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第727回 有限会社RICCO 代表取締役 関口孝男氏
update 19/07/30
有限会社RICCO
関口孝男氏
有限会社RICCO 代表取締役 関口孝男氏
生年月日 1972年7月29日
プロフィール 香川県高松市生まれ。抜群の運動神経で、プロのテニスプレーヤーをめざすも、中学2年生の時に肩を壊し、断念。高校には進学するも、ともだちと群れ、目標をなくす。いったん、大学にも進むが1ヵ月で中退し、飲食の道に進む。イタリアにも。
主な業態 「PIZZERIA & BAR RICCO」「girasole RICCO」「肉バル RICCO」他
企業HP http://ricco-ricco.com/

未来のプロテニスプレーヤー。

「大阪」駅から環状線にのると、しばらくして「天満」駅に着く。この天満、いまやディープな食の街として知られている。飲食店が肩を寄せ合うようにして軒を連ねているのが印象的。
昔からの立飲みも多いが、近ごろは、お洒落な店も少なくない。むろん、大阪である。格好が良くても、マズイと勝負にならない。
今回、ご登場いただくのは、この呑み倒れの街に颯爽と登場したピッツァリア&バールのオーナーシェフ関口氏。2017年の世界大会で、世界2位になったピザ職人が焼く、マルゲリータにも絶賛の声が寄せられている。
オーナーの関口氏は、1972年、香川県高松市生まれる。
「父親は新聞記者で、母親は県会議員です。私自身は2人兄弟の長男で、小学校からテニスをはじめ、テニスで食べていくことを誓った少年です」。
テニスは小学校から、硬式。その腕前は、四国全土に知れ渡っていたほどだ。もっとも、テニス人口はそう多くない。
「私自身も、プロのテニスプレーヤーになれると信じて疑わなかったんですが、中学2年の時に、肩を壊してしまって。腕がもう、あがらなくなってしまいました。そうですね。特待の話は、もちろんいただいていたんですが、それも、なくなってしまいます」。
なんということだろう。ただ、関口氏は、たんたんと語るだけである。
「高校はもちろん、テニスではなく、ふつうに『寒川高校』という香川にある高校に進学します。野球は何度か、甲子園に出場しています。私自身は、部活をやるでもなく、ともだちと群れて遊んでばかりです。当時、バンドブームだったことあって音楽にはハマりました。高校1年から週4日、朝の3時までライブハウスでバイトをしていました」。
朝の3時まで? 
「そうですね。授業時間は、睡眠時間です/笑。ただ、遊んでばかりでしたが、実は、バイト代はちゃんと貯金していました。早く親元を離れ、独立したかったからです」。

さらば、香川。

「大学は、大阪電気通信大学に進みます。念願の独り暮らし、スタートです」。
高校時代から深夜バイト。一人で生活するちからはある。貯金もあるから、親にも頼らなくていい。ところが、私立だし、お金もかかる。入学したのはいいが、後期の学費がどうもねん出できそうになかった。
「それが、分かったんで、1ヵ月で早々に退学です。意味がないし、香川を出るっていう目的はもう果たしたわけですから。しかも、親にはお金も頼っていないですし」。
大学進学は、いうならば、香川をでる口実だったし、カムフラージュだったのかもしれない。大学からも、解放されて、晴れて、独り。何者にもしばられない。
「最初は、ともだちのコネで製薬会社に就職します。でも、1ヵ月くらいで、すまん、と。速攻で、退職しました。次に、勤めたのが『天狗』という居酒屋のチェーンです」。
「天狗」はチェーンで、大型店だ。
「飲食は、言えばこの時が、はじめてでしたが楽しかったですね。とくに料理が面白かった。このバイトをきっかけに飲食に進みます。その時、知り合ったともだちが『オレは、(当時、有名なイタリアンの)ピアノピアーノに修業に行く』なんていって。それに、もろに影響されて。『じゃぁ、オレは、和食だ!』って、歓楽街、ミナミの鮨屋で修業を開始します」。
まだ、10代。
「その時の経験は、いまも生きています。給料はそう良くないですが、バブルの時代だったし、チップもいただけたし。在籍したのは、1年半です。生意気なこといって、半分、追い出されたようなもんです/笑」。
話を聞くと、関口氏の言い分のほうがまともだった。ただ、これは、記事にしにくい。「回転すし」まで、敵に回してしまいそうだから。

イタリアへ。

「このあと、ともだちの紹介で、イタリア、ローマに行きます。ただ、知っているのは、紹介されたお店の名前だけで、料理はもちろん、イタリアの知識も何もかもゼロです。だいいちお金もない。当時、片道のチケット代が15万円だったんです。私の所持金は、チケット代を含めて25万円。ええ、もちろん、帰ることができません/笑」。
むろん、イタリア語も話せなかった。それでも、青年は、ローマに渡る。
「たしかに、ローマのピッツアは旨かったですね。でも、正直いうと、それ以外の料理が塩っ辛くて、話になんない」。
塩辛い?
「ええ、そうなんです。イタリア料理って、うまみ成分が少ないから、塩で決めてくるんです。だから、どうしても味が濃くなる。もちろん、私も、その濃い料理をつくっていました。向こうでは住み込みで半年です。それから南フランス、スペインにも、出かけ帰国します」。
「それから、2年間は、イタリアレストランではたらき、スペインバルに移り、ダイニングバーと転々とするわけですが、このダイニングバーが長くて7年です。『梅田』の東通りにあるお店でした」。
ところで、イタリアでの修業はどうだったんだろう。「もちろん、勉強になりました。ただ、私がイタリア料理に魅せられたのは、実は、帰国してからなんです」。
どういうことだろう?

天才たち。

「天才としか言いようがない、イタリアンのシェフがいたからです。1人は『IL GHIOTTONE』のオーナーシェフのササジマさんです。単純に、めちゃめちゃ、旨い。もう1人が、『ラ・ルナ』のコツカさんです。この方はもう『天才』です。そういう言葉しか思いつかないですね。料理の味の決めかたって、料理人にもよりますが、たいてい1つか、2つなんです。でも、彼は7つ以上もっていました。それが、天才たる所以です」。
むろん、関口氏も、天才肌でもある。数字が、実力を証明する。
「ダイニングバーの話ですね。ハイ、私は、統括という役割で入社します。そう、梅田の東通りです。1年目は正直、たいへんでした。結果が現れるのは2年目くらいから。朝9時まで、営業を延長したんです。すると、同業の人が来るんですね。もう、朝ごはんの時間ですが、彼らにしたらちゃんと食べたい」。
「だから、朝もちゃんとした料理をお出ししました。たちまち『9時までやっている旨い店がある』って評判になって。もともと月商180万円だったのが、平均して600万円をオーバーします。そりゃそうですよね、朝5時からまだ3回転するんですから/笑」。
全盛期にはメディアの取材も毎月のようにあった。合計、7年。32歳で、独立し、「西天満」でイタリアレストランをオープンする。いよいよ、もう一人の天才シェフの登場だ。

PIZZERIA & BAR RICCO、オープン。

「ビジネス街だってこともあって、ランチ主体です。ランチは、11時にオープンするんですが、すぐ、満杯です。600万円借り入れたんですが、2年で返済します。ただ、ランチが主体でしょ。それもあって、流行ってはいたんですが、クローズしてます」。
思い切った選択だ。
「代わりにオープンしたのが、和食の海鮮バールです。『福島』という大阪駅から1駅の、ちょうど注目されだしたエリアがあって、その福島駅から徒歩30秒、最高の立地です。そこで勝負にでるんです」。
この店がヒットし、関口氏は、オーナーシェフとして、ひとつの地位を固める。さらに、それを盤石にするのが、冒頭で紹介した「天満」のピッツァリア&バール。この業態をスタートする時、知人の紹介で、2017年、世界大会2位のピザ職人、新添氏と出会っている。
「天満の駅すぐですね。5階建てのビルを1棟、丸ごと買い取りました。それがPIZZERIA & BAR RICCOです」。
話は冒頭にもどる。
天満は、いまやディープな食の街として知られている。飲食店が肩を寄せ合うようにして軒を連ねているのが印象的。そう、そのなかに、「PIZZERIA & BAR RICCO」もある。
むろん、新添氏のピッツアも外せないが、やはりオーナーシェフである関口氏のちからを抜きに語れない。かつて、関口氏が天才たちに会い、「めちゃめちゃ旨い」と唸ったように、次代をつくるシェフのたまごたちが、食して、唸ればうれしい。もちろん、日常食として、ピッツアを知り、楽しむことも含めて。

思い出のアルバム
 
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