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第744回 株式会社COMATSU 代表取締役 松村宗孝氏
update 19/09/24
株式会社COMATSU
松村宗孝氏
株式会社COMATSU 代表取締役 松村宗孝氏
生年月日 1975年11月5日
プロフィール 高校卒業後、サラリーマンになりたくて、アパレル会社に就職するも、父親のDANには逆らえず、飲食の道に進み、独立を志す。東京ではたらきつつ、時にイギリスに渡り、進むべき方向を定める。ONOグループの代表、小野孝社長に出会ったのは、いったん、福岡にもどった時。11年間、小野氏に指導を仰ぎ、36歳の時に独立を果たす。
主な業態 「コマツ」「cave de comatsu」「コマツ プルミエ」「China Stand 二兎」他
企業HP https://comatsu.co/

大人たちが笑顔の花を咲かせる、スタンド・バー。

自由人というイメージにちかい。競馬も、競輪も、たしなんだ。料理もうまい。今回、ご登場いただいた松村氏の父親の話である。
「そうですね。自由人にちかいですね。好きなことをしている人でしたから」。
父親は、松村氏らが暮らす住まいの階下でスタンド・バーを経営していた。「ちっちゃな、スナックのようなバーだったんですが、毎日、いろんな人がいらして。親父も、お客さんもそりゃ、楽しそうでした」。
大人のたまり場みたいなものだった、と松村。
「父親が楽しそうで、いま思えば、あの父親の姿が、私の原点ですね」。
子どもながら、手伝った記憶もある。シェーカーで植木に水をやっていた、と笑う。
「住まいも、店もボロボロで、ぜんぜん裕福ではなかったですが、食べ物だけはいいものを食べていましたね。たぶん、儲けはわずかだったんでしょうね。高校に進学する頃になると、そういうのもだんだんわかってくるじゃないですか。だから、最初は、進学するつもりもなかったんです。ただ、たまたま中学の時にやっていたバスケットボールのおかげで、特待生で獲っていただける学校があって」。
それで、進学。
「そうです。学費も、入学金もいらない、というお話だったので。ただ、高校2年の頃に、今度はだんだんバスケットボールにさめてしまいます。バスケットボールで食べていける、そこまでの自信もなかったですし、だんだんと将来が不安になってくるんです」。
バスケットボールばかりやっていて大丈夫だろうか? そう思うと、ちからがはいらなくなったそう。
「じつは、ひざの半月板を損傷しちゃうんですが、それも、けっきょくそのまま。治療代がなかったし、そうまでしてやらなくてもいいかって」。
父親は、お金にしばられるような人ではなかったが、子どもたちはそうはいかない。「とにかく、仕事をする、それが、いちばんでした。だから、大学への進学は頭になかったですね。その時、就職したのはアパレルと飲食をやっているハイブリットな企業です」。
アパレルに興味があったから、と松村氏。こういうと、怒られてしまうかもしれないが、ごくありふれた志望動機だった。

東京へ、イギリスへ。青年の旅がはじまる。

「私は父親を尊敬していますが、私自身はサラリーマンになろうと思っていました。反動といえば、反動ですね。それで、就職も、アパレルの会社に就職したんですが…」。
サラリーマンはたいくつでしたか?
「正直、楽しくなかったです/笑。一度、飲食部門にヘルプに行くんですが、じつは、それが楽しくて。オレってやっぱり飲食が性に合っているんだ、と/笑」。
父親のDNA?
「そうですね。私のなかにいる父親を感じました。やっぱり、DNAには敵いません/笑。父親とおなじバーテンダーをはじめたのは20歳の時です。もう、DNAが開花したっていうか、楽しかったです。とくに、地元ですから。ただ、『これじゃ、いけない』って思うようにもなるんです」。
知り合いがいないところでないと、バーテンダーのちからを図れない。たしかに、そうかもしれない。ただ、「だから、東京へ」というのは、距離が離れすぎているように思った。しかし、まだ、東京はちかいほうだった。
「23歳の時に上京します。ただ、バーではなく、お酒を知ろうと思って酒販店で勤務します。そのかたわら、いろんなバーを観て歩きました」。
そして、なんと、イギリスのパブを観たくなって、イギリスにも渡っている。
「アイリッシュパブのようなバーをやりたいと思うようになりました。これが、イギリスに向かった理由です」。
ロンドンは2泊だったが、スコットランドやアイルランドの田舎町を回ると、とたんに楽しくなり、いくつかのパブで飲むうちに、おぼろげだった構想が、明確なかたちとなる。
けっきょく、この時は3ヵ月滞在。
この旅は人生においても、いちばんの財産になった。しかし、やりたいことが明確になっても、すぐにできるわけもない。
インターバル。松村氏は、いったん福岡にもどる。

16社目でもらった初の、合格。

「お酒では、それなりのプロにもっていましたが、料理はできません。そういうこともあって、ちょっと最初にもどろうと」。地元にもどった松村氏は、飲食店を経営する小さな会社に就職した。
「就職したのが、有限会社ディー・ディー・カンパニーという会社で、これが小野 孝社長との出会いです」。
「じつは、それまでに15社落ちた」と松村氏は笑う。いまもその理由がわからない。
「こういっちゃなんですが、大手チェーンも受けました。あの時は、え、この人たち、困っているんじゃないの? って。ええ、相当、落ち込みました。16社目が、ディー・ディー・カンパニーで、面接官が小野社長だったんです」。
「いきなり、怒られた」と松村氏。だが、話すうちに、たがいに引き込まれた。「いま私があるのは、あの面接の、数十分のおかげですね」。
人生には不思議な出会いがある。
15社に「いらない」と言われた。唖然とするしかなかった。どうして? 当時はそう思ったが、今なら、ノーと言ってくれたことに感謝したいくらいである。
ちなみに、小野氏はいま飲食店を11店舗経営されている。
「小野社長と出会ったのは、なかなか就職が決まらなかった時ですから、25歳の時ですね。ほんとに、いろんな経験をさせていただきました。まだ、社員も1人か、2人くらいの時ですからね。店も最初は1店舗だけです。でも、ぜんぜん、それじゃ終わらない人だったんです」。
松村氏は、小野氏の下、文字通り奔走する。
「一つとして、おなじ店がないんです。鮨でしょ。和ダイニング、洋食、ラーメン…。私は、いつしかナンバー2という立ち位置で仕事をさせていただくようになりました」。
11年間、小野氏の下で、薫陶をうける。
「独立という思いはつねにあったんですが、具体的な計画に移すことはしませんでした」。
そりゃそうだろう。ナンバー2として、ONOグループを動かす。起業とある意味かわらない。そんな松村氏に転機をうながす事態が起こる。

1号店、オープン。

「2011年に父親が他界します。そして、震災です。改めて、人生について考えさせられました。やりたいことをやらない、と。そう思って、36歳の時に、独立して小さな酒場をはじめます」。
小野氏も、背中を押してくれたそうだ。
「私が抜ければ、たいへんになるのはわかっていましたから、ある程度、準備期間を設けて独立と思っていたんですが、小野社長は『そういうのは、思い立った時がいいんだ』と。ありがたいですよね」。
背中を押してくれただけではないだろう。どんな社長になればいいか。小野氏は、間違いなくお手本を示されている。
独立してどうでしたか?
「おかげさまで、最初から悪くなかったんですね。ただ、オープニングの時だけって約束で手伝ってくれていた友人2人がいなくなった時はどうしようかって、割と真剣に悩みました。料理は、ポテトチップだけにするかって。そういうわけにもいきませんしね/笑」。
ただ、この時の不安は、「1人じゃできない」という発想になって、プラス方向にはたらいたのではないか。ひょっとすれば、この思いがいまをかたちづくっているようにも思うからだ。
「1人じゃできない。でも、だれかといっしょならできる」。
このあと松村氏は、次々と出店を重ねていく。2013年には法人化も実現した。2019年、現在、福岡では、絶対的な人気を博している。
「COMATSU kitchen & bar」「Comatsu imaizumi」「cave de comatsu Imaizumi」「Comatsu Premier」「リバーサイド コマツ」「ニューコマツ」「地下のニューコマツ」「欧風酒場食堂 パーラーコマツ」「China Stand 二兎(ニト)」。
じつは、ここまでが、福岡の店。そして、2019年7月段階で残す1店が、都内に出店した「コマツ神田西口商店街」である。

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人を愛す。それが父のDNAの正体。

「こちらは、戦略的な位置づけで出店しました」。 ビルを一棟借りしている。 「1Fは、店舗ですが、2Fはセントラルキッチンです。3Fには従業員の宿泊スペースです。じつは、セントラルキッチンがミソで、9月27日にオープン予定の『日本橋コレドテラス』に出店するための準備の一つです」。
おそらくセントラルキッチンを活用するのが、いちばんの目的なのだろう。そういうと、頷きながらも松村氏はいたずらっぽく笑う。
「じつは、3Fの従業員の宿泊スペース。6人くらいは寝泊まりできるんですが、それが、いいなと思っているんです。福岡の人間にすれば、言っても福岡いちばんなんですよね。でも、飲食の世界でいえば、絶対、東京がいちばんです。だから、向こうのスタッフに、数週間単位でいいんで、こっちに来て頑張らしてみたいんですね。気に入れば、もちろんこっちではたらけばいい」。
何かをはじめるきっかけになればいい?
「そうですね。私も東京に来たり、イギリスに行ったのが、財産になりました。うちの若い子らにも、そういう経験をさせてあげたいんです」。
グルメサイトをみると、スタッフの態度をほめるコメントが多数あった。これは、松村氏あってのことだろう。今回のインタビューを通じて、それを確信する。
父から子へ、DNAはバトンされ、スケールは大きくなった。ただ、人と話す、その時の笑い声はかわらないはずだ。

思い出のアルバム
 

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