株式会社グルメ杵屋レストラン 代表取締役 佐伯崇司氏 | |
生年月日 | 1956年12月24日 |
プロフィール | 岐阜出身。東京大学法学部卒。日本債券信用銀行(現あおぞら銀行)に就職し、バンカーとして20年の道をあゆむ。その後、株式会社テンコーポレーションの社長に就任するなど経営畑を進み、2015年10月、株式会社グルメ杵屋レストランの代表取締役社長に就任する。 |
主な業態 | 「杵屋」「めん坊」「穂の香」「そじ坊」「丼丼亭」他 |
企業HP | https://www.gourmet-kineya.co.jp/ |
「終電に乗れたのは、週に2回くらいです。残りは、タクシーで帰るか、泊まり込み」と佐伯氏は笑う。佐伯氏がまだ日本債券信用銀行(現あおぞら銀行)の人事課長だった頃の話である。入行は1980年。「まさかあの頃は銀行が潰れるなんて思ってもいなかったですね」。
佐伯氏は1956年に生まれている。岐阜出身。父親は電電公社(現NTT)に勤務し、母親は佐伯氏とおなじ銀行員だった。「背がちいさくて、引っ込み思案の子だった。本を読むのが、好きだったかな。旅行も、外食も、あまり記憶にないですね。ただ、年1回、父母の田舎に帰省はしました。当時はSL、蒸気機関車です/笑」。
窓を開ければ、黒い煤が流れ込んでくる。何両もの車両をひっぱっていたのは、石炭だ。「そうですね。まだ、そんな時代ですね。子どもの頃の私は、ロケットを飛ばしたいと思っていました。石炭の時代ですからね。ロケットなんていうと、もう相当な未来の話だったんです」。
じつは、ロケットは思いつきではなく子どもの頃は真剣に、東大の航空宇宙研究所をめざしていた。「でも、高校になると、だんだんわかってくるでしょ。さすがに『航空宇宙研』は無理だと。理V(医学部)より難しい。/笑」。
たしかに、ロケットはあきらめたが、かわりに東大法学部にあっさり進んでいる。佐伯氏にとって、赤門自体は、高い門ではなかったようだ。
「法学部ですが、弁護士は頭になかったですね。司法試験に比べれば東大に入り直す方がよっぽど楽です」。
けっきょく、就職先は長期信用銀行の1行だった日本債券信用銀行となる。債券発行を担った銀行である。「最初は、上野に配属されました。ハイ、浅草のおばちゃん相手です/笑」。
時代はマンション不況・第二次オイルショックから立ち直り、景気回復で金融引き締めが行われた頃。国債金利が6%から9%まで駆け上がる、そんな頃の話である。ちなみに、上昇した3%だけでも、いまの金利と比較すれば数十倍だ。
「まぁ、そういう時代ですね。私は入行5年目から、当時の大蔵省に出向し、銀行にもどってからはインベストメントバンカー、労働組合書記長、人事課長ですね」。
インベストメントバンカー時代、佐伯氏は、日本企業がユーロ市場で起債する債権などを担当していたそう。「マーケットがロンドンだから、時差は8時間ですよね。ときにはニューヨークまで追いかけるので、向こうとは11時間時差がある。ハンパなかったですね」。バンカーが描く地球儀には、日付変更線は記されていない。「でもまだこの頃は、土日が休めていましたからね。人事課長になってからは、それもなくなった/笑」。
約20年と、佐伯氏はいう。「バブルが弾け、不良債権の山ができる。うちの銀行も1998年に経営破綻し、一時国有化されます。経営陣も総入れ替えでしょ。私が知っている銀行ではなくなった。そう思って退職しました」。
これが、佐伯氏42歳の時のこと。
「それからですか? まず、外資のアーサー・アンダーセンに転職します。ただ、アーサー・アンダーセンも、エンロン事件で解散してしまうんですね。日本の事務所は、オランダ本部のKPMGに吸収され、私は、そちらでも2年勤めたあと、そう、はじめて外食に進みます。ロイヤルホールディングス株式会社の社長だった今井さんに誘っていただいたんです」。
当時、丸紅から「天丼のてんや」の「テンコーポレーション」をM&Aしたばかりだったそう。
「それで、私に白羽の矢が立ったんですが、もちろん、飲食ははじめて。『てんや』も苦戦中です。素人に舵取りは難しい。だれもがそう思うでしょうが、今井さんは、逆に飲食経験のない私だからできることがあると思われたのかもしれませんね。ご自身もそうですから」。
実際、1年3ヶ月かけ124店舗すべてを回るなど、独自のスタイルで経営を行った。パート・アルバイトとも時間をかけて直接対話するなど、異例のことだったに違いない。
「最初に私がやったのは、値引き・割引の禁止です。ええ、ぜんぶ止めました。だって、500円の天丼。これだけで価値は充分あるんです。にもかかわらず値引きのキャンペーンをしたり、3杯食べたら1杯無料にしたりするとか。なんで、自分から価値を下げるんだって」。
行脚と会話。
だれもが、天丼500円の価値に気づく。それが起死回生始まり。「正式に社長になったのは、転職して9ヵ月経ってからだから、丸3年ですね。ハイ、業績は、回復したんですが、つぎにリーマン・ショックです。会社は存続できましたが、私は退任させられました/笑」。
アルバイト・パートとつないだホットラインもなくなる。従業員向けに毎週送ったレターも、もう書くことはない。
はじめての社長業は、たしかな実績も残したが、ほろ苦い結果となったとも言えるだろう。
ただ、佐伯氏は面白いことを言っている。
「飲食っていうのはBtoCでしょ。相手は経済合理性なんか関係ない個人消費者。私は新社会人の時浅草のおばちゃんたちに鍛えられましたからね、個人はどう思うか、どう行動するか知っている。だからこの仕事はできるって」。
「私と飲食は、案外、いい組み合わせかもしれない」。
佐伯氏がそう語ったわけではないが、佐伯氏はこのあと、いったん家電量販店の「コジマ」に就職したものの、9ヵ月後には、グルメ杵屋のグループだった「元気寿司」に転職し、代表取締役社長に就任している。
「グルメ杵屋の社長、椋本充士氏からのオファーです。コジマの本社が宇都宮だったこともあったんでしょうね。やってみないか、と」。
もっとも、当時、業績は21億円の大赤字。これ自体は特損含めての数字だったが、構造的な問題も浮彫になっていた。この回転寿司の老舗は、100円寿司が次々台頭するなかで、もとからのプライドもあり、なかなか100円寿司には舵を切ることができなかったのである。
「100円寿司じゃなかったんですね。うちは」。時代は100円がスタンダードに。「うちの横に、そういった会社が新店をだすんですね。マーケティングはもう済んでいます。うちが出ているんですからね。で、お隣は100円です。お客さんはみんなそっちに行っちゃう/笑」。
100円寿司に経営資源を注ぎ、二段特急レーンや回転しない回転寿司を自ら考案して展開。「すぐに業績はもどりました。でも、震災などもあって、1年目は苦戦しました。3年間、社長を務めましたが、最終的には7億円の経常利益を叩き出しました」。
今度は、文句のつけようのない結果である。
「現職であるグルメ杵屋レストランの社長に就任したのは、2015年10月1日ですね。ハイ、グルメ杵屋グループのなかの主要な会社です」。
グルメ杵屋には多彩なブランドがあるが、「グルメ杵屋」と聞いて、イメージするのはやはり「うどん」だろう。「そうですね。天丼も韓国料理やタイ料理などもラインナップしていますが、主要なブランドはやはり、うどんとそばですね。うどんには、これからも注力していきます。じつは、noo-don(ヌードン)って、新感覚のブランドをオープンしたんです。これが、どうなっていくか、楽しみです」。
たしかに、HPで観ると、おしゃれな外観である。このブランド、じつは佐伯氏のアイデアなのだそう。
「経営的にみても、コンパクトでいいんです。仕掛けは、最先端の券売機とマルチオペレーションにあって。券売機で購入すれば、そのデータがすぐ厨房に飛びます。お客様がお席を確保している間に、もう番号が呼ばれるという感じ。トレーを抱えて、長く待ってイライラするとはありません/笑」。
これは、いけると膝を叩いた。もちろん、味も、価格も大事だし、案外、薬味がキーとなっているかもしれない。しかし、本来、できたてを楽しむのが、いちばん。レジの前で順番を待つストレスは、この楽しみを帳消しにしてしまっているようにも思うからだ。
いずれにせよ、かつてバンカーとして、世界ともたたかっていた敏腕経営者である佐伯氏が、いまから、どんな一杯を我々に披露してくれるのか。それが、楽しみである。
幸せな一杯なら、尚、いい。
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