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第731回 株式会社石川 代表取締役 石川敏樹氏
update 19/08/13
株式会社石川
石川敏樹氏
株式会社石川 代表取締役 石川敏樹氏
生年月日 1968年7月15日
プロフィール 埼玉県春日部市出身。辻調理師専門学校卒。東京會舘で、料理人としてスタート。様々なレストランで修業を重ね、2002年に独立。埼玉県越谷市千間台に、「ビストロ石川亭」を開業する。
主な業態 「ビストロ 石川亭」「大衆酒場 石川亭」
企業HP https://ishikawatei.co.jp/

反則的、でかさ。

すれちがった誰もが小学生とは思わなかったのではないか。小学6年生の時には、182センチの堂々たる体躯となっていた。野球ではエースで四番。球速は最速136キロだったというから驚く。高校進学前には、スカウトが鈴なりになったそうだが、当然のことだろう。
「小学生当時の住まいはUR住宅だったかな。そう、裕福でもなかったですね。兄弟は2人。私が弟です。小学1年の頃は、運動が得意だったんですが、だんだん太っちゃって。3年生のマラソン大会では、後ろから4番目。翌年もだめで。それが悔しくて、毎日、走っていたら、マラソンでは1位になるし、野球でも四番でエースになっちゃった。当時は電車も好きで、母の実家がある静岡の菊川まで各駅停車で行ったりしていました。こんなヘンな奴は、そういないですよね/笑」。
石川氏はいまも110キロとでかいが、小学6年生で180センチオーバーとは…。子どものなかに、大人がいるようなものだ。
「そう、ですね。4年生の時にはもう160センチあって、5年で170センチ、6年で182センチです。さっきも言ったように5年くらいから、体格がひきしまり、野球でもパフォーマンスをだせるようになりました。そうなると、軟式で130キロオーバーですからね、中学生レベルでは、もうだれも打てません。進学前にスカウトがきましたが、そういうのは断って、兄が通った公立高校に進学します。兄もこちらでエースだったんですね。ええ、当然、野球部です。でも、すぐに肩を壊しちゃうんです」。
絶対的なエースになるはずが、肩を壊して思い通りの投球ができなくなった。「人生のなかでも、トップクラスの挫折ですね/笑」。
それでも、1年半は野球を続けた。「だけどね。ベンチ外です。いま思えば、あの立ち位置はいい経験になったんじゃないかな」と石川氏。むろん、それは、いま思えば…、の話である。

みとれた。どこまでも高い、コック帽。

野球の代わりに始めたバイトで、大人の世界を垣間見る。17歳。新宿二丁目ではたらいた時には、間一髪の状況から逃げだしている。
銀座のスナックでもはたらいた。当時、月給が15万円。使い道がわからないから、財布にはいつも20万円くらいあった。「ファミレスくらいしか知らないから、たらふく食べても5000円くらいでしょ。そりゃ、なくならないです/笑」。
秋になると、仲間たちも野球を卒業する。「で、その時に、仲間4人で記念旅行をするんですが、その旅行で、俺たちの人生が決まるんです。え? なんでかって?」。
なんでも、いちはやく部活を卒業した石川氏はバイト生活を送りつつ、大学は無理だが、専門学校なら大丈夫だろうと進学先を調べていたそう。取り寄せたパンフレットのなかに「大阪あべの辻調理師専門学校」があり、「1日体験、交通費支給」と書いてあったらしい。
「でね。『いいじゃん、これ!』ってなるわけですよ。バカばっかりだから。何をするのか知らないけど、1日体験したら、とにかく往復料金がただなわけでしょ。料理なんて、だれ一人興味がなかったのに、『いいね、いいね』ってなって/笑」。 もちろん、石川氏も興味のない1人だ。
4人のうち3人はまだ、いがぐり頭。それでも、「通天閣」「なんば」「たこ焼き」…、なにわの夜が、頭のなかを駆け巡る。
「俺たちにしてみたらさ。体験なんてうっとうしいだけ。だりぃな、なんて思いながら、何がはじまんだろうって観てたらさ」。
一瞬だったらしい。「そう、一発でノックアウト。『すげぇ』って。心を鷲掴みにされるって、あるんですね。びっくりしちゃった/笑」。
もう、なにわの夜どころじゃなくなった。
「埼玉にもどった時には、料理は男子一生の仕事だって、4人が4人とも関西弁でまくしたてていたんです/笑」。
実際、石川氏ともう1人が「辻調理師専門学校」に入学し、残り2人も料理人のトビラを叩いている。
「オレは、コックになる」。
今度は、志高く、新幹線に乗り込んだ。和・洋・中。選択したのは、どこまでも高くつづくコック帽に憧れ、フレンチ。もっとも、いくら高い帽子でも、石川氏からすれば目の下にあったかもしれないが。
そして、1年が経つ。

世界を牛耳るために、起動する。

「私の料理人、人生は、東京會舘からスタートします。もう、世界を牛耳るくらいのつもりだったですからね。やる気、スイッチひねって、起動です。あ、華々しいデビューの話の前に一つ。面接があるでしょ。あれも、ちょっと忘れられないんだよな」。
「辻調理師専門学校」の時もそうだが、とにかく下調べなどしない性格である。大事な就職も、相手先のことは、ほぼ知らない。「新幹線のなかで、3時間だけ会社のことを調べたんです。でも、向こうにつくと人事の人がいらして、『知らないことは、知らないといいなさい』って、面接の心得を教えてくれたんですね。バカだから、あぁ、そうなんだって、ヘンに納得して。面接では何か聞かれるたびに、『知りません』ってやっちゃうんだな、これが」。
正直者なのか、なんなのか。
「たしか、『うちの社長の名は?』ってのが最初の質問。で、『知りません』でしょ。つぎが『うちの資本金は?』。はい、これも即答です。『知りません』。でも、表情みてたらわかるじゃないですか。だんだん、険しくなってくるわけです。アレ? 話がちがうぞって。それで、こっちも、もう開き直るんですね。それから、どんなことを言ったのか忘れたんだけど、とにかく、うちから4人受けて、合格したのは私だけ。それで、東京會舘時代の幕が上がるんです」。
東京會舘で、頭角を現す? 
「いえ、ぜんぜんです/笑」。
ただ、同期120名、熾烈な競争下で、石川氏の評価は悪くなかった。
「これはもうほんとにね」と石川氏。何かを思い出すように、目を細める。
「専門学生の1年。『串の坊』っていう関西の有名店で、住み込みではたらかせてもらっていたんです。いまはもう、でっかいんですが、当時は、まだ旦那さんも、奥様も、店にいらっしゃった。そりゃ、いい環境です」。
「そこで、いろんなことを教えていただくんです。先回りする、っていうのも、その一つです」。
先回り?
「そう。たとえば、上の人から『ボールもってこい』って言われるでしょ。でも、ボールって言ってもでっかいのからちっこいのまである。だから、いまから、何をしようとしているかを予想して、時にはほかの道具もいっしょにもってくんです。するとね。『お前、いい勘してんな』って」。
「何しろ、同期だけで120人もいるような会社でしょ。料理長なんて下っ端の名前なんて、知らない。だから、『おい』です。基本は。でも、私だけ『いしかわ』って名で言われるようになっていくんです」。
「もっとも、だからどうなんだって、言われてもね。やってることは、みんなといっしょ。2年間はパンドリーといって洗い場でしょ。でも、この時にも、いろんなことを勉強させてもらったな。でも、料理は、まだぜんぜんです。さかなにも、肉にもさわったことがない/笑。そうこうして、5年目になった時かな。『これからどうすんだ?』って聞かれて、独立したいっていうと、『じゃぁ、こんなところにいちゃだめだ』って。オイ、ほんとかよ、って/笑」。

グランシェフにみやぶられた、いまのちから。

たしかに5年間在籍したが、ちからは、ぜんぜんつかなかった。ただ、東京會舘といえば、だれもが一目置く。ともかく、先輩の紹介で町場のレストランに就職。
しかし、料理人の端くれにもなれないでいる。いけないことにお金を遣いまくり、借金は600万円。伊豆のリゾートホテルや、蓼科のホテルで缶詰めになりながら仕事をして、借金も返済する。
「だいたい、料理人の給料ってくそみたいなんです。月に7万円とかね。最賃なんて、概念がない/笑。でも、蓼科の時は40万円くらいあったから、めぐまれてましたね。借金が返済できたのも、そのおかげです。代わりにコンビニへは22キロ。レンタルビデオショップへは33キロ。陸の孤島です。3年半いました」。
東京會舘で仕事をしていたというだけで、期待された。しかし、実は、さかなもさばけない。5年程度では教えてもらえなかったからだ。「だから、どこにいっても、『おぅ、やっとけや』みたいなね。下のもんにやらせて、ごまかしていたんです。でもね。蓼科のホテルの次に行った、赤坂の会員制のレストランで丸裸にされちゃうんです」。
「なにをどう間違ったのか、そのレストランで、さかなのトップで採用されちゃうんだよ。『できる?』って聞かれて、『あぁ、まあ』って」。
「そりゃ、向こうさんは、できると思いますよね。東京會舘出身。伊豆でも、蓼科でも仕事をしてきたわけでしょ。だけど、ほんとは、ぜんぜんできない。だから、こちらでも、とにかく下のもんにさせていたんですね」。
「でも、知ってたんかなあ。ある時、グランシェフが、いきなりブチ切れるんです。『バカヤロー!お前が手本、みせんだよ!』って。手本? みんなが俺を観てるんです。やんないわけにはいかない。でも、できっこない。しかも、その時、さばくのは、とんでもない鯛だった」。
いままで、顎で使っていた部下たちの目が、石川氏にそそぐ。「期待」が「軽蔑」にかわるまでそう時間はかからなかった。料理人はもちろん、人間としても、地に落ちた。
石川氏の横で、石川氏を採用したもう1人のシェフが「だまされた」と呟くのが聴こえる。「でもね。みんながあきれるなかで、そのグランシェフだけ違ったんです。後ろからね、俺の手をもって、『こう、この角度からだよ』『バカヤロー。こんな切れねぇ包丁遣いやがって。オレのをもってこい』って。ちからが抜け、人形のようになった俺を操りながらさ。バカな俺だって羞恥心くらいあるわな。でも、どうすることもできない。なすがまま、でした」。
いまからできることは、もう一つしかない。巧くなるだけだ。つまり、ハッタリをハッタリでなくすしかない。
「いまがあるのも、あのグランシェフのおかげですね。いっちゃあ、なんだけど、あの時はほんとに世界一、頑張った。だから、たぶん、世界一、さかながさばける料理人だったと思う」。
これが、石川氏30歳の時。

独立。従業員も、客もいないくなる。そこからの逆転。

33歳。石川氏はそのレストランを離れ、独立。2002年4月、埼玉県越谷市千間台に、「ビストロ石川亭」を開業する。12坪、 20席の小さなビストロだった。
「最初は、うまくいってさ。奥さんも、アルバイトも、お客さんもいたんだけどね。でも、俺が怒るからさ。だんだん、雰囲気が悪くなっちゃって。客はもちろんだけど、アルバイトも、ついには奥さんまでいなくなっちゃった。真剣だったんだ、俺にしたらさ。だから、小さなミスも許せなかった」。
ただ、そうやって、石川氏自身がでっかいミスをしていることにきづかなかった。4月にオープンして、7ヵ月後の11月。すべての小銭をかきあつめて、6700円。それが、全財産だった。いまから思えば、想像もできない世界である。
しかし、それが、現実だった。
ちなみに、現在、店舗数は9店舗となる。2006年には、内神田に移転。2008年には法人化もしている。「すべてが、いまにつながっているといえば、そうですね、つながっています。野球だって、いまにつながっている。正体を暴露され、操り人形のようになって、さかなをさばいたのも、ぜんぶ。無駄なことなんて一つもなかったかもしれない」。
石川亭で、グルメサイトをググってみると、押しなべて高評価だった。それを観て、やはりこの人はあなどれないな、と思った。
巧妙で、コミカルなトークで、こちらを引き込みながら、時折、真理をぶっこんでくる。
「まぁさ、俺の料理人の人生っていったらさ。東京・大阪間の旅費から、生まれたようなもんでしょ。だって、そこからはじまっているんだからさ」。
いまなら、特急代込みで、往復3万円弱くらいか。のちの600万円の借金と比較すれば、ささやかなお金だが、ただ、その価値は途方もなかったといえるのではないだろうか。

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