に、荒波が立つ。

「最盛期の売上は、55億円です。それが、35億円まで落ち込みます。資金の問題もあったし、無理な出店もあったんだと思います。いちばんは、いろんな計画が曖昧に進んでいたことですね。私は、財務も長く担当することになるんですが、異動した時には、ほぼドン底まで落ち込んでいましたから/笑」。
資金不足。銀行との交渉もうまくはいかない。組織もいつしか緩んでいた。「再生するのに5年かかりました。取引銀行も4行から30行にして、金利も大幅に下げます。人事でも大鉈をふるいました」。
「そうですね。いつからか『再生』という仕事をつづけてきたように思います。いま私が社長なのも、この時の経験を評価いただいた結果だと思っています」。
常務からいきなり社長に抜擢されたそうだ。それが2017年、この取材から2年前のこと。「6月19日に魚がし日本一30周年のイベントをやります。それが目下の大事な仕事でしょうか?」。近藤氏は、そう呟く。
また、働き方改革にはいち早く取り組み、定着率もぐんと良くなった。

社長、就任。企業の航海士として、都会の荒波に立ち向かう。

近藤氏は、地方出身とは思えないほど、スムーズな標準語を話す。なまりもいっさい混じらない。
「母が東京育ちですからね。その影響もあって、こっちに来てからは方言もでないし」。言葉遣いも丁寧。父親が漁師だったとは思えないほど、大人しい。
「島育ちで、海や山があそび相手ですから、からだは自然と鍛えられました。心も、荒波のなかで鍛えられたように思います。何しろ、同級生1人で育ったわけですから。1人でもつよく生きていけます。そう考えれば、島育ちも悪くありませんね/笑」。
立派な体格、それだけでも頼りになりそうだが、荒波とたたかいつづけた祖父・父の、漁師のDNAも近藤氏を大きくみせるのだろう。
都会の荒波に立ち向かうその背中は、沖へと向う祖父の父の背中に似ているにちがいない、と思った。

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