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第723回 株式会社丘里 代表取締役 中村康彦氏
update 19/07/16
株式会社丘里
中村康彦氏
株式会社丘里 代表取締役 中村康彦氏
生年月日 1962年11月23日
プロフィール 服部栄養専門学校卒。ベルギーのブリュッセルで料理人の道を進みはじめ、帰国後も、赤坂の料亭『田川本店』で修業。25歳で、実家の料理店にもどり、新たな店づくりを行うため、料理長としてスタートする。これが名店「丘里」の、第二の創業となる。
主な業態 「おかさと 庵」「旬 おかさと」「和食 丘里」「炭の家おかさと」「静の里」他
企業HP http://www.okasato.co.jp/

14万人の古河市で、年間42万人が来店する名店の、そのはじまり。

昭和46年、両親が喫茶店を開業する。これが、株式会社丘里のはじまり。いまや人口14万人の古河市で、年間42万人を集客する会社となっているが、そのはじまりは、そう華々しくはなかったようだ。
「父も、母も、素人ですからね。しかも、喫茶だけではなく、料理もだしていました。もちろん、ちゃんとしたコックさんを採用して。でも、当時の料理人っていったら、経営者の話も聞かないような人ばかりでしょ。けっきょく、その人たちのおかげで経営もうまくいかない。どちらかというと落ち込んだ母や父をみて育ったようなもんです」。
当時の月商は200万円強だったそう。料理人もつかっている店だから、利益はわずかしか残らない。
「そうですね。うちにお金はなかったですね。もっとも、私は3歳から高校2年までピアノを習っていますから、それなりにお金を遣ってもらったんでしょうが…」。
高校2年まで、じつは音楽で生きていこう、と思っていたそうだ。「でも、うちにお金がないのがわかりましたから、『こりゃぁ、オレがなんとかしなくっちゃ』と。ええ、それで、大学に進学せず服部栄養専門学校に進みます。私が料理をできれば、両親がさんざん泣かされてきた問題が解決しますからね」。

ベルギーのブリュッセル。料理人、中村の生まれ故郷。

服部栄養専門学校に通い、卒業後、3年間、ベルギーのブリュッセルにある「レストラン田川」に勤めている。「う〜ん、これはですね。音楽やっていたでしょ。ベルギーとかね。ヨーロッパには関心があったんです。それで、卒業の時に向こうではたらくチャンスをいただけたんで、まっさきに手を挙げて。ハイ、これは、両親にも相談しなかったですね」。むろん、いますぐ帰っても、役立たないことはわかっていたからの選択だろう。
どうでしたか? ブリュッセルは?
「いろいろな意味で、修業になりました。ブリュッセルにあるといっても、『田川』は、日本にある和食店とそん色ないんです。料理人も、たん熊さんや、吉兆さんからいらしているような人ばかり。ええ、もちろん、日本人です。しかも、日本のトップクラスの料理人です。そんな彼らの下で、料理の勉強ができたのは財産ですね。しかも、ヨーロッパなんで、和食にない食材、たとえば、フォアグラやキャビアもつかうんですね。日本では、到底できない経験です」。
もっとも朝8:30〜夜の12:30までぶっ通し。長期の休みには、ヨーロッパの国々をめぐるなど、楽しみもなくはなかったが、修業漬けの日々。「じつは、私、むかしから不器用で、箸もちゃんともてなかったんです。だから、休憩時間には箸で米粒をつかむ練習をしていました」。1年間、みっちりやったそう。中村氏はとにかく、やりつづける。ちなみに3年間で、給料は35000円から115000円にアップしている。

帰還すると、すぐさま月商が3倍になる。しかし。

「ベルギーからもどり、赤坂の料亭『田川本店』で、今度も3年勤め、25歳の時に両親のもとで仕事をするようになりました。なんでも、私が店に入ることを知って、当時いた料理人は、辞めたそうです。経営者が料理のことがわからないから、たぶんやりたい放題だったんでしょうね。私が帰ると、それができなくなる/笑」。
店のいい悪いは、料理だけで決まるわけではない。ただし、「旨い」、これは間違いなくキーワードである。父親も素人ながら、料理をしたこともあったそうだが、素人の域はでなかったのだろう。
「そういう素人でもできる、というのがあったんでしょうね。私がもどった時は、スパゲッティやサンドウィッチなど、素人でもできるメニューもあった。でも、それじゃだめなんですね。だから、一切、止めて、和食に絞ります。すると、月商がいきなり3倍くらいになり、造りも改めると月商1000万円をオーバーするようになりました」。
息子の仕事にご両親もさぞ目を細められたことだろう。しかし、そんなできる息子だから、躓くことになるから、人生はわからない。
「月商が1000万円オーバーした頃ですね。2号店のお話をいただいて。そうですね。あの頃がいちばん辛かったかな」と中村氏は独白する。
「原因は、人です。2号店をだしてからしばらくして、6人いた板前のうち5人が一斉にいなくなったんです」。アルバイト・パートだって、辞めていく。店も開けられない。「原因は私です。だって、当時、料理人は私の道具でしかないと思っていたくらいですから」。
過去のことがある。泣かされてきた父母への思いもある。だから、尚更、すべてが上から目線だったのだろう。母がこっそり退職の理由を聞くと、決まって「板長がイヤだから」という返事だったそう。板長とはいうまでもなく、中村氏のことだった。

奇跡の料理人たち。

「OGMの榊さんの、私は最後の教え子みたいなもんなんです」と中村氏。かわいがってもらったと目を細める。OGMの榊芳生会長といえば、業界で有名なカリスマコンサルタント。
「まだご存命の頃、もうにっちもさっちもいかなくなって先生の下に駆け込むんです。なにかいい方法を知りたくて。うまくいけば、人を紹介してくれるかも知れないと期待しながら。すると…。そう、ぜんぜん、期待外れです。だって、『人を大事にしろ』って言われたって、ね。その『人』がいないんだから/笑」。
もう店も開けられない。「2号店を閉めようかな、とも思いました。でも、2号店は、亡くなった弟がもっていたお金も遣ってオープンしたお店なんです。だから、ね」。
とにかく、榊氏に言われた通りを実践する。おっくうで開いていなかった朝礼を開いた。話すのは、訓示じゃなく、あしたの話。
「なんだかね。そうこうしているうちに、奇跡が起こるんです。本人たちに聞いても、たまたまだっていうんですが。いまや、みんなうちの主要メンバーなんですが、なんと、その時、20代、30代の料理人の彼らが次々やってくるんです」。
理由はいまだわからないそう。ただ、いきなり、強力な布陣となる。

あしたの話。

「いや、ほんとにわからないんですよ」と中村氏は、いまも首をかしげる。ただ、事実は一つ。中村という、できる料理人の下で、はたらきたいと思ったからに違いない。しかも、その料理人は、おなじ位置から、あしたの話をしてくれる。パートやアルバイトも辞めなくなった。それどころか、いつしかみんなの目の色までかわった。
「榊会長の言う通りやってから、人はぜんぜん辞めなくなりました。売上もアップしてね。じつは、東北の大震災の時以外、うちは、私がもどってきた時から、毎年、売上アップしているんです」。
もはや、丘里は、古河市を代表する飲食店だ。中村氏も名経営者と言われている。「そうですね。いつかお世話になったブリュッセルには、お店をだしたいですね」。
中村氏は、最後にそういって目をかがやかせた。
これも、みんなと語り合う「あしたの話」の一つなのだろうか。

思い出のアルバム
 

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