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第750回 株式会社全力の元 代表取締役 河方 卓氏
update 19/10/15
株式会社全力の元
河方 卓氏
株式会社全力の元 代表取締役 河方 卓氏
生年月日 1974年3月28日
プロフィール 福岡県東区生まれ。中学卒業後、就職し、様々な職を転々とする。一つの求人広告を観て、福岡から金沢に飛ぶ。セールスマン時代に知り合った飲食店、店長に惹かれ、飲食の世界へ。31歳で独立。後輩のラーメン店を譲り受け、自身の1号店をオープンする。
主な業態 「神仙」「神やぐら」「らぁめん秀」
企業HP https://zenryokunomoto.co.jp/

海と祖母とラーメンと。

「ラーメンでも食べてきんしゃい」。
祖母は、そういって、お小遣いを渡した。
「生まれてすぐ両親が離婚したこともあって、私は、父方の祖父母に育てられます。とにかく、祖母のあとを追いかけているようなおばあちゃん子でした。ただ、祖母は料理が好きじゃなくって、うまくもなかったので時々、小銭を渡してくれるんです」。
その時、添えられた言葉が冒頭の一言。「定番は久留米ラーメンです。とにかくラーメンが大好きになったのは、おばあちゃんのおかげです」。
父親はフレンチのコック。後輩に今や超有名なラーメンチェーン店の社長がいらっしゃるとか。「なんだか、いろんなことが今につながっていますね。ともかく、ちっちゃい頃いただいたラーメンは、おばあちゃんには悪いけど、私にとって何よりのご馳走でした/笑」。
河方氏は、1974年、福岡の東区に生まれる。「東区は、海に突き出たような格好をしています。私が通っていた小学校は当時、日本でいちばん海にちかい学校でした」。
校庭にも潮風が流れこんできた。「好きだったのは、野球です。みんなの打順を勝手に決めたりして。それでついたあだ名が『キャプテン』です」。
目立つことも大好きだったらしい。
その一方で、祖母から「人に喜ばれるようなことをしなさい」と何度も諭された。「祖母自身がそういう人だったんです。だから、祖母の背中をみて、言葉と行動がリンクしたっていうか。『ああ、こういうことをしなくっちゃいけないんだな』って。この教えは、今も私の心の背骨を貫いています」。
海と祖母とラーメンと。
河方氏の少年時代は、この3つの単語で語ることができる。

17歳の出立。

「中学になって、だんだん祖母とも話さなくなっていきました。だいたい私らが住んでいたのは『和白』っていう地名なんですが、不良だらけの町だったんです。そういう影響をモロに受けて、祖母がいさめても耳を貸さないっていうか。でも、あっちの世界に行かなかったのは、やはり祖母のおかげですね」。
深い愛情は時にうっとうしくもあったが、くさびになった。
「うちの経済事情もある程度わかっていたんで、高校にはハナから行くつもりはなかったです。それに、なんだかんだと言って祖父母が大好きだったので、早くうちにお金を入れなくっちゃって思っていたんです」。
それで、就職?
「そうです。15歳でうちを出て、最初に仕事をしたのはペンキ屋さんでした。でも、半年だったかな、つづいたのは/笑」。
職を転々とする。
「大工、石屋、何をやってもつづきません。そのうちいっしょに住んでいた先輩が東京に行くことになって。じゃぁ、いったんうちにもどろうか、と。それから、1ヵ月、無職で何もしません。さすがに、これではまずかろうと飛びついたのが、新聞に載っていた一つの求人広告でした」。
「あなたも百万円、稼げる」「寮完備」の、2つのキャッチフレーズが頭を駆け巡る。「だいたい石川県なんて、どこにあるんだ?って。まぁ、勉強もしてないからわかんないんですが、なんとかなるだろうと/笑」。
大好きな祖母が玄関で見送ってくれた。
「人に好かれるよう頑張りなさいよ」。
その一言は、祖母の表情といっしょに忘れない。河方氏、17歳の出立の話である。

ベンチで号泣した夜と、救いの神と。

「100万円」と「寮完備」に惹かれ、何をするかには目を向けていなかった。仕事内容はやったことのないセールスだった。しかも、けっこうハード。
「みんなすぐに辞めていきました。ベテランの先輩から若い子には無理だなと言われた。高額なアイテムだったんで、若い子には説得力も、信頼もないから無理なんだって」。
無理と言われて、ハイ、そうですかとは言えない。
「若い子っていうんですが、そのなかでも私は断トツで若いです。17歳ですから。それでも、『やると決めたら、やるんだ』と。だれよりも多く、件数を回ります。はじめての受注はいまでも忘れられません。80代のおじいさんで神主さんでした。あとで聞くんですが、『何を言っているのか、ぜんぜんわからなかったが、とにかく一生懸命だったから』って」。
件数を回っただけではない。勉強もした。風呂につかりながら、商品の説明を何度も繰り返した。だれもいない公園のベンチで号泣したこともある。無謀だったかもしれないが、真剣だった。
「けっきょく10ヵ月で私も辞めますが、支店でトップの成績を残しました。全力やれば結果でる。これも、私のひとつの原点ですね」。
辞めるきっかけは、飲食だった。

「神仙」の始まり。

「飲食店に18歳で入社し、23歳まで勤務します。そのあと、独立し、BARをオープンするんですが、3年でたたみ、もう一度、前の飲食の会社に採用してもらいました」。
飲食の仕事はきらいではない。ただ、社長業はしばしお預け。そして、5年後。
「31歳でもう一度、独立するんですが、何が何でもっていうわけじゃなく、尊敬していた社長が突然、引退宣言されたからなんです。ええ、だから、プランもないまま、どうしようか? 何をすればいい? その時、浮かんだのが、昔から大好きだったラーメンです」。
じつは河方氏、週に5日ラーメンを食べるというラーメンマニアに育っていた。
「最初は、BARに勤めていた後輩が、ラーメン店を経営していましたので、そちらで仕事をします。金沢にラーメン店は、そう多くないこともあって、当初はうまくいきましたが、だんだん業績も下がります」。
ついに、店を閉めることになったそうだ。
「それで、知人からお金を借り、私がそのお店を譲りうけます。こういうとなんですが、私が経営すればもっとうまくいくという自信があったからです。もっとも、今のままではだめだってことはわかっていましたから、最高のスープをつくるまで、再オープンしないと決意したんです。これが、あれだけたいへんなことになるとは思ってもいなかったんですが/笑」。
店を買って、もう金がない。極貧。しかし、妥協はできない。全力。
「灰汁を飲んだり、豚の脳みそを生で食べたり。もう、取りつかれたように試行錯誤するんですが、なかなか、これといったラーメンができません。朝、いいなと思っても、夜になると、だめとか/笑」。
1ヵ月経ち、2ヵ月経ち、家賃も業者への支払いも滞納しがちになる。信用もないから、すべて現金。もう、数万円しか残っていなかった。
「もういっぱい、いっぱいでしたね/笑」。
「納得できるラーメンができた時には、試行錯誤をはじめてなんと半年が経っていました。忘れもしません、12月の26日です。28日をオープン日と決め、27日にはレセプションを開催しました。ありがたいことに好評で、オープン日にも限定100食がなくなりました。ただ、食べていける。最初の数年は、そんな状況でしたね。いろいろ払いを済ませたら、5万円しか残らないとか/笑」。
これがいえば「神仙」の始まり。
ちなみに、店名の「神仙」とは、神様の弟子ということだ。

とにかく、喜ばれる「元」になろう!

現在、「全力の元」は、金沢、東京都内に8店舗を展開している。法人化したのは、1号店を出店して6年経った時。2019年、今期で法人化して8期目となる。いうまでもなく、順調だ。
転機は、11年前に「北陸ラーメン博」に出たことだという。地元のTV局にも取り上げられたそう。
「ラーメンと、かき氷」で話題の「Sulbing Cafe×神仙 キュープラザ池袋店」についても聞いてみた。
「こちらは、韓国デザートのソルビンカフェと、金澤濃厚豚骨ラーメン神仙のコラボ店です。後味がすっきりしているソルビンとラーメンは相性が合います。アルバイトの募集では700名の応募がありびっくりしました」。
いうまでもなく、連日にぎわっている。河方氏によれば、今後もラーメンと何かをコラボさせたワクワクするブランドをつくっていきたいということだ。
そんな河方氏の目は、消費者だけではなく、従業員にもしっかり向いている。
「趣味は、筋トレです。いつまでも元気でいたいですから/笑」。結婚は35歳の時で、9歳と6歳の娘がいる。夫婦円満。「嫁は今でもお弁当をつくってくれる」とのろけ話を一つ。
「人に好かれるよう頑張りなさいよ」。
祖母の言葉が蘇る。河方氏を見送った祖母が、祈りを込めながらつぶやいた一言は、いま、間違いなくかたちになっている。
これも、何事からも逃げず、前向きに頑張ったおかげだろう。だから、河方氏は、従業員にいいつづける。とにかく、人に与えられる前に与える「元」になろう!と。

思い出のアルバム
 
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