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第717回 有限会社ネットタワー 代表取締役 江野俊銘氏
update 19/06/25
有限会社ネットタワー
江野俊銘氏
有限会社ネットタワー 代表取締役 江野俊銘氏
生年月日 1976年2月20日
プロフィール 1976年、台湾の台中に生まれる。高校卒業後、来日。日本では大学院まで進み、情報学科を専攻する。その一方で、大学4年時に起業し、ネットタワーを創業。ネットビジネスを展開する予定だったが、道はそれ、飲食業に進出。「タピオカドリンク」を日本に紹介し、タピオカブームをつくる。
主な業態 「パールレディ」「茶BAR」
企業HP http://www.nettower.co.jp/

オモチャがつなぐ縁。

「小学校に上がる頃まで、ぼくだけ、おばあさんといっしょに台北で暮らしていました」と江野氏。江野氏は、4人兄弟の次男。「兄1人、弟2人。小さな頃の思い出ですか? そうですね。叔母がくれたおみやげを友人に売ったことがあるんです。それも、高値で/笑」。
叔母さんが買ってきてくれたのは、日本のオモチャ。
「ええ、叔母さんにバレたら怒られると思っていたんですが、逆に『商才がある』って褒めてくれたんです。そんなことがあってからですね。日本を意識するようになったのは…」。
日本製のオモチャを欲しがる子どもたちをみて、江野氏は、はじめて日本という国を意識する。むろん、この頃はまだ、日本で暮らすとはまったく思ってもいなかった。
「私は、小学校から卓球を始め、中学、高校と卓球をつづけます。高校では強豪校に進んで寮に入り、卓球をつづけます。あ、でも、特別、巧かったわけではないんです/笑」。
江野氏は、そう言ってけん遜するが、団体戦で全国2位にもなったこともあるというから、相当な実力だ。韓国や日本で行われた親善試合にも出場している。
「そうですね。親善試合がきっかけだったわけじゃありませんが、たしかに、この頃から留学を意識するようになりました」。オモチャの縁が、改めて日本と江野氏をつなぎはじめた証だろう。

来日と、だまし取られた900万円と。

江野氏が来日したのは、1994年10月。
「日本で暮らしていた叔母さんを頼って」と江野氏。なんでも、来日したその日からバイトをはじめたそい。「日本では大学に進学し、情報学科を専攻します」。
ちょうどウインドウズ95がリリースされる頃。いろんなネットビジネスがスタートする。商才のある若者は、その波に群がった。江野氏も、その1人だった。
「大学4年の時にネットビジネスで起業しようと思って会社を立ち上げるんです。ハイ、それがいまのうち『ネットタワー』です」。
「ネットタワー」。飲食にしてはめずらしい社名と思っていたが、それを聞いて納得した。「だけど、どういうわけか…。ボタンの掛け違いで、飲食の世界に進むことになるんです/笑」。
知り合いの華僑から「いっしょにビジネスをしないか」と誘われた。それが「タピオカ」との出合い。「最初は、タピオカの輸入などを考えていたんですが、華僑が経営していたのは神田にある東南アジアの料理店です。私はそちらで仕事を始めるんですが、『いっしょにしよう』と言ったタピオカのビジネスはぜんぜん前に進みません」
それどころか、いつのまにか店長に格上げされ、店を切り盛りするようになっていた。「ネットのビジネスの種がみつかればいいやって思っていたんですが、私も店が忙しくて、それどころじゃない。そうこうしているうちに3年くらいが過ぎ、オーナーが店を売却するといいだしたんです」。
「それで、飲食事業をスタートしたんですか?」と江野氏にたずねると、苦笑いしながら首をふる。
「私も店長をやっていましたから、愛着がありました。コックさんも私が連れてきましたから、店を閉めるのは忍びない。だから、『売却するなら、私に譲ってくれ』と、オーナーに交渉するんです」。
この時、江野氏は、オーナーに900万円を支払っている。
「でもね。だまされたんです。私だけじゃなく、いろんな会社とも契約していて。『だまされた』と気づいた時は、後の祭り。なんとか500万円はとりもどしましたが、残りは仕方ありません」。
それで、飲食にも進めなくなったわけだ。八方ふさがり。
さらに、つづきがある。
「それで、初心に帰ろうと『タピオカ』の輸入を計画します。でも、防腐剤の問題で輸入できません。どうしようか。その時『だったら、日本でつくれればいい』って思いついたんです」。
幸いというか、まだ400万円を貸したままのオーナーが工場を持っていた。「それで、一部をただで貸してもらって、タピオカの生産を開始します。ただ、生産が軌道に乗る前に、今度はオーナーはいなくなった。そして、あっちの人たちが『金を返せ』と押しかけてきました」。
「なんなんだ日本って国は…」。そう思ったんじゃないだろうか。
しかし、江野氏はまだへこたれない。

一粒のタピオカ。

「何度も脅されました。ただ、私にはお金もないし、もともと私の工場でもないですからね。私も迷惑したほうです。結局、10万円で話はつきました。蒲田のATMから大阪の銀行口座に振り込んだのを、鮮明に記憶しています」。
「それから、もう一度、再出発です。新たに工場を借りてタピオカの生産を開始します。ただ、当時は、販売しても売れないんです。だって、日本人は知らないんですから。それで始めたのが飲食事業です。そう、うちの飲食事業は『タピオカ』を販売するきっかけになればとスタートしたんです」。
これで、いよいよスタートかと思うがそうではない。まだ、試練はつづく。
「私がショップをつくろうとすると今度は、大手会社が台湾のブランドと契約して日本でタピオカドリンクのショップを出店するんです。資本力では圧倒的な差です。勝負になりません」。
せっかく、みいだした次なる手段が、また宙に浮く。
「どうするか、どうすればいいか。その結論が『何も自社で広げなくてもいいではないか』というある意味、当たり前で、言い換えれば逆転の発想です」。
それから、既存の店舗にタピオカドリンクを売り込んだ。ただ、タピオカだけを売り込んだのではない。「タピオカドリンクをメニューに加えることで、どう店全体の売れ行きがアップするか」まで考えた。それがのちのプロデュース事業にもつながっていく。
なかでも、クレープショップ専門店に仕掛けたタピオカドリンクとクレープのコラボは、圧倒的に消費者に受け入れられ、そのショップは1年で70店舗を出店するまでに成長した。
その一方、日本を代表する飲食会社にもノウハウを提供し、プロデュースを開始する。今でも、その店の原材料すべてを提供しているというから、驚く。
「イオンのショッピングモール内に、フードコートってあるでしょ。だいたい10年くらい前ですが、あのフードコートには、必ずクレープショップってあるんですね。それにも、かかわりました」。
タピオカとともに、江野氏の名も知られるようになる。
「いまでは私どもでもショップ展開をしています。ただ、ショッピングセンターではなく、駅チカの路面店です。そういうふうにすみ分けて。ええ、こちらも成功しています」。
一粒の「タピオカ」が、巨大なビジネスに育った。偶然ではない。必然。江野氏が、壮大な仕掛けをした結果だからだ。

日本産タピオカ、海外へ。

「ただ次に困ったのが、東日本大震災です。物流が止まったし、パック類もなくなった。たいへんでしたね。でも、あの時を乗り越えたことで自信がついたのは、たしかです。意思決定するスピードの重要性も体験しました」。
何かあるごとに強くなる。江野氏はそんな人だ。
整理するとこうなる。
江野氏が会社を設立したのは、2000年。2001年には日本に初めてタピオカの工場を開業する。2003年、タピオカ専門の飲食店「パールレディ」を立ち上げる。2018年、現在、その数は27店舗になる。
その一方、2012年から海外展開を開始。台湾に現地法人を設立したほか、タイ王国、中国にも出店した。2018年現在でいうと、アメリカにも進出し、ワシントンに飲食店、サンフランシスコに生産工場を設けている。
日本から世界へ。
すでに江野氏は、その方向に向かっている。
それも、これも、「タピオカ」という食材が、軸になっている。「タピオカを使いたい方がいれば、食材を含め、ぜんぶ、うちがプロデュースします。そうすれば、絶対、儲かる。うちの店が、証明していますから」。
自信にあふれた一言だった。

思い出のアルバム
 
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