株式会社omnibus 代表取締役 新澤聖樹氏 | |
生年月日 | 1976年6月22日 |
プロフィール | 小学6年の時、両親が離婚。母親の手で育てられる。大学には進学せず、調理の専門学校へ。ホテルなどで修業し、25歳の時、母が経営するスナックを深夜だけ借り、開業。その一方で、料理人を派遣する会社に入り、和・洋・中すべてを勉強する。 |
主な業態 | 「赤星」「房’z」「&家」「ぶる」他 |
企業HP | http://www.omnibus-jp.com/ |
小学6年生の時、両親が離婚する。母親は、スナックではたらく。兄は、もともと荒れていた。
「もともと親父は酒飲みで。中日新聞社ではたらいてはいたんですが。いっつもお金がない人で、私のブタの貯金箱も狙われいました/笑。兄は、親父にも歯向かいました。離婚することで、生活はきびしくなりましたが、親父がいなくなったことで落ち着いたのも事実ですね。もっとも、まだ、怖い兄が残ったままでしたが…」。
兄は、3つうえ。新澤氏が中学に進学する時には、入れ替わるように中学を卒業する。
「入学してクラスわけってあるでしょ。最初というか、初日は1年9組のおとなしそうな女性が担任のクラスだったんです。たしかに、そうだったんですが、一夜明けた2日目に通学するともう1クラス増えていて。なんなんだ?と思っていたら『お前は、ここのクラスだ』と。なんでも、うちの兄を担任していた加藤っていう先生が『弟が入ってきたのなら、オレに任せろ』って。入学式の翌日になって、もう1クラスつくっちゃたらしいんです。その加藤先生っていうのが、陸上部の監督で。もちろん、クラブも陸上とハナから決められていました/笑」。
陸上部の監督であり、担任でもあった加藤先生は恩師の1人。
「とにかく、『走れ』です。他人がトレーニングしていない時にも『走るんだ』と。そりゃ、もう、練習の練習です。遊ぶ時間もない。でも、じつは練習だけじゃないんです。ちょっとでも派手なガラシャツを着てきたら、着替えさせられますし、髪型をキメてきたら水をぶっかけられて。悪くなるチャンスが、そもそもないんです。兄貴は、どうやって、この力から逃れたんでしょうね/笑」。
ともかく、中学時代は、熱血教師と陸上で、始まり、終わる。
「最初は、なかなか成績が上がらなかったです。でも、卒業するくらいには、神奈川県でも10位以内に入るようになっていましたから、相当、走りこんだ証拠ですよね/笑」。
陸上王国でもある神奈川県で10位以内とは相当、すごい数字でもある。
「高校からはたくさん推薦をいただきました。でも、お金がないでしょ。それで、陸上が強い県立高校に進みます。勉強もそれなりにできたから、トップにちかい点数で合格しました。むろん、入学後は、すぐさま陸上部です」。
高校からは、長距離。5000メートルを主戦場にする。高校1年の時には横浜で1位になっている。しかし、高校2年になり、長距離の部長になった時、腰を怪我し、これが引き金となって、クラブを辞めることになる。
「いろんなことが重なったんだと思います。怪我をしていたこともあって、年末年始にアメ横でバイトをして、ちょっとそっちに行きたくなるんですね/笑」。
そっちとは、ちょっと不良な世界である。
「怪我も治って、復帰するんですが、今度はブランクが埋まらない。いままで楽勝だった奴に勝てなくなっちゃって。先生は『完全に復活するまでは、それで当然だ』と励ましてくれたんですが…、私的には、挫折っていうか。そのうえ、私が部長だったその年に、うちの高校の駅伝シードが獲れなくって、連続記録が途切れてしまうんです」。
もうなにがなんだか、わからなかったのではないか。それから、新澤氏は長距離を走ったことがない。むろん、部は辞めた。慰めてくれたのは、新澤氏が12歳の時、兄が拾ってきた猫だけだった。
「大学には進学しようと思っていたんですが、もちろんお金もないし、3年の担任の先生が『何もすることがなくて大学行ってどうするんだ』って。そうだよな、と。ハイ、それで、大学には進まず、手に職をつけるために大阪の調理師学校に進みました。お金ですか? この時は、母と別れた親父に電話して。ハイ、最初は『だしてやる』って言っていたんです。でも、高校を卒業して、そろそろ大阪にいこうかなって時に、専門学校から電話があって『入学金が入金されていないので、このままでは』って。え?って」。
名古屋で暮らしていた父親のもとまで行き、詰問する。
「なんでだ?」
「最初に『だす』って言っていた時は、酒を飲んでいい気になっていたんでしょうね。でも、酔いが醒めれば、そんなお金はない、と。『とにかく、50万円だけだしてくれ。あとはオレがなんとかするから』って」。
入学金と授業料でほぼ200万円。それだけではない。家賃もあれば、生活費もある。「もう、住めればいいわけですから、いちばん安いところに住んで。飯は、バイトの賄いと、調理の実習でつくる料理です。もう、今思い出してももどりたくないですね/笑」。
1年制。卒業して、横浜にある有名ホテルで中華料理のコックになる。それが、また地獄の始まり。
「ぜんぜん、つづかなかったですね」。本人のことではなく、入社する後輩の話。「もうね。なんの生産性もないイジメです。冷凍庫のなかに放り込まれたり、ゴミ箱に突っ込まれたりね。ホテルの厨房ですよ。もう、私の時代で終わらせてやろうって。でも、ぜんぜんだめ。いくらカバーしても、だれもつづきませんでしたね」。
新澤氏本人は、そういう、悪い伝統をぶち壊してやるという目標もあって、気づいたら2年経っていたそうだ。「もうだめだ」とサジを投げたのが2年後だったとも言える。
「先輩らの憂さ晴ら。低いですよね。次元が…」。「ホテルでもこれかよ」と幻滅し、いったん飲食から離れたが、1年で舞い戻りる。「やっぱり、自分には飲食しかないなって思ったんです」。
それから、地元の居酒屋で2年勤務する。「独立を真剣に考え始めたのはこの頃です」と新澤氏。いよいよ、独立への道がスタートする。
その頃になると、母親も独立し、スナックを経営していた。「25歳の時に、居酒屋を辞めて独立します。母のスナックが24時で終わるんですが、それから朝の7時ですね。月6万円、家賃を母に払って」。
家賃が負担になっているのを知っていたから、わざと借りた。そうすれば母も楽になるだろう、という算段だった。「でもね。ぜんぜん、お客さんがいらっしゃらなかったんです/笑」。
月6万円も払えない。「それで、ちょっとは料理もできますから、派遣で調理の仕事をはじめます。今思えば、いちばんちからがついたのは、あの時ですね。とにかく、派遣ですから、どんな料理もいきなり任されるんです。『○×△つくっといて』みたいなね。しかも、和・洋・中、全ジャンルです。で、その時、調理したのを、夜というか、深夜ですね、うちの店で、再現するんです」。
実践と、実践の繰り返し。新澤氏の料理にかける思いと、その腕前に少しずつ客が吸い寄せられる。そのうちの1人に背中を押され、バーの跡地を新たに借りて正式な1号店をオープンする。
それが2003年の話である。
現在、新澤氏の株式会社omnibusは、直営で12店舗を経営している。業態は、それぞれ異なりユニークだ。ただ、ホームページには15ブランドあったので疑問をぶつけると、「社員にゆずった店があるから」だそう。
「彼らがバンバン稼いでくれたら、いまの社員のモチベーションになるでしょ。だから応援しています。その一方、私自身は、内装のアイデアとか、事業のプロデュースとか、そういう仕事もするようになりました」。
舞台は、まだまだ幅広い。
「『飲食』っていうのは、これから益々、厳しくなる。だから、みんながちゃんと生き残れるように、社会全体で取り組んでいかないといけない。そんなことにも目を向けていきたいですね」。
大事な指摘だと思う。飲食=ブラック。いつまでも、それでは旨くもない。ただ、これは飲食店の経営者だけで解決できる問題ではないだろう。消費者である我々も、また、旨い一杯を守り、育てるという意識を持たねばならないのではないだろうか。
最後にホームページに素敵な言葉があったので引用する。
理念であり、行動目標の一つだ。
<『愛』が、会社の『花』。街にあるお花畑のように、関わる人に感謝し感謝され、関わる地域に必要とされる人・組織・地域を作り、地域貢献、社会貢献する。>
いい花をたくさん、育て、「いい蜜」をたくさんつくる。
飲食は、たしかにたいへんな仕事ではあるが、そういう「いい花を育て、いい蜜をつくる」という意味でいえば、やはり素敵な職業であり、ほかにはない尊い仕事だと思う。
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